今月のゲスト作品は全郎さんの「PEACH JOHN」でした。
この連作でわたしがかんがえてみたいのが、「chapter01」から始まっていて、「chapter02」で終わっているところなんです。
これが、まず面白いなっておもいました。
さいきん、グリーナウェイの『ザ・フォールズ』っていう映画を観なおしていたんですが、これも映画をチャプター志向でかんがえる映画っていうか、ともかく99人の鳥と飛行と墜落にとりつかれたひとびとがでてきて、その99人を辞書的に記述していく映画なんですね。だから、この映画は物語が記述をうむのではなく、記述が物語をうむ映画なんです。
もっといえばどこからはじまってもいいし、どこでおわってもいい。すべては記述なので。全体性としての、パッケージングとしての映画ではなくて、部分的な、チャプター志向の映画なんですよ。
で、この前郎さんの連作。句っていうのはひとつのチャプターになっているわけです。全体のなかのひとつのチャプターです。けれど、全体を知らなくてももちろん句ひとつだけでも意味は成り立つ。だから全体のなかの一部でありながら、その一部そのものが全体にもなっている。そうした句と全体の関連性がこのチャプターにはある。
で、もうひとつ。この連作の最後の句は、チャプター2で終わっているけれど、2もあるってことはチャプター3もあるかもしれないということですよね。4も5も。この連作の外部に。
ということは、この連作自体もひとつの〈チャプター〉なんだとかんがえることができます。つまり、連作がたくさん並んでいってまたひとつの全体ができあがるというような。そのなかのひとつとしての〈チャプター〉としての連作になっている。
で、連作ってなんなのかをあらためて考えてみた場合、そうした個と全体性のたえまない往還関係を創造することなんじゃないかっておもうんですね。それは決して閉じた閉鎖系としてのパッケージングではなくて、無数にあちこちが反射しあって細部からひらかれていくそういう複雑系とでもいえばいいんでしょうか。それが、連作なのではないか。いや、連作化する連作なのではないか(構造化する構造のような)。
そういう創造のしかたが連作の可能性としてあるのではないかとおもうんですね。
たとえばこの連作は〈桃太郎〉の気配にみちているけれど、でもタイトルは女性向け下着通販会社になっている。でもピーチジョンってなんだか和訳としては桃太郎のようなかんじもする。じゃあこの往還関係はどうなっているんだろう、とか。こういう往還関係がこの連作のなかになあちこちに仕込まれているようにおもう。
そういう往還関係をいかに個と全体性の関連性のなかで仕込んでいくか。それが連作には問われているようなきがするんですよ。
連作って、なんなのか。
桃剥いて桃の血を吸うカリキュラム 兵頭全郎
