万が一にもそんな擬似ファンダメンタリストがいたとすれば、それがどんなに川柳にとって「うざったい」存在であるか、このブログで多くの執筆者が散々述べてきたことをお読みになって頂ければ、お解りではないかと思う。
だが、この「思いを吐く」、一定の説得力を持つとすれば、「思い」というものがわざわざ「吐」かなければならない、川柳のがらんどうさに拠る。ニュートラルな状態では、「思い」という甘い幻想が介入してこない、空白地帯が広がっている。そこにこそ、川柳の可能性があるはずだ。
とは言いながら、僕には「思い」が何を指すのか、はっきりと断言することができない。何せ都市伝説ですから。それはともかく、このUMA、「私」と関わっていることだけは直覚できる。その辺については今回深入りを避ける。ここでは、「思い」が「私の位置の固定化」ということにして、今月の作品を読んでいきたい。
春うらら鶏冠をつけるのを忘れ 広瀬ちえみ
ここに「思い」はない。少なくとも吐かなければならないような、屈折しているようでしていない自意識の肯定感はない。この句にあるのは「鶏冠をつけるのを忘れ」ただけの現象である。現象という言葉を使ったが、それこそ現象学的に、()の中に入れて見るのもいい。と言うより、この句の成立自体が、カッコに入れる行為と非常によく似ている。むしろ、「カッコに入れる」ことのみがこの句の動力であるとも言える。
これがどんなに魅力的な営みであるか、僕の筆(パソコンだが)では到底言い表すことができない。
ただ、「作者にはこういう『思い』があってそれがみごとに表現されているよ」という作品よりは、こちらの背すじをぞくぞくとさせてくれる、とだけは言っておきたい。
軍配はうちのインコのおしゃべりに
「うちの」で「私」が溢出していると思われるかもしれない。しかし作者のいる地点は、「うち」ではない。「軍配は」のところに作者はいる。価値判断を委ねられた存在としての作者。しかし価値判断は、「おしゃべりに」のところで突き放される。
「おしゃべりに」は何を判断しているのか。おそらく何も確とした答えはないだろう。ここで価値判断は放棄させられる。従って作者はどこにもいない。裏を返せばどこにでも遍在する。「私」を超えた、メタとしての「私」。それはおそらく、がらんどうの文芸である川柳の可能性であるはずだ。
黒い鳥になって影絵の黒い木に
そらいろの童話のなかへ飛んでゆく
「黒い鳥」になるのは何なのか、「そらいろの童話のなかへ飛んでゆく」のは何なのか、明示はされない。主語の不在は、短詩文芸のひとつのゼロ地点である。「問答体」という、「主語」を主題にした型式を、どうしても背負わずにいられない、川柳においてはなおのことである。この二句は、その「問いー答え」の型式を、句そのものが意識している作品に見える。
亡亡亡切手の鳥はこう鳴くの
ここまでお付き合い下さった方は、もう言わんとしていることがお解りかもしれない。「こう鳴くの」のところに「私」も「思い」もない。むしろあるとすれば「亡亡亡」という、禍々しい漢字の連なりにおいてである。いや、言い直そう。「漢字を連ねる」という行為のところに、作者はいる。それがどんなに「私」以上の「私」なのか、「思い」以上の「思い」なのか、この連作を読めばわかってくる。
いや、正直に言おう。僕にはまだ「私」がわからない。わからないから、句を読み続け、詠み続ける。その手がかりになる指針のひとつとして、この「切手の鳥」はあった。舌足らずで作品の魅力を言い表せず、後悔している。本当は「あなた」に伝える手紙にしたかったのだ。切手を貼って。