2016年06月13日

第1回 川柳スープレックス前句附句会

このたび川柳スープレックスで前句附を行うことになりました。
参加者はすでに決定しています。参加者名は後日発表。

前句附とは、「問い」としての前句(七七)にたいして「答え」としての附句(五七五)を付ける遊び。前句が五七五で附句が七七のばあいもあります。
元々は俳諧の付け合いの練習として始められましたが、のちに選者をたてて附句を公募、入賞者には景品を出す興行へと発展していきました。

【例】
 前句 切りたくもあり切りたくもなし
 附句 ぬす人をとらへてみればわが子なり

【前句附句会の予定】
1、6月13日(月)にお題の前句を発表
2、6月19日(日)までに参加者は附句2句を提出
3、6月20日(月)くらいに無記名の投句一覧をスープレックス上に掲載
4、6月24日(金)までに参加者は投句一覧から5句選および寸評
5、6月25日(土)か26日(日)くらいに結果発表

posted by 飯島章友 at 23:54| Comment(0) | 句会会場 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月12日

追求者:200字川柳小説  川合大祐

大体において魔都だと思っていた。阪神のユニフォームを着た人で溢れかえり、エスカレーターは右側に並んで、いけない薬を普通に売っている町だと。梅田駅についてすぐ、キタに行こうと通行人に道を訊いた。「キタかあ。キタなあ」とおっちゃんは考えて「南の正反対なんやないか」と答えた。よく考えると、あれが「何でやねん」と言う最初で最後のチャンスだったのかも知れない。三日間いて、一度も「何でやねん」を聞かなかった。

  何でやねん何でやねんと日が暮れる  高野久美子(「川柳びわこ」第636号より)

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2016年06月07日

「川柳びわこ」第636号

川柳びわこ 2016.6 第636号
発行 笠川嘉一
編集 徳永政二
毎月1日発行

【びわこ近詠・小梶忠雄選】
何でやねん何でやねんと日が暮れる  高野久美子
抜け殻の体と食べられる体  竹井紫乙
俎板の上の気がして目がさめる  川村美栄子
謹んでなってしまったカリフラワー  竹内歌子
水かきがあった時代を思い出す  金子純子
付け足したところが朝に消えている  月波与生
だんだんと神と会話をする手帳  熊木 順
菜の花の黄色 飛車など打ってみる  重森恒雄
なんでやろなあが四月にひっかかる  峯 裕見子
その奥のまたその奥のぼんやりと  徳永政二

今回取り上げる「川柳びわこ」は、滋賀県の「びわこ番傘川柳会」が発行している。以前から同誌は、番傘系の中では少々作風が変わっていると聞いていた。先日の川柳フリマで編集人の徳永政二さんから伺ったのだけど、時実新子さんの教えを受けていた方も少なくないという。その意味でハイブリッドな作風といえそうだ。

今回は80人以上の近詠欄の中より10句だけ引用させていただいた。
特に注目したのは次の作品。

なんでやろなあが四月にひっかかる  峯 裕見子

ここでの「なんでやろなあ」は名詞的に用いられており、一般的な使用法からズレている。そのズレに脱散文性があり、見どころになっている。ちなみに、以下の作品も接続詞や副詞が名詞的に用いられている。

「けれども」がぼうぼうぼうと建っている  佐藤みさ子『呼びにゆく』
コソコソを煮るスクランブル交差点  兵頭全郎『n≠0 PROTOTYPE』

通常の使用法を誰もが知っているからこそ、ここでの「なんでやろなあ」「けれども」「コソコソ」が〈表現〉として立ちあがり、興趣につながっていく。

ちなみにわたしは、このような修辞が出てきたばあい、〈なんでやろなあと同類のモノ〉〈けれどもと同類のモノ〉〈コソコソと同類のモノ〉とそれぞれ置き換え、抽象的な意味につなげている。比喩を読む要領に似ているといえばいいだろうか。
もっとも読みのさなかでは、いちいち理性で〈◯◯と同類のモノ〉なんて変換はしたりせず、「なんでやろなあ」の質感をそのまま体感して抽象的な意味につなげている。その意味ではオノマトペを味わう要領に似ているともいえそうだ。


さて、「川柳びわこ」には「句集紹介」のページがある。今回は川瀬晶子著『アンドロイドA』から28句が取り上げられている。

死ぬとか死なぬとかうどん屋の隅で  川瀬晶子
25時背中のプラグ抜き棚へ

最後に面白いなと思ったことを述べると、句会報に通常の句会と婦人部句会の両方が掲載されていたことだ。婦人部≠ェあるグループはわりと珍しい気がする(わたしが知らないだけ?)。

川柳びわこHP
全日本川柳協会HPのびわこ番傘川柳会

posted by 飯島章友 at 06:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月05日

海市叙景:200字川柳小説  川合大祐

私は、海市蒐集家である。いつも弁当売りのような容器を首に掛け、この市をうろついている。容器にはほとんど何も入れない。入れるに値するものがないからだ。だから私は記憶する。港に作られた子供用のプール、工業地帯のむせる臭い、等々。ある朝、そのひとつが記憶から消えた。ひとつ消えるたびに、連鎖して他の思い出が消えていった。容器から、三粒の砂が順に消えてゆく所を見た。そもそも私はこの世界にいやしないのだった。

  容から海市へ そもそも非在  清水かおり(「グレースケール」より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月02日

【ゲスト作品を読む】清水かおり「グレースケール」を読む柳本々々−非在のてまえ−

六月のゲスト作品は清水かおりさんの「グレースケール」でした。

今回の清水さんの作品から私が考えてみたいのは〈非在の一歩てまえ〉をひとはどう言語化するか、ということについてです。

たとえば「グレースケール」というのは濃淡のある白黒表現のことで、写真や画像をグラデーションのある白黒にすることなんですが(白黒でも濃い黒や薄い黒など濃淡がつく)、それってすべてが「白」になるかすべてが「黒」になるかの〈非在の一歩てまえ〉の世界だと思うんですね。世界をグレースケール=白黒で表現しなおしたときに、それはだんだん〈非在〉の世界にちかづいていく。でもそのちかづいていく世界のなかでしか〈みえてこない世界〉がある。

それはどういうい世界か。

  見覚えのグレースケールこそ世界  清水かおり

それは句が教えてくれています。「見覚えのグレースケールこそ世界」と語り手は語っている。つまり、〈グレースケールの世界〉ってどんな世界なのかっていうと、〈記憶=見覚えの世界〉なんですよ。それは今ある現実の世界でもない。かつての過去の世界でもない。写真に痕跡された世界でもない。未来のCGの世界でもない。今と過去に宙づりにされた、記憶のグラデーションのなかの〈世界〉なんです。それが〈見覚えの世界〉です。そしてそれが〈非在の一歩てまえ〉の世界です。だってひとはその世界を次のしゅんかん、わすれてしまうかもしれないから。

だから語り手はあるときは視線に〈どん欲〉です。それは、なくなってしまうかもしれない。次のしゅんかん、〈非在〉になってしまうかもしれない。

  草いきれ見たいもの視て奪うなり  清水かおり

世界のすみっこにある「卵焼き」も逃さない。というよりも、むしろこれから〈非在〉になるかもしれない世界では〈端〉にある「卵焼き」のほうが大切なんです。それは〈記憶の痕跡〉=思い出になるかもしれないから。

  天動の端にのっかる卵焼き  清水かおり

もちろん、この〈非在一歩てまえ〉の世界そのものが〈そもそも非在〉であるという可能性もあります。

  容から海市へ そもそも非在  清水かおり

卵焼きは、「容(かたち)」をもたず「海市」=蜃気楼かもしれない。けれど、この世界、じつは語り手ひとりの世界ではないんです。たとえそれが〈非在一歩てまえ〉の世界であり、語り手がいつかこの記憶を忘れそうになったとしても、この世界には誰かが記憶を交換しにやってくるかもしれない。

するとまた〈非在〉はいきいきしはじめる。記憶は、わたしだけのものではない。〈だれか〉のものでもあるんです。その〈だれか〉から受け取るわたしの記憶の世界だって、ある。

  夏の水 誰が替えるかわからない  清水かおり


posted by 柳本々々 at 12:44| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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