2017年10月30日

【お知らせ】「川柳スパイラル」創刊号

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「川柳スパイラル」創刊号

目次
1 巻頭写真 入交佐妃
3 創刊のご挨拶・渦の生成 小池正博
6 同人作品 Spiral Wave
18 おしまい日記 第一回 柳本々々×安福望
23 いかに句を作るか 第一話 川合大祐
27 現代川柳入門以前 小池正博
31 小遊星 飯島章友×小津夜景
35 会員作品 Plastic Wave
41 現代川柳あれこれ Biotope 小池正博
47 投句規定・合評句会案内
48 妄読ノススメ 兵頭全郎
50 第一回東京句会
52 編集後記


「川柳スパイラル」の第1号が出来上がりました。

同人作品は、清水かおり、湊圭史、一戸涼子、柳本々々、浪越靖政、悠とし子、川合大祐、石田柊馬、畑美樹、飯島章友、兵頭全郎、小池正博。
また会員作品は、英田柚有子、宇川草書、深海魚、津田暹、丸山進、吉松澄子、松本藍、中西軒わ、本間かもせり、本多洋子、猫田千恵子、落合魯忠、岡本遊凪、いわさき楊子、西田雅子、いなだ豆乃助、早計層、岩根彰子、山下和代、高橋蘭、重森恒雄、酒井麗水、笠嶋恵美子、内田真理子、前田一石。

意外かも知れませんが、わたしはこのスパイラル誌ではじめて、川合大祐・柳本々々と所属グループをおなじくします。「川柳カード」をホームとしていた飯島章友、「川柳の仲間 旬」をホームとする川合大祐、「おかじょうき川柳社」をホームとする柳本々々とは別々の場で作句していたのです。
また畑美樹と川合大祐がおなじ柳誌に名を連ねていることも、ふたりの軌跡を想うと感慨深い。もともとふたりは、「川柳の仲間 旬」で同じ釜の飯をくっていたのですが、畑美樹は旬を脱会して「バックストローク」誌の編集人→「川柳カード」同人となり、いっぽう川合大祐はずっと旬に残留していました。それが約15年の歳月を経ておなじ柳誌で再会したわけです。

コンテンツについて簡単に説明します。
「おしまい日記」は柳本々々と安福望のトーク、「いかに句を作るか」は川合大祐による本格川柳小説、「現代川柳入門以前」は川柳とは何かについて「入門の手前あたりでうろうろする」文章、「小遊星」はホストの飯島章友とゲストとのトーク、「現代川柳あれこれ」は小池正博による会員作品評、「妄読ノススメ」は或る川柳作品を起点にした兵頭全郎の二次創作的な読み。まだ第1回目なので分からない部分もあるのだが、だいたいこんな感じで合っていると思います。

飯島が担当する「小遊星」は、テレビで言えば「徹子の部屋」や「サワコの朝」みたいなものだと思っています。今回のゲストは俳人の小津夜景さん。田中裕明賞受賞後のお忙しいなか、真摯かつ丁寧にご対応いただきました。誌面では3400文字ほどですが、実際はその3倍近くお話しています。夜景さんが短詩型文学に出合うまでのこと、句が出来上がるまでのプロセス、石部明の印象などなど。とても楽しいトークでしたよ。

ところで、「川柳スパイラル」はどのような柳誌になっていくのか。これは、あくまでもわたし個人の意見なのを断って言うけど、「川柳スパイラル」は次のようなタイプのひとたちに向いているのではないかしら。現代川柳には興味があるけどグループの理念や作風を指導されるのは苦手というひと、川柳をつうじて他のジャンルの表現者と交流をもちたいひと、(シニアの作者とは違う)現役世代のセンスでのびのびと作句したいひと、などなど。この柳誌が、そういうひとたちの受け皿になれたら素敵だと思う。ちょうど歌誌「かばん」のように。

「創刊のご挨拶」で小池正博は、「これまで川柳人しか知らなかった川柳の遺産をもっと一般の詩歌に関心のある読者に届ける方法を模索してゆきたい。したがって、本誌は川柳人だけではなくて、広く短詩型文学に関心のある読者を想定している」と述べている。俳人、歌人、詩人、連句人、都々逸作家、あるいは既成の壇から距離を置いて同人誌やネット上で詩歌創作をしている方々にもお読みいただければ幸甚です。

「川柳スパイラル」
編集発行人 小池正博
制作 私家本工房
同人 年間12000円
会員 年間6000円
購読 年間3000円 

「川柳スパイラル」のご購読
「川柳スパイラル」創刊号・合評句会のご案内


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2017年10月24日

「垂人」31

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「垂人」31
編集・発行 中西ひろ美 広瀬ちえみ

ひろ美&ちえみによる表紙写真が毎号印象的な「垂人たると」は、俳句、川柳、短歌、連句、自由律句、詩、図形詩と、さまざまなジャンルの作品が掲載されている。そして参加している作家の幾人かは、ジャンルを掛け持ちしている。

一般的に短詩型作家は、川柳なら川柳、俳句なら俳句、短歌なら短歌と、一つのジャンルにしぼって創作をつづけるものだ。しかし、なかには自ずとジャンルを越境する書き手もいる。わたしが参加している「かばん」誌は、短歌専門誌ではあるけれど、個々の会員・購読会員のなかには、短歌と並行して俳句、川柳、連句、現代詩、小説、エッセー、絵本、戯曲、翻訳、歌詞などを創作しているひともいる。なものだから「垂人」誌は、わたしからすると違和感がないどころか、これが普通という感じすらある。

ちなみに、格闘技の世界では、嘉納治五郎、前田光世、木村政彦、ジン・ラーベル、ダニー・ホッジ、ブルース・リー、佐山聡のように、打・投・極(打・倒・極)の技術を越境したり、あるいはその技術の総合化を追求したりする人がむかしからいたものだ。古代までさかのぼればパンクラチオン(レスリング+ボクシング)という競技などまさにそう。だから、たぶん格闘家や格闘技のファンってのは、文芸家以上にジャンルの越境には慣れている。近年の格闘技興行では、キック、総合、プロレス、ボクシングなどぜんぶ観られるのが普通になったしね(そういうのをいちばん最初に観にいったのは、昭和63(1988)年、両国国技館でおこなわれた梶原一騎追悼興行「格闘技の祭典」だ。あのときの思い出としては、初代タイガーマスクの佐山聡と二代目タイガーマスクが握手をしたこと、そしてダフ屋がいっぱいいたってことが印象的)

何の話だったか。そうそう「垂人」の話でした。

燕くる駅舎大きく口あけて  川村研治
雨のいうとおりに行くと初燕  中西ひろ美
隆夫忌ができてしまったすぐ追えば彼岸の前に追いつけるかも
目玉から闇へとびこむ鬼やんま  ますだかも
宇宙軌道を回りつづける駄句冗句  高橋かづき
白藤や遣欧使節ひかりあう  坂間恒子
ゆく雲やそれは春巻春の駅  佐藤榮市
多羅葉のハガキを森の郵函ポストまで  渡辺信明
ざわざわとしている春の道具箱  広瀬ちえみ
たまたまもまたまたもあり鳥墜ちる 
よく動く埃と見れば囀りぬ  野口 裕
幻覚の消えつつ残る春の朝ごろんと蘇鉄の実がころがって
何もしないから神は神でいられる  中内火星
ささやかれつぶやかれついはるのうみ  大沢 然
あめんぼうじいじがきゅうにいなくなる  ます田さなみ


各作家の群作には、俳句とか川柳といったジャンル名は表明されていない。言ってみれば、俳句として読もうが川柳として読もうがご自由に、という感じだ。このように複数のジャンルを跨いだり、あるいは複数のジャンルが共生している様をみると、前近代が一足飛びで後近代に現れた感じがしてくる。

ここでは引用できないが、この他に、参加者の詩やエッセー、そして曳尾庵えいりあん璞の捌による「脇起 オン座六句『そこのけ』の巻」も掲載されている。もちろん、立句は「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る 小林一茶」である。

「垂人」の素敵なところは、各作家がノビノビと、自由に楽しんでやっているのが伝わってくること。これって大事ですよね。

なお「垂人」は、ブログやSNSを設けていない模様。興味をお持ちのかたは、共通の知人にお訊きになるなど、万難を排して中西ひろ美さんや広瀬ちえみさんの連絡先をお調べになってくださいませ。


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とびら  鈴木純一
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2017年10月16日

チャック・ベリーのこと



今年の3月18日にチャック・ベリーが死んだ。
居て当たり前、という存在だった。死んだというニュースを聞いたとき悲しい感じはしなかった。〈死んだ〉という客観性と〈いつも居る〉という主観性の中間地帯で恍惚とする感覚だったな。

チャック・ベリーのライブは一回だけ行ったことがある。1997年3月の赤坂BLITZ。おっちゃんばかり来ているのかと思ったら、二十歳前後のギャルもそこそこ来ていて意外だった。もちろん、むかし原宿のホコ天でローラー族とかやってたんじゃね?っていう不良中年もいた。リーゼントに革ジャン姿のね。俺もあと一回りはやく生まれていたらその中に混じっていたかもしれない。

彼のライブでは「キミとキミと、あとはキミ」みたいな感じで任意に女の子が選ばれ、ステージに上げさせてもらえることがよくある。赤坂BLITZでも、90年代ファッションに身を包んだギャルたちが彼から選ばれ、曲に合わせてステージで踊りまくっていた。あの光景は不思議だったなあ。チャックの激しいビートでタイムクラッシュが起き、50年代後半のアメリカのロック会場に今どきの日本のギャルたちが突如現れちまったような。

でも、チャック・ベリーって、日本ではビートルズやストーンズと違い、けっしてポピュラーな存在ではない。むしろ「ジョニー・B・グッド」「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」「ロックンロール・ミュージック」といった彼のヒットナンバーのほうが有名だ。ロックのスタンダードになっているからね。でも、彼だけじゃない。エルヴィス・プレスリー、リトル・リチャード、ボ・ディドリー、ジェリー・リー・ルイス、バディ・ホリー、エディ・コクランといったフィフティーズが総じてそうだと思うよ。エルヴィスですら、もし話題にあがるとしたら、世界で初めて衛星生中継された1973年の「アロハ・フロム・ハワイ」の思い出くらい。それならまだいいんだけど、あとはドーナッツをどうしたこうしたっていうしょーもねえ話ばっかでしょ。

ロックの歴史が語られるばあい、日本ではたいてい60年代半ばから始まって、1955年〜1963年はロック前史という扱いだと認識している。ビートルズからを「ロック」、それ以前は「ロックンロール」というぐあいに、自分なりの史観にもとづいて言葉の使い分けをするなら分かるんだけど、なんだろう、ビートルズ以前は「オールディーズ」で纏める習いになっちまってる。オールディーズの中でも、特にビートルズやストーンズのルーツにあたるものを「ロックンロール」と呼んでおこうか、みたいな。

十代のころからこれが不思議でならなかった。学生時代に考えたことがあるんだけど、これってひとつは、エルヴィス・プレスリーが人気絶頂だった昭和30年代前半に来日しなかったことが原因かもね。あともうひとつは、ジャパニーズ・ロックを創っていった世代が主にビートルズやボブ・ディラン、ストーンズから影響を受けていて、チャック・ベリーはビートルズとかを通じて初めて聴いた、といった事情もあるんじゃないかな。もちろん、原因はもっといろいろだろうし、ロックンロールは所詮アメリカの文化なわけだから、しゃーないと言えばしゃーないんだけどさ。イギリスだって最初はアメリカからロックンロールを輸入したわけで、クリフ・リチャードやヴィンス・テイラーの位置づけで似たような問題があるかもしれない。イギリスのロック史観は何も知らないけど。

ちょっと愚痴っぽくなった。
要は、チャック・ベリーが大好きなんだよ、俺は。彼の書いた『チャック・ベリー(自伝)』(中江昌彦 訳・音楽之友社)を読むと感じるのだけど、小難しいことは抜きにして、ただただチャックベリーを楽しんでもらいたい、そういう姿勢を確かに彼はもっている。俺がフィフティーズの音楽を好むのも、あの時代のパフォーマーとオーディエンスにそれを感じるからだ。有名なダックウォークもそういう姿勢から生れたんだろうね。

 ゴムボールと追っかけっこをしたのは楽しい思い出だ。ある時、俺は、テーブルの下で弾んでいるボールをつかもうと躍起になっていた。家に客が来ている時に騒ぐと普段なら必ず怒られたものなのだが、この時は俺がボールを捕まえようとする仕ぐさが余程面白かったらしく、お袋が入っていた聖歌隊のメンバーが大笑いを始めた。テーブルの下にすっぽりと入って、首を上に突き上げ、膝を折った姿勢でボールを追いかけて前に進む。このしゃがみ込みスタイルはお客さんがくると、よく家族にリクエストされるようになり、俺自身もこの芸をするのが楽しみになった。
 一つの芸の誕生というわけだ。
(『チャック・ベリー(自伝)』P25〜P26)





2017年10月08日

そういうじだいでしょ。:200字川柳小説  川合大祐

がっこうからかえると、おかあさんが熊になっていました。熊というかんじをかけるのは、おかあさんが熊になるたび、ホワイトボードに「きょうは熊です」とかいておくのでおぼえてしまいました。熊は「ふっふっふ。ふっふっふ」といきをして、いまをうろついているので、あぶなくてしかたありません。たまにかみついてきます。さんぽにつれだすと、こうえんでころげまわります。いいました。「おかあさん、あたし、砂場になるよ」。

  母熊を連れ鉄棒にぶつかるよ  暮田真名(今月のゲスト作品「モアレ現象とは」より)

posted by 川合大祐 at 06:04| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

山下和代さん川柳の絵感想/柳本々々

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ダダダッとダダダダダッと脱皮せよ/山下和代

脱皮はゆるやかなイメージがあるが、山下さんの句では脱皮はダが連打され力強いものになっている。いままでの脱皮からの脱出のようなあたらしい脱皮のイメージだ。

しかし、「と」が合間合間に入ることにより、リズムもかたちづくっている。

ちからづよい、リズミカルな脱皮とは、どんなものになるだろう。

駆け抜けるような脱皮なのだが、しかしその駆け抜けるような脱皮を、いったい誰が目撃するのか。

わたしたちは、隙間から覗くようにしてしか、目撃できないのではないのか。

しかし、わたしは目撃してみたい。だとしたら、絵が川柳を目撃することもありうるのではないだろうか。






posted by 柳本々々 at 22:17| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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