2017年03月31日

【お知らせ】「川柳杜人」253号・「川柳と遵法」

「川柳杜人」誌2017春・253号に、飯島章友の小論「川柳と遵法」を掲載していただきました。

高校生の時分から、秩序と自由の関係を考えることがわたしの主要テーマでした。秩序だけを一方的に追求すれば抑圧になり、自由だけを一方的に追求すれば放縦になる。近代って、このどちらか一方を過剰に追求した時期だと思うんです。では、その両側面を引き受けてバランスを取ろうという議論はないものなのか。そんなことをずっと考えてきました。これからも考えていくのだと思います。なので「川柳と遵法で何か書いてください」と杜人誌から依頼をいただいたときは、何か引き寄せるものがあったのかなあ、なんて思ったものです。

よろしくお願いします。

川柳杜人社


posted by 飯島章友 at 23:39| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月26日

ダウンワード・スパイラル:200字川柳小説  川合大祐

エメサ王国の祭祀場で死別して以来、魂はかの面影を求め、果てのない輪廻を繰り返し続けた。ある時は木村政彦対エリオの試合場で、ある時は銀河連邦の舞踊会議場で、かの面影を探し続けた。そのうちに気付くのだ。輪廻は円環ではないと。ある点から始まった線が、回転しながら垂直に上昇してゆくのだと。ならば、もう会うことは無いのだなと思った。だが魂は探し続ける。螺旋。そう螺旋だ。重要なのは連続だった。うんこのように。

  蚊取線香上のうんこ  二村鉄子(「川柳ねじまき#3」より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

残酷!光怪獣プリズ魔:200字川柳小説  川合大祐

何もかもが透きとおった世界だ。海もビルも蠅も光を通過させて、ただ、その方向を屈折させている。光の分散はさらに分散し、結局は透きとおるだけになってしまうのだった。波打ち際に、魚が一匹流れ着いた。流線型の、黒々とした魚だった。冷たく、それは世界のすべてと同じだった。だが、この黒さは何なのだろう。体内に何かを秘めることのできる黒さは。腹に切れ目を入れてみた。溢れる内臓は、次から次へと透きとおっていった。

  魚の腹ゆびで裂くとき岸田森  なかはられいこ(「川柳ねじまき#3」より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月15日

走る走る走るから考える古畑任三郎 安福望×柳本々々−ファーストシーズン第11話「さよなら、DJ」(犯罪者:中浦たか子【ディスクジョッキー】=桃井かおり)

安福 この桃井かおりの回は、殴ったときの「いたい?」ってきいたのがこわかったですね。

柳本 あれは桃井かおりのアドリブなんですよね。

安福 えー、そうなのか。はみだしたとこなんだ、あれ。

柳本 三谷幸喜作品のせりふじゃないかんじしますよね。あそこだけ。

安福 そうですね。古畑って、異常殺人者ってでてこないじゃないですか。最後ちゃんと解決する。

柳本 そうですね。そこらへん、『踊る大捜査線』と違いますね。『踊る大捜査線』はわりとアブノーマルな殺人者いっぱいでてきますからね。

安福 でも、この桃井かおりのだけ、なんかあの「いたい?」でちょっと異常なかんじしたんですよ。犯人のひとって、みんなちゃんと会話できるかんじだけど。ももいかおりはちょっと会話できないかんじのひとにおもえて。いままでのひとはみんな自分から、会話してくるじゃないですか

柳本 三谷幸喜さんはアドリブをさせないんですよね。昔、三宅裕司さんと対談してたときそういってました。だからそこだけ突出したかんじになったんじゃないですかね。三宅裕司さんと小倉久寛さんの劇団はアドリブがおもしろい劇団だから。

安福望 そうなんですね。

柳本 そもそも桃井かおりさんってちょっとクレイジーが役柄がおおいですよね。『男はつらいよ』にでてたときも結婚式で走ってにげる。花嫁の役をやってたけど。とつぜん結婚したくなくなって布施明からにげるんだけど。
走るで思い出したんですけど、この回の桃井かおりも今泉も全速力で走ってますけど、三谷幸喜作品のなかでは〈走る〉ってひとつのテーマになってるんですよね。『ラジオの時間』でも『笑の大学』でもみんな走ってる。全速力で。
三谷幸喜作品では走るっていっぱいでてくるんですよね。ドラマでも映画でも舞台でもよく走ってる。
で、走ると、物語がおおきく展開するんですよね。
漱石の小説って横たわると物語がおおきく展開するんですけど、三谷幸喜作品では走ると物語がおおきく展開する。
そうかんがえると三谷幸喜作品って会話劇の要素だけでもないんだなっておもうんですよ。走るっていうことばをかなぐり捨てたときになにかがおこるというか。
走るって純粋な欲動ですよね。そのときひとってピュアな欲動がでるんだとおもうんですよ。あの吉本ばななの『キッチン』でもカツ丼もってたしか走ってましたよね。このカツ丼を届けたいって。愛のカツ丼。

安福 たしかに走るって純粋ですね。

柳本 だから三谷幸喜劇では言葉の汚染をふりきるように走るんじゃないですかね。
あと三谷幸喜の作品は閉鎖的空間がおおいんですけど、
そこにおおきな穴をあけますよね、走ると。

安福 風なのかもしれませんね。

柳本 あの『笑の大学』でもほんとよくはしるんですよぐるぐるぐる。すごくいいシーンなんだけど。舞台版も映画版も。西村雅彦も近藤芳正も役所広司も稲垣吾郎もみんな素敵に本気に走ってる。

安福 そうなんですね。

柳本 真面目な検閲官と弱気な喜劇作家が一所懸命、一緒に走ってる。そうするとだんだんふたりの関係がピュアになって物語が動きはじめる。ふたりの関係がピュアになるんですよ。
どれだけ思いが錯綜していても、走る行為って、勘違いから遠く離れてある身体なんじゃないかな。なんか〈これしかない、これなのだ〉って状態になるんだよ。

安福 なるほど。まよってるときは走れないですね。目的地がわかんないから。決めてないから。

柳本 走るは、希望ですよ。ひとは、希望があるから走るんじゃなくて、走っているうちにひとは希望そのものになっていくんですよ。

download_20170315_202426.jpg
安福望:古畑任三郎「さよなら、DJ」の絵

download_20170315_200606.jpg
柳本々々:古畑任ザブ子「さよなら、今泉くん」の絵

posted by 柳本々々 at 20:10| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月13日

狂気から考える古畑任三郎 安福望×柳本々々−ファーストシーズン第10話「矛盾だらけの死体」(犯罪者:佐古水茂雄【議員秘書】=小堺一機)

柳本 この回、小堺一機さんを起用してるのがおもしろいですよけ。三谷作品ってだいたんな起用がありますよね。流動的な役者の起用というか。
え、こんなひとが、だれだろうこのひとは、とかってありますよね、三谷作品って。
それって三谷幸喜のなかで、演劇系の俳優とドラマ俳優とお笑いタレントのあいだに垣根がないってことだとおもうんですよ。
で、その垣根というか位階というかそういうのがない場所ってひとつだけあって、それって、〈テレビ〉ですよね。
三谷作品ってテレビっこがテレビのためにつくったテレビ作品ってかんじがするんです。
テレビってなんでも放送するわけでしょ。それが最大の強みなわけですよね。
ふまじめなものから伝統的なもの、シリアスなものまでぜんぶすべてがつまってる。
そういうせんぶをひっくるめたテレビ価値観を三谷幸喜はもってて、だから小堺一機と坂東八十助と菅原文太が
並べるんだとおもうんですよね。

安福 ああそうですね。今回の小堺さんの回って、すっごく三谷劇ってかんじしましたよ。勘違いの積み重なりってかんじ。

柳本 こんかい、勘違いされるひとのはなしだけど、セカンドでも、風間杜夫がおなじ勘違いされる犯人をやってましたよね。サードの玉置浩二もそうですね。
この勘違いが物語の駆動力になるのはヒッチコックがそうなんですよね。
ヒッチコックはほとんどが勘違いがもとになってはなしがすすんでいくから。あの『サイコ』なんかもけっきょく〈勘違い〉している〈こころ〉=サイコですよね。
ただその勘違いってもっといえば、シェイクスピアなんですよね。
だから劇の基本って勘違いにあるんじゃないとおもうんですよね。
で、なんで勘違いが劇の基本になるかというと、嫉妬をうむからだとおもうんですよ。『オセロー』とかそうだけど。勘違いで嫉妬してドラマチックになる。ドラマってなんのことかというと葛藤だから。こうかもしれないああかもしれないってひきさかれていくことだから。
今回の小堺一機もずっとひきさかれた状況にありますよね。ああまた俺じゃないのかって。だから基本的に勘違いがドラマをうむんじゃないかと思うんですよね。

安福 そうですね。小堺一機、ずっとゆれてましたね。勘違いがドラマを産むかあ。たしかに恋愛とかもそうですよね、たぶん

柳本 恋愛ってたぶん究極の勘違いじゃないですか。へんな言い方だけれど。だからドラマチックなんだとおもう。答え合わせができないから。なんで好きなのかって答え出ませんよね。
だから勘違いっていつも新しい価値観の生成だとおもうな。
劇作家ってそもそもかんちがいを軸にかんがえてるとおもうんですよね。前回のあてがきの話もそうだけれど、役者にあてて書くけど、あれっこのひとこういうひとかもっていうのがでてくるわけですよね、やってると。そうするとそこからまた新しい価値観がうまれてくるし。
だから劇とかドラマってそういうずれてく人格みたいなのをずっとかんがえていくことだとおもうんですよ。
昔、岩松了さんに松本幸四郎さんが舞台袖で、舞台やってたときに、毎日おなじ時刻におなじせりふをしゃべってるってちょっとにんげんとしてへんじゃないってはなしかけてきたことがあるらしいんですよ。
でもたしかにそうかんがえると舞台とかってすごくへんですよね。まっとうなことしてても。毎日おなじ場所でおなじ時間におなじせりふをしゃべってるんだから。人格としてずれてる。ちょっと狂ってる空間なんですよね。

安福 同じことしますもんね。

柳本 むしろかんちがいしないと人格が成立しないところがありますよ。
三谷作品ではすこしまえにもふれたけれど狂気ってテーマがありますよね。『振り返れば奴がいる』でも西村雅彦がくるっていくし、古畑でも自律神経失調症になってますよね。

安福 だれか狂うひとがでてくるんですね。 

柳本 ドラマってそもそもが狂気なんじゃないですかね。

安福 ああ。ドラマの撮影って、話の順番にとらないじゃないですか。最初と最後を一緒にとったりするんでしょう。それって狂ってますよね。

柳本 あそうそう。だから三谷幸喜さんが『マジックアワー』撮ったときに、あれはそういう、フィクションってなんだろうって作品ですよね。あれももうさいしょから勘違いを展開していくはなしだけど。

安福 舞台だとしても、順番に演じるけど、それをくり返すから、狂ってるんですよね。それもたえずフィクションってなんだろうってなるね。

柳本 そもそもでも三谷幸喜はフィクションってなんだろうってずっと問いかけてるきがしますよ。『十二人の優しい日本人』に「ほんとうのことなんてだれにもわからないんです」って陪審員のひとりがいってるけど、それってフィクションってなんだろうってことだとおもう。フィクションって妥協なんじゃないかって。
でも妥協を妥協としてうけとめられるって狂気じゃないかって。
だから三谷幸喜作品でよくある長回しのシーンって、その狂気に対抗するために、正気をもちこんでるきがするんですよね。あえて編集しないような。正気の基準点というか。

安福 ああくるってないとできないことたくさんありますからね。

柳本 たくさんありますああくるってないとできないことたくさんありますからねできないとくるってることああ。


download_20170313_222842.jpg
安福望:古畑任三郎「矛盾だらけの死体」の絵

download_20170313_222259.jpg
柳本々々:古畑任ザブ子の絵

posted by 柳本々々 at 22:25| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。