2016年01月31日

レクイエム:200字川柳小説  川合大祐

一匹の、人間がいた。彼がどこで生まれたのか、彼がどんな生涯を送ったのか、彼がどんなふうに死んでいったのか、我々は何も知らない。ひょっとしたら、我々は彼について何も知らないかもしれないのだ。ただ、道にバナナが落ちている。皮ではない。実のつまったバナナだ。それを拾えなかった象が、確かにここにいたはずなのだった。バナナを持って、しばらく佇んでいた。鼻息がした。ああ、間違いなくその象は彼だったと確信した。

  鼻でバナナをつかめなくなった象  宮本夢実

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2016年01月30日

【連載放談】普川素床読解入門 小津夜景×柳本々々−第3回 いざ最悪の方へ−


  ギャグを考えていると闇がじゃあね、と云った  普川素床

 
【大いなる不能】
柳本々々(以下、Y) こんにちは、もともとです。前回は、〈語り口〉の問題、主に表記の問題をみてみました(「普川素床読解入門−第2回 ねえジョウ−」)。今回はこの句の〈内容〉に踏み込んでみたいと思います。どんなふうに物語られているかという〈語られ方〉の問題にもなっていくのかなと思っています。

小津夜景(以下、O) はーい。

Y あ、今週も元気ですね。わたしも三週目に入って少しずつですが元気を取り戻している気が自分ではしています。
で、ですね。今回はこの素床さんの句の内容に踏み込んでみるということでわたしなりに考えてみると、まずですね、《意識の逸脱》というか《気散じ》というか《散漫》というか、なんだろう、「ギャグ」ってせっかく発話したのに、そこから「ギャグ」の話がぜんぜん出てこない。「ギャグ」から「闇」に重心がうつってしまうのがとっても気にかかるんですよね。「ギャグ」って割と比重の大きい言葉だと思うんですね。せっかくそこで発話を始めたんなら、「ギャグ」の話をしたいと思うのが、川柳の思考なのではないかとも思うんですよ。

O そ、そうなのですか! 川柳って。

Y い、いやすいません、てきとうなことを言ったかもしれない。よくおおぶろしきをひろげながらてきとうなことを言うことがあって。どうしようか。でもそうじゃないかな。17音しかないなら、ギャグではじめたんならわざわざ「闇」の方にいかなくてもって思うんですよね。ギャグの話をすればいいじゃないかって。ただもちろん、あえて意外な方向にいって意味を衝突させるっていう方法もあるから一概には言えないんだろうけれど。ただとりあえずミヒャエル・エンデのファタージエンの世界みたいにとつぜん「闇」が吹き出してくる。そういう句ですよね。
ところがなんだか「ギャグ」の磁場を無視して「闇」が出てきてしまう。で、自分なりに〈ギャグ〉ってなにかということについて文化の機能としてあらためて考えてみると、〈ギャグ〉って語る人間が主体性を獲得して読み手を支配下におくことだろうと思うんですね。あるひとがあるひとにギャグを放つ。これ面白いだろ、わかるだろ、理解できるだろ、おかしいだろ、という意味のコードに誘いかけ、受け入れさせ、思わぬショックを与え、身体をゆらし、笑わせる。そういう相手を思わぬ言葉によって、手懐けてしまうというか、〈意味がわからないまま〉に〈意味を受け入れさせてしまう〉、それが〈ギャグ〉なのかなって。だからその抵抗にあえば、相手は笑わないと思うんですよね。そうすると〈ギャグ〉は失敗してしまう。だから〈ギャグ〉は《意味の賭博》のようなところもある。

O なるほど。ギャグが《意味の賭博》である、という命題は生産的かも。

Y だからひとは一発芸をするときは、みんな、〈意味の命〉を賭けてやるもんだと思うんですよ。これやったらうけるのか、それともすべるのか。そういう意味が受け入れられるか受け入れられないか、自分の〈意味の帝国〉が築けるか築けないかのドラマチックな部分がギャグの始発にはあると思うんですよ。だから〈お笑い〉ってスリリングなのかなとも思うんですね。観ているうちに自分が支配されるか支配されないかの臨界のようなところにいっちゃうから。だけれど、そういう〈ギャグ〉のドラマがないがしろにされて、「闇」が出てくる。しかも「闇」が「じゃあね」という。意味の支配者になろうとしていた人間が、意味の被支配者に即座に反転させられる。もしくはこういったほうがいいかもしれませんね、意味のゲームを展開しようとしていた矢先におろされてしまう。そういうところがあるのかなあって思いました。たとえば普川さんのおなじような質感をもった句に、

  もっと死んでいたかったのに落下傘ひらく  普川素床

が、あると思うんですが、なにかこう〈自分がこうしたかったのに〉〈向こう側からやってきてしまったなにか〉という構造があるのかなあって思います。

O たしかに、主体の願望の〈頓挫〉は普川さんに多いかもしれませんね。

Y あ、頓挫(とんざ)か。好きなことばです。

O 完全な主体になろうとして結局つまずき、未遂に終わってしまう構造。他者や外部が割り込んでくるせいで〈自己同一性をめざす意味のゲーム〉が中断されてしまう構造。そんなパターンの句がたくさんある。それにしてもこの句、絵を想像すると笑えます。落下傘が「ぱっ」とひらいたときの「あっ」という表情を……。

Y いや、私もこういうときあるので、あんまり笑えないですけど……

O ………(微笑)

Y ……ええと、「落下傘」の句もそうなんだけれど、普川さんの一句鑑賞としてトピックとしてあがるのが《死》なのかなあっておもうんですね。「闇《が》じゃあね、と云った」と書いてあるけれど、《が》と話題を新しく提示する助詞が出てきた、「闇《は》」や「闇《も》」ではなかった。そのとき、語り手は「闇」に〈とうとつ〉に直面している。「闇」に直面したしゅんかんがこの句には描かれている。ギャグの死、意味の死、主体の死、光の死、時間の死。すこし大きく踏み込んでみると、いろんな死、いろんな「じゃあね」に語り手は立ちあったのかなあって思うんですね。しかも、期せずして。

O ええ。いま見たふたつの句の語り手たちは、「闇」や「死」といったすこぶる〈人間的らしい意味〉から突き放されている。〈人間らしい意味〉が「じゃあね」と梯子をはずして去ってしまう。こういうところ、普川さんはおそろしくクールな虚無の書き手だなと思います。特に「落下傘」はそれがわかりやすい。だって、この句の〈墜落=主体の死〉に直面できない状況というのは、つまり不能のことでしょう? フロイト=バタイユ的な生=性の充足に至らないという意味で。で、その行末が

  ボ、ボクはキ、キヨラカに外道  普川素床

みたいな句になる。

Y あっ、この句も〈外〉れてしまう句なのか。そうか、そういうふうにこの句を位置づけることもできるんですね。

O 〈人間らしい意味〉から突き放されると、人は人非人とならざるを得ないようですね。

Y なるほど、〈主体の外道〉なんだ。〈意味の外道〉というか。これもなんだかとつぜんだからね、「外道」って。「闇」みたいにね。

O ちなみに「キヨラカ外道」の句には、まるで〈私でない誰か〉が語り手を乗っ取って喋っているかの雰囲気があります。なぜそう見えるのかというと、読点の打ち方もさることながら、エイリアン的な片仮名の使い方が、主(語り手)と従(声)との〈倒錯〉の質感をつくっているわけです。その意味で、この句は当連載の第2回目にお話しした〈語り手の前に立ち現れる声の他者性〉や〈声の上演=表象〉の例句としてもふさわしいですね。

Y たしかに普川さんの句ってなんというか演劇的なんですよね。なんだろう、ドラマチックの演劇的じゃなくて、パフォーマンスの演劇的なんですよ。なんにもない舞台で誰かがなにかをしようとしている、というか。たぶんそのことについては次の回でお話するんじゃないかなと思うんですが。小津さんの言葉を借りると、そもそもが普川さんの川柳ってどことなくいつも〈主体不能〉というテーマがあるのかな。なにかを饒舌に・なめらかに・いきいきと語ろうとしたしゅんかん、〈不能感〉が襲ってくるというか。つねに〈去勢=虚勢〉に襲われているというか。だから言葉に対する意識も鮮明になってくる。言葉が不能になるということは、言葉のことをあらためて考えるということでもありますからね。ノイズはそういう自己言及性とか再帰性を運んでくる。

O ノイズかあ。そうだ、わかりやすくするために逆の例をあげると、「キヨラカ外道」の対極に位置するのが〈闇が私の中にある〉とか〈死が私の中にある〉といった主体構造になりますね。この主体構造においては〈人間らしい意味〉が私を包み込んでくれるので、ノイズのない、自慰的な、気持ちのよい虚無が楽しめる。前回の放談で柳本さんが「自分の意味の帝国」という表現をなさっていたけれど、この主体はまさに「自分の意味の帝国」の正統なる皇帝。片や、キヨラカ外道は「自分の意味の帝国」の異端児。

Y 意味の帝国を築こうとして失敗しちゃうわけですね。そういう構造になっている。〈きもちよく〉なれないわけですよね。だから、川柳ってそもそも〈きもちよさ〉と関係があるようにも思うし、社会批判とかも〈きもちよさ〉と関係がありそうなんですが(自分の主体が鮮明でないと批判はできない、批判という作業は自分の立場を鮮明にすることで相手をよそもの化すること)、でもその〈きもちよさ〉の不能感に覆われているのが普川さんの川柳だし、川柳構造だということですよね。

O んん、私は句集を読んでいないので、包括的な物言いはできませんけど。ただ柳本さんが教えてくださった句に限っていえば、普川さんにとって〈主体不能〉の問題はとても重要な問題のひとつだと感じました。

Y また積極的てきとうさで大きなことを言ってしまいますが、〈主体不能〉のテーマって現代川柳じたいに通底しているのかなあって思います。小池正博さんの句で、

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博

って句があるけれど、なんで〈たてがみを失〉わないと逢えないんだろうって思うし、なかはられいこさんの句に、

  記録には飛べない鳥として残る  なかはられいこ

って句があるけれど、どうして「飛べない鳥」を意識しなくちゃならないんだろうとか考えると、〈主体不能〉のテーマが出てくるような気がするんです。さっきの小津さんの言葉じゃないけれど、〈つまずけ、挫折しろ、弱くなれ、負けるのだ〉というか。ちょっと雑駁に大きく言い過ぎてるところはあるけれど、ただ自分があらためて現代川柳をどうして好きになったのかなあって考えると、〈そこ〉にたどりつくのかなって思うんですよ。川柳は、はじめから負け戦でいい、っていう。おなじなかはらさんの句に、

  げんじつはキウイの種に負けている  なかはられいこ

があるけれど、この「げんじつ」をそれでも負けながらなんとか描こうとするのが川柳なのかなって。むかし、そういえば、ちょっと思ったことがあるんだった。

O ふむふむ。実はわたしも「たてがみ」を失う理由については、普川作品の延長で思うところがあるのです。また今度の機会に申し上げましょう。

Y さて、自分語りを思わずしてしまいましたが、今回は句の内容や構造にしぼって夜景さんとお話をしてみたんですが、最終的に〈意味〉と〈きもちよさ〉っていうのが実は密接な関係にあって、その〈きもちよさの不能〉とそこからの〈言語意識〉が普川さんの句にあるのではないかということがわかってきたように思いました。次回はですね、普川さんの句をこれまではテクストレベルというか、内部構造でみてきたのですが、次回は普川さんの句を外部につなげるとどうなるか、この普川さんの句を外の文化や文学につなげるとどうなるかという話を小津さんとできるのではないかと思います(それは実は毎回のタイトルで予告していたことでもあります)。川柳はたえず外側にアクセスしている。川柳そのものが常にじぶんじしんにとっての〈外道〉である。そう思いながらきょうはお別れしたいと思います。それではまたこの時間に!

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2016年01月24日

マジョリティ・リポート  200字川柳小説  川合大祐

被験対象:地球あるいは世界と自称する物。実験目的:地球あるいは世界が完全燃焼可能か否かの確認。実験方法:1.霧深い中マッチを擦ってみることにする。祖国の67パーセントは燃焼したものの、世界という概念は焼尽に至らず。2.核戦争後、孤島の屋敷に放火することにする。屋敷は全焼したものの、サクリファイスとして世界が修復される。この方法も断念する。以上より結論づける。世界を燃やすには、藤という名詞しかない。

  藤という燃え方が残されている  八上桐子(「川柳ねじまき 第2号」より)

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2016年01月23日

【連載放談】普川素床読解入門 小津夜景×柳本々々−第2回 ねえジョウ−


  ギャグを考えていると闇がじゃあね、と云った  普川素床

【〈声〉の句読点】
柳本々々(以下、Y) こんにちは、やぎもともともとです。前回はこの一句の中に入っていくにあたって、表記と語り方の問題があるんじゃないかということを《闇》を軸にしてお話してみました(「普川素床読解入門−第1回 また終わるために−」)。それで今回は主にこの句の《表記》について問題にしてみようと思います。

小津夜景(以下、O) はーい。よろしくおねがいします。

Y あ、元気ですね。私は今まで人生で「はーい」って言ったことってないような気がします。「はーい」っていつになったら言えますかね。

O ………

Y ……はい。で、ですね、私が普川さんの川柳でときどき気になっているのが、記述意識というか、いま〈書いているんだ〉という意識です。これは前回、夜景さんが「エクリチュール」といったものと関係していると思うんですが、〈私が今こう書くんだ〉という〈書いている/書かれている意識〉です。たとえばこの句なら「じゃあね、と云った」の《、》という読点がありますよね。この読点って別になくてもいいわけです。口語だったらわかりませんしね。でも、ここには、ちゃんと、書いてある。これはなんなんだろう、ってころです。たとえば普川さんの他の句では、

  夜へ具体的に落ちる「オヤスミ」  普川素床

ここのカギカッコやカタカナ表記がそういう表記の問題になってくると思うんですよね。あるいは、

  ハハハヒヒヒ 鏡の眠っている部分  普川素床

の「ハハハヒヒヒ」です。カタカナにして反復することで、日本語が溶解して、文字の線が生態として波打っているような感じがでてくる。「鏡の眠っている部分」が非言語的にうごめいてくるような。

O 鏡は水と相性が良いこともあって、たしかに「鏡の眠っている部分」がさざなみ立つように見えますね。殊に横書きだと。

Y カタカナってどっちかっていうと意味や象形というよりは、〈線〉って感じがしますね。その意味で、日本語って意味に還元できない〈暗号的〉な〈非意味〉の部分をいつも抱え込んでいるんじゃないかとも思います。ラカンが日本語は日本語自体で精神分析していると言っていたこともちょっと思い出します。小津さんがおっしゃった鏡と水っていうとタルコフスキーの映画『鏡』を思い出しますが(漱石の小説でも〈水〉ってとても大事なモチーフですね、『三四郎』でも『こころ』でも『草枕』でも)、水も鏡もいろんなイメージを重層的かつ一瞬にして導いてきますね。すべてが映せてすべてが映らない「闇」にも似ているけれど。で、言ってみれば、これらの普川さんの句の表記には《書くことの娯しみ》のようなものもあるんじゃないかと思うんですよね。「ハハハヒヒヒ」と書くことの娯しみです。思わぬ文字の躍動に眼が娯しいわけです。手もうれしがる。でもその一方でその表記と拮抗するように、「じゃあね、と《云》」われたり、「オヤスミ」と《云》われたり、「ハハハヒヒヒ」と《笑われ》たりする。つまり、表記の問題とともに《口》もせりあがってくるんですよね。《口の愉しみ》というんでしょうか。それもなんだか興味深いんですよ。あの長音の記号で「ー」がありますよね。普川さんの句にもあるんだけれど、

  芋係芋の声して 焼けたぞうー  普川素床

っていう句があるんですが、この「焼けたぞうー」の長音の「ー」ですね。これが《書く娯しみ》と《口の愉しみ》が混成しあったような場所にあるような気もするんです。伸ばした棒を文字として書くことの娯楽(たのしさ)と、音を延ばしながら発声することの愉楽(たのしさ)です。普川さんの川柳には、口と手のよろこびがあふれている。

O なるほど。柳本さんは、記述を遡行してライヴとして眺めたときに、語り手の中で何が起こっていたのかに注目したのですね。

Y あ、そうですね。語り手がこれはうれしがっているんじゃないかなって感じたってことですね(笑)。読み込みすぎかもしれないけれど、でもどこかではしゃいでいる語り手も感じました。書くこと・語ることはこんなに嬉しいことなんだっていう。そしてそれをわたしは川柳という形態でやっているんだという語り手の自負というか、のびのびした感じがおもしろいなって思いますね。

O 私の方は至極オーソドックスに、こうした表記の修辞的効果を考えてみました。まず「ギャグを考えていると闇がじゃあね、と云った」の「、」はものすごく大切。これね、理詰めでゆくと容易には説明できない話ですけれど、この句って、この読点のお陰で、語り手にとっての他人として「闇」がキャラクタライズされているんですよね。

Y あ、そうか! この読点がつくことによって「闇」がキャラクター化されるんだ。それは、おもしろいですね。「、」が非生命にいぶきを与えるんだ。そういう考え方って今までしたことなかったな。川柳だけでなく他分野での句読点ってどうなってるんだと考えたくなるような着眼点ですね。

O 逆に言えば、ここに読点がなかった場合、闇と語り手の内面とがうまく分離されません。「じゃあね」が語り手の自己対話っぽく見えてしまう。

Y なるほど。そういう分節の役割もあるんだ。《内面の句読点》ですね。

O さらにこの句は闇にすら見放されたという事態がブラック・ギャグ的でもある訳で、闇と語り手とが全く別人だということが見えづらいと最高に具合が悪い。それがなんと「、」を入れるだけでエレガントに解決するんです。

Y エレガントな読点! なんだか事件の解決篇をきいているかんじがしますが、なるほどって思います(笑)。読点ってそう考えると、重層的なドラマをつくるのにすごくエコノミカルですね。「、」ひとつでそれだけ作劇ができるんだから。経済的だ。

O そうですね。記号ひとつで、闇の触感がぐっと語り手から離れる。まとめると、この句の「、」は闇を〈他者化〉すると同時に、闇と語り手との間の〈絶対的距離〉を示す断絶機能も果たしている、といった感じでしょうか。

Y なるほど。今、たった一句でどれだけ読めるかっていうのをやっているんだけれど、読点ひとつでもそこまで読み込んでみることもできるわけですね。となると、定型における読点ってほんとうに命がけでやらないと事故になるようなところもあるかもしれませんね。

O うん。死ぬよ(笑)

Y 言葉って、事故りますからね。そうなんだ、いつも言葉は事故る……ことば……ことば……ことばっていうのは……い

O (さえぎって)あと柳本さんが引用なさった他の句の表記についても、すべて〈語り手の前に立ち現れる声の他者性〉を描き出す工夫である、と私は捉えました。現実的にみても「じゃあね」「オヤスミ」「ハハハヒヒヒ」「焼けたぞうー」といった描写は〈主体が話すのを主体が聞く〉状況以外のなにものでもないですし。つまり普川さんは、ひとつの声が外部として屹立するような〈声の上演=表象〉を問題にしている。

 Y 声が、異物化されるっていうか、異化されるっていう理解でいいのかな。

 O 普川さんってね、自分の声を「立ち聞き」してるみたいよ。どうも。

 Y その〈分割〉こそが〈読むことへの誘い水〉みたいになっているわけですよね。あれ、これはヘンだぞ、なんか尋常ではないぞ、っていう。普川さんの句にそういういろんな〈句読点〉が埋め込まれている。時限装置みたいになっていて、あとからやって来た読み手がその句読点に着火していく。あの、あれですよね、誰でもやったことがあると思うのですが、自分で自分の声を録音したのを聞いているような感じですよね。自分の声なんだけれど、分離していて、どこか自分の声じゃないぞっていう。 むかし自分でよく擬似ラジオ番組つくって、あれ自分やばいぞって思ったりしたことがあったけれど。

O そうそう。私という存在がひとつのアイデンティティーに収まりきらない感覚。

Y そういう声の分離もトピックとしてあがってくるんですね。よく昔自分で自分の声を録音して聴いて「こんな声なのかい!」とのけぞったりもしてたんだけど……。まあその、みんなきっと、その、自分なりのオールナイトニッポンをつくろうとしたことが一度はあると思うんですが……

O …………

Y …………

O …………

Y ……ええと……なんかあれですね、私は《書く行為》ってもろにね、自分を分割する行為だと思ってたんだけど、《声》とか《おしゃべりすること》も分割というか《ズレる》ものも抱えているんですね。デリダが、パロールもエクリチュールなんだっていう意味がなんだか少しだけわかったような気になりました。そう考えると普川さんの句って、デリダがそのまま川柳になっているようなところもあるのかなとちょっといろいろ想像をふくらませてしまいますが。
はい。今回は《表記》の問題からはじめてみたんですが、そこが《声》へと結びついていきました。《表記》の問題っていうのは表記の問題内にとどまらず、語られた内容とどう関わり合って意味の磁場がつくられるかがわかったように思います。次回の予定は、この句の語られ方というか、語られた内容とその語られ方をめぐってのお話になると思います。それではまた来週の土曜のこの時間に。

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2016年01月17日

とうさくたかせぶね:200字川柳小説  川合大祐

ごそうされるしゅうじんほどたいくつなものはなくやつはうつむきぶつぶつつぶやいている/おれはきのうのにくじゃがにあたったようではらをさっきからくだしているがふねのなかではいせつはしにくい/きばをうしなった/かわがながれをやめるときこのせかいもながれをやめるのだろう/つめをうしなった/むいしきがこうぞうかされているというのはほんとうだろうか/しゅうじんがおれをみる/死はいっぽんのそうめんかもしれない。

  そうめんの中に一本高瀬川  なかはられいこ(「川柳ねじまき 第2号」より)

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