柳本 短歌や俳句や川柳にときどきゲームをとりいれたものがあるけれど、たとえばドラゴンクエストだったら短歌は工藤吉生さん、俳句だったら外山一機さん、川柳だったらSinさんみたいに。
でももともとゲームってとっても文学に近いんじゃないかとはおもってるのね。
例えばファミコンソフトで『サラダの国のトマト姫』っていうのがあるんですけど、これはアドベンチャーゲームというか、〈読み物ゲーム〉なのね。テキストをどんどん読んで選択していくっていう。
ゲームって読み物なんだってことがすごくよくわかるとおもうんですよ。もうそれはファミコン初期からあったんだっていう。
つまり、文学少女や読書少年もゲームに入る余地があるぞっていう。
こういうのはあとでスーパーファミコンの『弟切草』とか『かまいたちの夜』としてもでてくるんですね。
小説しか読まないようなひとたち、とくにゲームをしない女の子たちが〈読み物ゲー〉があることで入ってきたんじゃないかっていうのは『弟切草』をやっている女の子をみてて昔おもったことがあるんですよ。なんていうのかな、プレイじゃなくて〈読む〉なんですよ。でも、この〈読む〉っていうのがドラゴンクエストとかファイナルファンタジーなんかもそうなんだけど、すごく大事で、読書家たちは意外とその点でゲームをやってたんじゃないか。わたしなんて、街のにんげん全員とかならず会話してましたもん。
だから小説好きとゲームって意外と親和性高いぞっていうのがあるとおもうんですよ。文学とゲームってそれほどかけはなれてないですよっていう。サラダの国がそれをおしえてくれた気がする。
安福 これ、ゲーム画面のコマンドみてみると、たたくとたたかうはべつなのかな? ほめるとかすてるとかあるんだなあ。ほめるってどういうことなんだ
柳本 そういう意味のわからない弁別がゲームにはあって。ゲームって過剰性なんですよね。とくに初期は。よくわからないもんをためこんでた。
安福 ここはセロリの森っていって、柿がたおれてるっていって、意味わからないなっておもった笑。意味わからなくてもゲームだからうけいれられるんですよね。ゲームの枠だと。
これ短歌といっしょだなあっておもった。なんか意味わかんないこといわれても短歌ですよっていわれたら
柳本 ああほんとですね。たぶんファミコンなんか制限がおおかったからじゃない。ちょっと定型だよねその意味では。
ゲームって境界が未熟なぶん、世界がゆたかだったんですよ。べつにサラダの国があってもいいよね、みたいな。あと、初期のファミコンはドットだったから、プレイヤーの想像力にゆだねられるぶん、こうこうこうです!っていわれたらもう「そうなっちゃう」のね。それがファミコンのよさでもあったとおもうけど。
ただ絵とかもそうだとおもう。絵の額のなかって限られてるじゃないですか。こうこうこうです!って絵としてバーンって提示されたら、受け入れるしかないじゃないですか。そうかあ、って。そういうのあるんじゃないかな。
世界を提示したらそのまんまうけいれるっていう。枠の世界観ってそういうものじゃない。写真も映画も。
やすふくさんて野菜をテーマにした絵だけをかいてるじゃないですか。
安福 いやぜんぜんそんなことないけど笑。そういえば木下さんの短歌を思い出した。
ああサラダボウルにレタスレタスレタス終わらないんだもうねむいのに/木下龍也
これもひとつのサラダの国だ。
柳本 ゲームって初期からずっとわりとそういう〈なになに尽くし〉の世界観って感じだったんじゃないかな。『パロディウス』っていうシューティングゲームでも、ケーキのなかを弾をうってすすんでいく面があるのね。それは昔、大阪のイベントでやすふくさんが語ってたうる星やつらの巨大ケーキの世界観ともにてるとおもいますよ。
安福 いや語ってないですよ。やぎもとさんが説明してただけで。
柳本 なるほどなあ。そうですか。