2017年11月30日

【11月のゲスト作品】矮星 くんじろう を、読んだ。

くんじろうさんの句は、私性をすっかりくるんでこしらえられている。
わかりやすいことばなのに、そこに置かれると新鮮だったり、クスリとさせられたり、ちょっとメルヘンだったりかっこよかったり、ほどよい感じに引き算されて(膨大なことばのイメージが隠れている気がする)、こんなんできましたけど、と、にこにこさしだされている感じがするのだ。ぜんぜんたかびしゃでなくて、ウエルカムな匂い。いい意味での韜晦。

猥談も確かにあった古墳群
 古墳時代のひとびとが猥談をしていたという意味だと、やんごとなきひとイコール権威を茶化していることになるのだろうか。
 古墳たちがいきづいていて現代に会話をしている、と読むほうが好み。

フレアから阿闍梨も猫も帰るころ
 太陽フレアだろうか。
 ゆらめく炎が僧のかたちにも猫にもなりどこかへ帰っていく。どこへ?
 存在が太陽にすいこまれて、フレアになって戻ってくる。
 そうかぁ、帰るころなんだ、とすんなり読んだのち、「ころ」って何?と思う。
 フレアがひろがるように、ふわっと曖昧な感じ。こういう軽い感じも連作のなかの一句として効いていると思う。

ベランダに干す彗星の尾の部分
 これはずいぶんかわいらしい。
 彗星の尾はしっとり濡れていたのだろう。
 光るのか。
 そして尾以外はいずこへ。
 ベランダのむこうの部屋をのぞいてみたくなる。尾を脱いだ彗星が、部屋の主とくつろいでいるのかもしれない。

錆止めと馬の歯型を星座図に
 空に置くのではなく、星座図に置くという。
 蹄鉄なら絵になりそうだが、馬の歯型を。それにしても錆止めはどんなかたちなのか。かたちとして配置されるものではなく、星座たちを治療するものなのかもしれない。
 星座の数は88だとか。夜空は88に区画整理されている。その均衡を崩すのか、保つのか。星座図へ試みられる謎のたくらみ。

矮星に空海らしき墨衣
 サン・デクジュペリが描いた本の表紙が頭に浮かんだ。
 星の王子さまはちいさな星の上に立っていた。星の輝き色の頭髪をもつ王子はペールグリーンのパンタロンスタイルのつなぎを着て、ぼんやりと考えごとをしている(もしくはただぼんやりしている)
 王子はときに星の肩章つきの青いコートをはおり、サーベルを握りしゃちほこばる。
 「矮星の墨衣」は星の王子さまの青いコートを思い出させる。
 ちいさな星に墨衣だけがある。黒は一般的には格式のある色だが、法衣においては普段着のものだ。墨衣を残して、別の時空に行ったらしいヒトがいる。空海だったかもしれない。

猥談・古墳群・阿闍梨・彗星・星座図・矮星・空海・墨衣・・諸行無常
 漢字が目に楽しい。



posted by 飯島章友 at 23:29| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

んなあほな:200字川柳小説  川合大祐

んた、この世をどう思う。初の数秒、チャンネルを合わせ損ねた必殺仕業人に問われた。の世と言われても、この千年ほどアパートの外に出ていないからよくわからない。は良かった。も鰯缶も共通していた。であったからである。と呼ばれることもあったが、そもそも乱気流の彼方のチョコレートパイの躍り食いの別称なのでいたしかたがないと言うこともできるだろう。を言っているのか明快すぎて解らないが、祇園精舎にアラン・ドロン。

  ん行から諸行無常のチョコレート  くんじろう(11月のゲスト作品「矮星」より)

posted by 川合大祐 at 20:53| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月24日

「川柳北田辺」第85回

「川柳北田辺」第85回
発行人・編集人 竹下勲二朗 

「川柳・北田辺」は、くんじろうさんが主宰の川柳句会。大阪市東住吉区の北田辺駅近くで毎月1回開催されている。欠席投句も受け付けており、北田辺に通えない地域の川柳人も参加できる。あらかじめ発表される4つの兼題で川柳をつくり、句箋に書いて事務局へ郵送すればよい(欠席投句500円・FAXやメールでの投句は不可)。

なお会員募集中で、年会費は3000円(投句料とは異なる)である。

【第85回句会】
満場一致通貨単位はモンブラン きゅういち (笠嶋恵美子選・席題「くり」)
マネキンのリンパを探すアルバイト くんじろう (酒井かがり選・兼題「どくどく」)
ペンギンはカンペキなので游げない 豆乃助 (中村幸彦選・兼題「ともすれば」)
あきらめの悪い太田胃散がある 幸彦 (笠嶋恵美子選・席題「今」) 
放たれて鰭はやさしい夜に入る かがり (中村幸彦選・席題「鰭」)
消しゴムの代わりに月代を使え 秀・きゅういち (森田律子選・席題「消しゴム」)
星条旗ですか煮詰めたジャムですか 軸・紫乙 (竹井紫乙選・席題「ですか」)
泥ソースたっぷり塗って抱きしめる かがり (くんじろう選・席題「好き」)

北田辺句会は飲食をしながらの句会だと聞く。そのためなのか皆さんどことなく、ホームの柳誌よりもリラックスして作っている感じがする。

俳諧味。
それがどういった意味合いなのかという面倒臭いことはさておき、川柳北田辺の作品群を見て最初に浮かんだのがその言葉だ。詩性を感じる句、私性を感じる句、社会性を感じる句と、それぞれ個別の質感はあるのだけど、その個別性をもっと上位からまとめているのが〈俳諧味〉。北田辺の作品群にそんな印象をもった。

一般的にいうと、川柳は面白いことを書く文芸、というイメージがあると思う。しかし、吟社川柳をいろいろ見てみると、シリアスな内容の句もわりと多い。川柳には「道句」(みちく)という用語がある。教訓的で俚諺的な内容の川柳を指して言う。こういう言葉があるということじたい、川柳人は教訓へ傾く傾向があるのかも知れない。道句の例を『川柳総合大事典 第三巻 用語編』(尾藤三柳 監修・尾藤一泉 編/雄山閣)から少し引いておく。

 誰にでも書ける平和の字の重み  中村柳児
 要らぬ子は一人も居ない母子手帳  山本桜子
 爽やかな風が無欲になれと言う  坂 稲花

ちなみに、憲法について書いた時事川柳なんかを見ても、憲法改正ダメ!という趣旨の句がほぼ10割だ。選後評や自句自解を聞いても、戦後のいわゆる「平和主義」的な立ち位置をかたくなに守る書き手が多い。そう、体制的とはいわないけど、基本的に川柳人は真面目なのだ。

だが、川柳の歴史に鑑みれば、それこそ江戸の昔から言葉遊びもしてきたし、先行作品のパロディもしてきたし、『誹風末摘花』に代表されるようにエロいことだって書いていた。時事問題で寸鉄人を刺したり、人生における教訓や悲哀を書くばかりが川柳ではないのだ。

東京のひと限定の話題かも知れないけど、テレビ局になぞらえれば川柳は「TOKYO MX」なのである。この局は、ヤバめの政治・社会問題を扱う教養番組からシモネタ満載の情報番組まで、じつに自由に制作している。なので、自主規制が多いキー局の番組に飽き足らなくなった視聴者の受け皿となっている。これは、TOKYO MXがローカル局なので出来る面もある。

短詩型文学の世界でいえば、俳句と短歌はキー局にあたるだろう。であるならば川柳というローカル局は、キー局があまり手を出さない要素を受け入れたほうが得策だ。「川柳北田辺」というローカル局は、からっと明るい〈俳諧味〉に支えられた言葉遊び、パロディ、猥雑性といった要素を確かに受け入れていると思う。そして、それが決して旦那芸の次元ではなく、文芸としての次元で書かれているからこそ興趣がわくのである。


くんじろう•川柳北田辺と猫6匹



posted by 飯島章友 at 23:40| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月04日

暮田真名「モアレ現象とは」を読む

10月の作品は、暮田真名さんによる「モアレ現象とは」だった。

最初に「モアレ」の意味を確認しておく。モアレとは、「1 木目や波紋模様を表した張りのある織物。また、その加工。タフタ・アセテートなどに施し、リボン・服地などに使われる。 2 幾何学的に規則正しく分布する点または線を重ね合わせると、その間隔の疎密によってできる斑紋。網版の多色印刷、走査線が周期的に並ぶテレビ画面、画素が規則正しく配列されたデジタルカメラの撮影画像などに生じやすい」。


見せつけてティンカー・ベルの霜柱

ディズニーのティンカー・ベルシリーズを観ていると、妖精たちがハネ(翅?羽?)をはばたかせ空中を飛ぶたびに、なにか蝶の鱗粉のような、キラキラしたものをふり撒いているのに気づく。妖精たちがいっせいに飛び立ったり、よろこびに乱舞したりするシーンでは、そのキラキラとこぼれ落ちる粉で目のくらむ思いがする(目がくらまないように配慮して作ってあると思うので、あくまでもそのような「思いがする」だけであるが)。
また霜柱も、ズーム画像で見ると目のくらむ思いがする。それというのも、一本いっぽんの柱が重なりつつも少しズレていたり、氷の白い部分と透明な部分にコントラストがあったりするからだろう。
「ティンカー・ベルの霜柱」、そんなものを「見せつけ」られたら見る側は眩惑されてしまうだろう、ちょうどモアレの斑紋を見てくらくらするように。いまは11月初頭。これからいよいよ冬を迎えるわけだが、わたしには「ティンカー・ベルの霜柱」が見えるのだろうか。

まばゆくてあばら並びに倦んでいる

「あばら並び」とはオモシロい言葉をつくったものだ。むかし学校で、生徒どうし二列に向かい合って手をつなぎ、人間トンネルをつくった経験がある。あのようなときは「みなさん、あばら並びに手をつないでトンネルをつくりましょう」といえば、効率よく伝わりそうだ。
さて「まばゆい」とは、まともに目を開けて見られないほど過剰に美しいこと。その美しさにたいして人びとは「倦んでいる」わけだ。「まばゆい」という正の過剰と「倦む」という負の過剰。そして、その両極の過剰をつないでいるのが「あばら並び」という均整(シンメトリー)。正負の過剰、そして均整。この疎密にモアレは生じるのかも知れない。
なお、上掲句は音の並びも面白いと思った。mabayukute abaranarabini undeiruとすると分かりやすいのだけど、上五から中七にかけてa音がつづいている。さらに上五のu音、中七のi音も、舌に心地いい。だが、その音の心地よさも下五の前でぷっつりと切れているように思える。これもモアレ現象の一種なのだろうか。

   🔶 🔶 🔶

「モアレ現象」というタイトルはたいへん示唆的だと思う。というのも、短詩型文学作品における共感性の一パターンには、多かれ少なかれ〈言葉のモアレ現象〉が関わっていると思うからだ。それは以下のようなことである。

仰向けに逝きたる蟬よ仕立てのよい秋のベストをきっちり着けて  杉ア恒夫

わたしの好きな歌だ。なぜ好きと感じるのか。その理由としては、真っ先に次のことが考えられる。「仰向けに逝きたる蟬」と「仕立てのよい秋のベストをきっちり着けて」とは互いに〈即いている〉関係だ。にもかかわらず、「蟬」の亡骸と「ベスト」とはあくまでも異種どうしであって、その意味では〈即いていない〉関係でもある。一首における即く・即かないの重なり合い。これが不思議で心地よい情感を醸しているのだ。

ところでモアレ現象というのは、〈規則正し〉く並んだ線や点を重ね合わせたとき、周期の〈ズレ〉が原因で発生する縞模様。ここでかりに、規則正しい=即く、ズレる=即かない、と見なして上記の議論に当てはめてみよう。すると短歌の共感性とは、〈規則正しい=即く〉と〈ズレる=即かない〉が重なり合うことによって生まれる、といえるだろう。これは、短歌における〈言葉のモアレ現象〉とでもいうべきものだ。そして〈言葉のモアレ現象〉こそ、えもいえぬ不思議な情感を読み手に与える一因であり、また規則正しさが求められる散文を脱することにも寄与している。今回は分析しないけど、おそらく俳句や川柳の共感性にも〈言葉のモアレ現象〉は関わっている。

こうしてモアレ現象と短詩型の関係を考えてみたとき、ふと、わたしの脳裏に寺山修司の名前がよぎる。印刷におけるモアレについていうと、いちど網点を貼ったデータを拡大・縮小することによってモアレが発生してしまうのだという。短詩型に置きかえるならば、或るエモーションから作られた五七五に七七を付け加えて拡大したり、逆に五七五七七から七七を省いて縮小したりすると、モアレが発生するといえそうだ。寺山の『ロミイの代弁―短詩型へのエチュード』を読むと、彼が俳句の短歌化と短歌の俳句化に意識的だったことが窺われる。

チェホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き

寺山によると、これでは窮屈でしょうがないということで次のようになった。

籠桃に頬いたきまでおしつけてチェホフの日の電車にゆらる

逆のばあいもある。

桃太る夜はひそかな小市民の怒りをこめしわが無名の詩

これはやや冗漫だということで次のように引き締めている。

桃太る夜は怒りを詩にこめて

おなじエモーションからできた短歌と俳句を並べてみると、その一致とズレに、えもいえぬ不思議な感覚が起こってくる。これも〈言葉のモアレ現象〉といえるのではないだろうか。

また、寺山修司の歌集『空には本』を見ると、あることに気がつく。それは、先行する自分の歌の断片を、まるで衣服のコーディネートでもするかのように、後行する自分の歌へ組み込んでいるのだ。こころみに、歌集内では別々のページに掲載されているそれらの歌を並べてみよう。いっぱいある中から一例だけあげる。

やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく
冬怒濤汲まれてしずかなる水におのが胸もとうつされてゆく
冬怒濤汲みきてしずかなる桶にうつされ帰るただの一漁夫


三首に共通・類似する断片を、赤・青・黄で色分けしてみた。先行する歌の断片を組み入れることによって起こる一致と不一致。それが、一首だけ鑑賞するのでは味わえない不思議な情感を醸し出し、くらくらする。ここにおいても〈言葉のモアレ現象〉が起こっている気がしてならない。


posted by 飯島章友 at 20:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月01日

形而上の象はときどき水を飲む  大西泰世

句集『世紀末の小町』(1989年 砂子屋書房)より

ぼくと川柳との出会いを語りたい。
詩や俳句、短歌は興味なくとも小中学校の教科書でまず目に触れられるが川柳はそうはいかない。特に現代川柳や革新川柳というものは尚更だ。今ならネットやなんかで検索すると色々ヒットするが、ぼくの思春期当時にはそのようなものは当然なく、興味あるものはとりあえず図書館で手当たり次第あたるか本屋で探す位しか方法はなかった。既に文学にかぶれていた中学生の頃は暇を見つけては新しい書物との出会いを求めて自転車で市内にある図書館や古書店を巡ったものだ。

あれはそんな中学生の頃だったと記憶しているが、市内の今はもうない行きつけの古書店で何気なく手を取ったこの句集のこの句に出会ってしまった。
形而上という高尚な言葉と象の組み合わせになにやら心の中で火花が飛び散った。
これが川柳か! と。
以来川柳に真面目に取り組めば良かったのだが、紆余曲折あって実際に川柳を始めるまでに20数年まわり道をすることになってしまった。それはまたの機会に。

月夜の晩、或いは真昼間かもしれないが象は水を飲む。しかもときどき。きっと美味しいのだろう。水を飲み音まで聞こえてくるようだ。


posted by いなだ豆乃助 at 12:32| Comment(0) | いなだ豆乃助・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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