発行人 清水かおり
編集室 山下和代
今年最初の「川柳木馬」誌は、恒例の特集「作家群像」が掲載されている。この「作家群像」は、現在活躍する川柳人ひとりにスポットを当て、そのプロフィール、作者のことば、自選60句、および二名の評者による作家論・作品論で構成された記事。
今回取り上げられている川柳人は徳長怜さん。わたしも大好きな作家さんであり、以前川柳スープレックスにも作品をご寄稿いただいた(Fw:舌)。また評者は新家完司さんと八上桐子さん。なんとも豪華である。
何はともあれ、掲載されている徳長さんの60句から数句引用してみよう。
リエゾンであなたと波の音になる
ちょんまげのあったところで感じてる
デアゴスティーニそろそろ届く僕の首
午前中なら消印は海ですが
出し汁を煮詰めてみればジャコメッティ
年表にネットカフェ紀がすべりこむ
バス停は武士になる気で立っている
「リエゾン」「デアゴスティーニ」「ジャコメッティ」、このあたりは歌人ならいかにも使いそうだが、川柳人に使われると意表をつかれる。所属はふあうすと川柳社とプロフィールにあるが、もし毎回このような作品を提出しているのだとすれば、社内ではさぞかし異彩を放っておられるのではないか。それにしても徳長さんの作品、わたし好みだ。
評者の新家さんと八上さんは、徳長作品についてほぼ共通した印象をいだいているようだ。
独自性を目指しつつ伝達性をも考慮するのは難儀なことではあるが、それが生みの苦しみであり遣り甲斐のあることでもある。徳長怜作品には、その「独自性と伝達性」を併せ持たせた苦心の作品が多く見られる。(新家完司「徳長怜川柳を読む 〜多様な作品を生む自在な想い〜」)
詩的飛躍が過ぎると、良い悪いは別にして難解になる。その点で、共感性、大衆性のラインぎりぎりへ決まるスマッシュのような鮮やかさだ。(八上桐子「徳長怜を読む 〜海辺の時間〜」)
現代川柳には、コトバの可能性を模索する代償として、ともすれば読者を置いてけぼりにしかねない表現も見られる。またそれとは逆に、〈一読明快〉をテーゼとするあまり、既にひろく流通している観念をわざわざ川柳に仕立てあげ、既成観念を補強してしまう傾向も見られる。その意味で、「独自性と伝達性」「共感性、大衆性のラインぎりぎり」という葛藤は、表現にたずさわるあらゆる人間にとって大きな課題となる。と同時に、そこを突破するのが遣り甲斐につながっていく。
【会員作品・木馬座】
麦秋のぞわりとそよぐポピュリズム 畑山弘
納豆の疑心暗鬼をもてあます 大野美恵
栗の実のラストシーンは皆快楽 西川富恵
光源を探し求める展開図 岡林裕子
差し障りなければ図形に戻ります 内田万貴
うれしいを辿ってゆけば喉ちんこ 萩原良子
ハレルヤと女ともだち去ってゆく 清水かおり
片っぽの靴に余った夜がいる 小野善江
今号の木馬句評は小池正博さんが担当している。読んでいただくと分かるのだけど、こころなしかいつもより厳しい評になっている。しかし、いずれも肯ける正当な理由を示したうえでのこと。現代短歌や伝統川柳とは違い、詩性川柳には入門書が見当たらない。だから、こうした句評を参考にしながら徒手空拳で模索していくしかない。それは不安ではあるが、同時に開拓精神を刺激されもする。それこそがこのジャンルの魅力といえるのではないだろうか。