「「
左手にマングース」を〈読む〉」と題して一文を書こうとしているわけだが、〈読む〉とはどういうことなのだろうか。
たとえば、〈読む〉だけなら根気さえあれば誰にでもできる。『失われた時を求めて』の活字を追うだけなら、小学生にも可能のはずだ。だが、普通(って何だろう)、そういう行為を〈読む〉とは思わないだろう。
ではどうすればいいのか。感じればいいのか。Don't think,Feel. だが私は、〈感じる〉という言葉で物事を片付けることに、一抹の危惧を覚える。今語っていることは「左手にマングース」についてだが、これは〈考え〉て〈わかる〉句群ではない。だが〈感じ〉てしまった時に、何か大切なものが欠落してしまう。
考える、でもなく、感じる、でもない第三の道はないものだろうか。それは私にも明確な答えは出ていない。出ていないが、漠然と〈する〉ではないかと仮に名付けておく。テクストを、まさに体験として体験〈する〉こと。それがおそらく〈読む〉ということの、ひとつのありかたなのかもしれない。小池正博の句は、長さとしては最小に近い川柳という形式の上で、人にそういう〈読む〉体験を否応なく迫ってくる。
そのあたりを念頭に置きつつ、一句ずつを〈読む〉ことにしたい。
まみどりのねばねばたちの総くずれ この句には主体がない。まみどりのねばねばたち「が」総くずれしているわけではないのだ。「まみどりのねばねばたち」が正体不明なのではない。「の総くずれ」と書かれることによって、句全体が客体化されているところに、この句の〈わからなさ〉があるのだ。あえて主体を探すとすれば、それはこの句を読んでいる読者だろう。読者とはわたしであるかもしれないし、あなたであるかもしれない。だがそこで主体を問われているところに、読むという体験がある。まみどりのねばねばたちの総くずれとは、〈する〉ものなのだった。
仰向けに死なない蝉もいるようだ この句においても、主体は句の中にいない。「死なない蝉」が主体かと思えば、すぐさま「いるようだ」と外から眺められる被観察物になる。「いるようだ」は誰が言っているのだろうか。作者であるとは言い切ることができない。「仰向けに死なない」という蝉の行為があるかぎり、これは作者の観察眼だとか、そういう範疇を逸脱している。やはりこの句でも一貫した体験を〈する〉のは〈読む〉ものにのみ与えられた特権なのだと思う。
攻めることにする左手にマングース 「左手にマングース」という言葉自体は難解ではない。意味/無意味を越えた地点に、左手とマングースの出会いがある。問題は「攻めることにする」の寄る辺なさだろう。誰が、何を、どうして攻めることにするのか、この句は頑として語らない。だが、〈わたし〉と世界との関わりは、本来こうしたものではなかったか。「左手にマングース」とは、普遍的な体験なのだ。
鳥葬が終わったあとの赤と青 この句で、作中主体を探すとすれば「赤と青」ではない。赤と青はいわば残響として置かれた手がかりである。同時にこの「赤と青」がある限り、「鳥葬」も主体にはなりえない。「鳥葬」と「赤と青」のベクトルは正反対を向き、互いに主体であることを牽制しあっているのだ。強いて主体を挙げるとすれば「あと」ではないのか。すべてが「終わった」後の「あと」。これはやはりひとつの行為が終わったというしるしである。それを〈体験〉と呼ぶのではないだろうか。体験を〈する〉のは、必然的に、読者であろう。
空白を曳けば山鉾動き出す この句においては、二重の主体が使われている。「空白を曳」く誰か、そして「動き出す」山鉾の二つである。一句の中に巧妙に嵌められた(ゆえに、一読しただけでは気付かない)二重の主体に、読み手は惑乱させられる。「空白」とはまぎれもない空白であり、そこに〈わたし〉も〈あなた〉も回収されるのだった。
肉食は滝であろうとなかろうと 「滝であろうとなかろうと」において、〈滝である〉という行為が想定されている。それは、日常言語であれば成立しない行為である。そこに読者を立たせてくれること、これこそが〈詩〉の言語である。ここで読み手が目くらましにあったような感覚に襲われるのは、この句が〈滝である〉という体験のただ中に置かれるからなのだろう。それが川柳を「する」ということなのではないだろうか。
快晴の空から降ってくる子ども 今まで見てきた句がそうであるように、「子ども」が主体なのではない。「快晴の空から」という視点が、明らかにメタレベルの主体を示している。〈わたし/あなた〉は「子ども」が「降ってくる」のを、まさに体験として体験する。視点がそうであったように、一見してあるように見える〈意味〉も、メタフィクション的な領域に存在するのだった。
預金から月の光をひきだそう 「まみどりのねばねばたちの総くずれ」から始まった連作は、ここで終わる。「まみどりの」の句に主体が存在しないことはすでに触れた。ではこの句では主体はどこにあるのか。「ひきだそう」は決意の表明であるとも、読み手への呼びかけであるとも取れる。どちらにせよ、そこにあるのは、まぎれもない意志である。意志は主体を呼ぶ。あるいは、主体が意志を明確にすると言えるかも知れない。だが、この句の主体は作者なのか、読み手なのかあえて撹乱されている。考えて(!)みれば体験とは、主体が主体でなくなる、あるいは主体の交差に生まれる現象だった。だからこの句の配置は偶然ではない。必然的に選ばれた「ひきだそう」という言葉である。やはりこの連作は〈する〉ものだったと考えられる、感じられるものだったのだ。
以上、粗い読みながら八句を鑑賞してみた。舌足らず、思慮足らずな面があるのは申し訳ない。この連作の〈意味〉を考えるのも、無論有効な読み方である。ただ、ここではなるべく〈意味〉を探すのを避けた。それが小池正博という作家への、私なりの正当な向き合い方であると思うからである。暴論平にご容赦願いたい。
ただ、この読み方を〈する〉のは大変面白かった。
私も、川柳をしてゆこうと思う。