六月のゲスト作品は清水かおりさんの「グレースケール」でした。
今回の清水さんの作品から私が考えてみたいのは〈非在の一歩てまえ〉をひとはどう言語化するか、ということについてです。
たとえば「グレースケール」というのは濃淡のある白黒表現のことで、写真や画像をグラデーションのある白黒にすることなんですが(白黒でも濃い黒や薄い黒など濃淡がつく)、それってすべてが「白」になるかすべてが「黒」になるかの〈非在の一歩てまえ〉の世界だと思うんですね。世界をグレースケール=白黒で表現しなおしたときに、それはだんだん〈非在〉の世界にちかづいていく。でもそのちかづいていく世界のなかでしか〈みえてこない世界〉がある。
それはどういうい世界か。
見覚えのグレースケールこそ世界 清水かおり
それは句が教えてくれています。「見覚えのグレースケールこそ世界」と語り手は語っている。つまり、〈グレースケールの世界〉ってどんな世界なのかっていうと、〈記憶=見覚えの世界〉なんですよ。それは今ある現実の世界でもない。かつての過去の世界でもない。写真に痕跡された世界でもない。未来のCGの世界でもない。今と過去に宙づりにされた、記憶のグラデーションのなかの〈世界〉なんです。それが〈見覚えの世界〉です。そしてそれが〈非在の一歩てまえ〉の世界です。だってひとはその世界を次のしゅんかん、わすれてしまうかもしれないから。
だから語り手はあるときは視線に〈どん欲〉です。それは、なくなってしまうかもしれない。次のしゅんかん、〈非在〉になってしまうかもしれない。
草いきれ見たいもの視て奪うなり 清水かおり
世界のすみっこにある「卵焼き」も逃さない。というよりも、むしろこれから〈非在〉になるかもしれない世界では〈端〉にある「卵焼き」のほうが大切なんです。それは〈記憶の痕跡〉=思い出になるかもしれないから。
天動の端にのっかる卵焼き 清水かおり
もちろん、この〈非在一歩てまえ〉の世界そのものが〈そもそも非在〉であるという可能性もあります。
容から海市へ そもそも非在 清水かおり
卵焼きは、「容(かたち)」をもたず「海市」=蜃気楼かもしれない。けれど、この世界、じつは語り手ひとりの世界ではないんです。たとえそれが〈非在一歩てまえ〉の世界であり、語り手がいつかこの記憶を忘れそうになったとしても、この世界には誰かが記憶を交換しにやってくるかもしれない。
するとまた〈非在〉はいきいきしはじめる。記憶は、わたしだけのものではない。〈だれか〉のものでもあるんです。その〈だれか〉から受け取るわたしの記憶の世界だって、ある。
夏の水 誰が替えるかわからない 清水かおり