それでは作品を見ていこう。
お見せする両手の中にある顔を
「男の顔は履歴書」といったのは評論家の大宅壮一。昨年亡くなった安藤昇が主演の映画にもそんなタイトルの作品があった。
徳永政二さんには、「わかりますわかりますとも手を見れば」(『大阪の泡』あざみエージェント)という句がある。この句から想像できる解釈のひとつは手相。手相は日々変わっている。生活の変化は手相という情報に反映されるのだ。また過去の人生も手相に痕跡として残るという。そうなると、手の相とはまさに人間の〈履歴書〉といえるだろう。
上記の話にしたがえば、〈顔≒履歴書≒手相〉というニアリーイコールの関係性が成り立ちそうだ。そこから上掲句は〈手相〉、すなわち「顔」を誰かに示すことによって〈履歴書〉を見せているのだろう、と読んでみた。「お見せする」というやわらかな、どこか恥じらいを含んだ謙虚な口語体が、〈履歴書〉を示さなければならない少々緊張するシーンを、まるで童話のような質感に仕上げている。
笑わせてくれるじゃないか洗面器
初読では、(ここは盥じゃなく洗面器だよね)などと、ただただ「洗面器」のオモシロさに惹かれた。ちょうど「はっきりしない人ね茄子投げるわよ」(川上弘美著『機嫌のいい犬』集英社)という句の「茄子」とおなじおかしみを「洗面器」に感じたのだ。
ところが、何度か読み返しているうちに印象が変わってきた。「笑わせてくれるじゃないか」という表現にペーソスを感じるようになってきたのだ。
洗面器に水を入れる。水の面はかすかに揺らめいている。先に「男の顔は履歴書」という言葉を引いたが、揺らめきに映るじぶんの顔を見た一刹那、これまでの境涯がふっと湧きあがった。そして自嘲するかのように、同時にじぶんを慰めるかのように「笑わせてくれるじゃないか」という言葉がこぼれた。
もちろん、水の面にゆがんで映る顔におもわず笑ってしまった、という軽みの句である可能性もある。けれども、「笑わせてくれるじゃないか」の「くれるじゃないか」には人生が滲んでいる気がする。
な〜んて川柳カードの同人らしからぬ読みをしてみました。
まんじゅうはうまいあなたはやわらかい
政二さんの川柳には、先の「わかりますわかりますとも手を見れば」のようなリフレインを駆使した句がけっこうある。と同時に、上掲句のような重文構造の作品も散見される。たとえば「空を押すように金魚の浮くように」「光らせてみよう くよくよしてみよう」(共に『カーブ』あざみエージェント)という句がある。
さて、上掲のまんじゅうは〜の句のような重文構造は、「まんじゅうはうまい」⇔「あなたはやわらかい」というふうに、互いが他のパートへ影響を及ぼし、被さっていく働きがある。すなわち、「まんじゅうはうまい」という単体の好もしさに「あなたはやわらかい」という別種の好もしさが重なり、「まんじゅうはうまい」というパートだけでは成立しえなかった奥行きを生みだしている。おなじことは「あなたはやわらかい」というパートにもいえる。
と、これで上掲句の読みを終えてもいいのだけど、上記の分析をすこし発展・飛躍させた考えも書いておきたい。それは、このような重文構造では、「まんじゅう」と「あなた」が交換可能な関係性にあるのではないかということだ。おなじように「うまい」と「やわらかい」も交換可能のように思える。「まんじゅうはやわらかい」「あなたはうまい」というふうに。
まあ、「あなたはうまい」というのはちょっと猟奇的な感じもするのだけど、〈あなたはまんじゅうのうまさにも似た多幸感を私に与えてくれます〉と捉えれば、なかなかオシャレな物言いになるのではないか(んなこたーない!)。
重文にはこのように、対等のパートが結合した構造ならではの働きがある気がする。
すみませんそれは私の鼻の穴
川柳人には、句が〈明快〉であることを大切にする書き手も多い。わたしの好きな川柳作品でみてみよう。たとえば前田雀郎の「音もなく花火のあがる他所の町」、大山竹二の「かぶと虫死んだ軽さになっている」、橘高薫風の「人の世や 嗚呼にはじまる広辞苑」という句は、書かれている状況も句意も明快であり、かつ通俗性を回避する技量もひしひしと感じる。
それにたいして徳永政二さんの川柳は、テクストの〈データ〉が欠落している作品が多い。そのため、書かれている状況や句意を〈理解する〉のではなく、読み手が雰囲気を〈嗅ぎとる〉ことで句の鑑賞が成立する。
上掲句では、どういう状況で「それは私の鼻の穴」だと言っているのか、というデータがない。読み手は想像力でそこを補うしかない。したがって、なぜ「すみません」と呼びかけているのか・謝っているのかも分からない。結果、句意は一読明快でない。
しかし、それにもかかわらず、わたしはたしかに或る雰囲気をこの句から感じとることができた。「鼻の穴」とは、言ってみれば恥ずかしいところ。つまり恥部である。そのため、「すみません」という言葉にはおのずと〈照れ〉や〈自嘲〉のニュアンスが嗅ぎ取られ、また道化めいた〈おかしみ〉と同時に〈ペーソス〉も嗅ぎ取られた。
句で描かれている具体的状況は分からなくても読み手に雰囲気を手渡すことはできるのだ。別言すれば、具体的状況が分からないからこそ雰囲気だけが読み手の感覚に沁みこんでくる。それが徳永政二の川柳の本領だ。
たとえば以下の句も、おなじように政二さんの本領が発揮されている。
何も書いていないところは水ですね (『カーブ』)
よくわかりました静かに閉める窓 (同上)
かりに、これまでの句に具体的状況を補完してみると印象はどのように変わるだろうか。
すみません(赤子のあなたがいま触っている)それは私の鼻の穴
何も書いていないところは(水族館の水槽の)水ですね
よくわかりました(という言葉を最後に議論を終えて)静かに閉める窓
たしかに句の語り手がおかれた状況は明瞭になった。句意も明快になった。その反面、読み手からみて句が客体・対象物と化してしまい、読み手の感覚へ沁みこんでくる働きは下がってしまったのではないだろうか。もちろん、先ほど引用した雀郎・竹二・薫風の句のように、具体的状況(データ)を明瞭にした方が輝きが増すケースも少なくないのだが、わたしがデータを補完した政二さんの3句のばあい、謎があることによって逆に句の魅力が増幅されたことが分かる。政二さんは〈謎〉の効用を熟知した川柳人なのだろう。そういえば恋愛上手なひとは、いい塩梅に〈謎〉を保っているものだ。
最後に、「バックストローク」33号(2011年1月25日発行)に石部明さんが次のような評を書いていたので引用してみたい。
入口は影を伸ばして待っている 徳永政二
「入口で」ではなく、「入口は」と意志を持たない「入口」に意志を持たせて自らの影をかさねる。あるいはずっと昔から、生れた時から徳永政二は「入口」だったかも知れぬと思わせる不思議な句。「わからなくなってつまんでしまいます」「ほろほろがこわい机によりかかる」など、ひらがな多用の徳永作品は、意味をそぎ落とし、省略を重ねてなお立っているしなやかな強さが特徴だが、対象を捉える視線のあたたかさが、個のひそやかな息遣いとして読み手にとどく。