兵頭全郎さんが第一句集『n≠0 PROTOTYPE』(私家本工房・2016年3月18日発行)を上梓されました。川柳作品に加え、自作の二次創作的掌編「妄読」やエッセー「2010年代の川柳 〜女性アイドルグループ史からの連想〜」がいい間隔で差し挟まれ、ひじょうに考えられた構成になっています。現在わたしの知るかぎり、同句集は「葉ね文庫」さんに入ったということなので、句集を入手されたい方は、とりあえず葉ね文庫さんに問い合わせてみてはいかがでしょうか。
では、さっそく句集の感想に入ります。
全体的な印象として全郎さんの川柳というのは、新しい書き方に挑む姿勢がひしひしと伝わってくるのです、ちょうど明治末期の「新傾向川柳」で近代的自我=私性が持ちこまれたときのように。いわば、〈ポスト私性川柳〉の試行ですね。そうなると、全郎川柳とはどんな要素をもっているのかが大事になってくる。それを考えることが〈ポスト私性川柳〉に輪郭を与えてくれるからです。「お知らせ」カテゴリの範囲を越えてしまいそうですが、今回は二点、全郎川柳の要素を簡単に考えてみたいと思います。
全郎川柳の要素の一つめは〈句意の多義性〉だと思います。これは、読み手それぞれの資質に応じて十人十色の意味やイメージが形成されうる、ということです。読み手からすれば、自分なりの意味やイメージを生みだす楽しみがありますよね。一義的な短詩というのは、作者は気持ちいいかも知れませんが、受け手にとっては押し付けがましく感じることもあるものです。
大航海時代の空に繋がれる
たとえばこの句も、読み手それぞれの資質に応じて〈句意の多義性〉が生じる書き方だと思うのです。もし作者の意図をできるだけ汲み取ってもらいたいのであれば、川柳では最低限、〈AはBである〉という「一章に問答」の構造をとるのが常套手段。しかしながらこの句では、〈Bである〉という答えの提示だけですよね。これは、〈句意の多義性〉を容認していなければなかなかできない書き方だと思います。
だから、大航海時代にタイムワープする句かしらと捉える人もいるでしょう。または、現代の領空にかかわる争いを示唆しているのではと捉える人もいるでしょう。あるいは、「『大航《海》時代の《空》』」に「(船もしくは飛行機に乗っている現代の語り手が)繋がれる」という句語のコラージュによって、大航海時代の海・大航海時代の空・現在の海・現在の空の四元が時空的に繋がって融合していく、そんな壮大な感覚をおぼえる人もいるかも知れません。わたしが最初そうでした。ただ、よくよく読み返しているうちに現代的な領空問題、ひいては大国間の宇宙での争いにまで発想をひろげて読むようになりました。これがとても楽しい。
ただいずれにせよ、句のコトバに魅力がなければ読み手にスルーされてしまうのですから、〈句意の多義性〉とはけっして読み手任せのいい加減な要素ではありません。そこはきちんと確認しておくべきところです。
さて、全郎川柳における二つめの要素は〈言葉のモノ化〉です。これは、辞書に載っている公式的な言葉の意味や用法を一回リセットしてモノ化し、ゼロから再使用する、といった意味です。
多数決 分母の母は崖の上
多数決とあるので社会性っぽい作品ですが、「分母」という数の概念の公式的な意味や用法がリセットされ、「分母の母」として新しい用い方をされています。これは、分母という概念をモノとして取り扱ってこそ生まれる表現でしょう。
フラワーしげるさんの短歌に「きみが十一月だったのか、そういうと、十一月は少しわらった」(『ビットとデシベル』)という一首があるのですが、この歌も「十一月」という月の概念の公式的な意味や用法がリセットされたうえで再使用されています。ほぼ死語になった古い言葉で恐縮ですが、フラワーさんは現在の歌壇の前衛≠ニいえるでしょう。短歌にも〈言葉のモノ化〉を試みる動きは出てきているようです。
もう一句、同句集より〈言葉のモノ化〉の例を見てみましょう。
コソコソを煮るスクランブル交差点
ここでも「コソコソ」という、通常は副詞として用いられている言葉がモノ化され、名詞として扱われています。
以上、〈句意の多義性〉〈言葉のモノ化〉という二点から全郎さんの川柳を見てきました。こうしたポスト私性の方法は、世間で広く了解された共感域の利用を放棄しているぶん、相当に険しい道だと思います。強い主体性がなければできないのではないでしょうか(少なくとも自分に置きかえて想像するとそう思う)。でも、定型散文といっていいくらいストレートな球ばかり投げてくる川柳よりも、わたしは〈消える魔球〉のほうを体験してみたい。その〈消える魔球〉を投げてくる数少ない川柳人が兵頭全郎さんなのです。
翌日の朝には届くかまいたち
透視図と月のあいだの燕尾服
スプーンに水半分の少年期
便箋の青さよ詰め放題の手よ
ふくらむと水の記憶に替わられる