10月の作品は、暮田真名さんによる「
モアレ現象とは」だった。
最初に「
モアレ」の意味を確認しておく。モアレとは、「1 木目や波紋模様を表した張りのある織物。また、その加工。タフタ・アセテートなどに施し、リボン・服地などに使われる。 2 幾何学的に規則正しく分布する点または線を重ね合わせると、その間隔の疎密によってできる斑紋。網版の多色印刷、走査線が周期的に並ぶテレビ画面、画素が規則正しく配列されたデジタルカメラの撮影画像などに生じやすい」。
見せつけてティンカー・ベルの霜柱ディズニーのティンカー・ベルシリーズを観ていると、妖精たちがハネ(翅?羽?)をはばたかせ空中を飛ぶたびに、なにか蝶の鱗粉のような、キラキラしたものをふり撒いているのに気づく。妖精たちがいっせいに飛び立ったり、よろこびに乱舞したりするシーンでは、そのキラキラとこぼれ落ちる粉で目のくらむ思いがする(目がくらまないように配慮して作ってあると思うので、あくまでもそのような「思いがする」だけであるが)。
また霜柱も、ズーム画像で見ると目のくらむ思いがする。それというのも、一本いっぽんの柱が重なりつつも少しズレていたり、氷の白い部分と透明な部分にコントラストがあったりするからだろう。
「ティンカー・ベルの霜柱」、そんなものを「見せつけ」られたら見る側は眩惑されてしまうだろう、ちょうどモアレの斑紋を見てくらくらするように。いまは11月初頭。これからいよいよ冬を迎えるわけだが、わたしには「ティンカー・ベルの霜柱」が見えるのだろうか。
まばゆくてあばら並びに倦んでいる「あばら並び」とはオモシロい言葉をつくったものだ。むかし学校で、生徒どうし二列に向かい合って手をつなぎ、人間トンネルをつくった経験がある。あのようなときは「みなさん、あばら並びに手をつないでトンネルをつくりましょう」といえば、効率よく伝わりそうだ。
さて「まばゆい」とは、まともに目を開けて見られないほど過剰に美しいこと。その美しさにたいして人びとは「倦んでいる」わけだ。「まばゆい」という正の過剰と「倦む」という負の過剰。そして、その両極の過剰をつないでいるのが「あばら並び」という均整(シンメトリー)。正負の過剰、そして均整。この疎密にモアレは生じるのかも知れない。
なお、上掲句は音の並びも面白いと思った。mabayukute abaranarabini undeiruとすると分かりやすいのだけど、上五から中七にかけてa音がつづいている。さらに上五のu音、中七のi音も、舌に心地いい。だが、その音の心地よさも下五の前でぷっつりと切れているように思える。これもモアレ現象の一種なのだろうか。
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「モアレ現象」というタイトルはたいへん示唆的だと思う。というのも、短詩型文学作品における共感性の一パターンには、多かれ少なかれ〈言葉のモアレ現象〉が関わっていると思うからだ。それは以下のようなことである。
仰向けに逝きたる蟬よ仕立てのよい秋のベストをきっちり着けて 杉ア恒夫
わたしの好きな歌だ。なぜ好きと感じるのか。その理由としては、真っ先に次のことが考えられる。「仰向けに逝きたる蟬」と「仕立てのよい秋のベストをきっちり着けて」とは互いに〈即いている〉関係だ。にもかかわらず、「蟬」の亡骸と「ベスト」とはあくまでも異種どうしであって、その意味では〈即いていない〉関係でもある。一首における即く・即かないの重なり合い。これが不思議で心地よい情感を醸しているのだ。
ところでモアレ現象というのは、〈規則正し〉く並んだ線や点を重ね合わせたとき、周期の〈ズレ〉が原因で発生する縞模様。ここでかりに、規則正しい=即く、ズレる=即かない、と見なして上記の議論に当てはめてみよう。すると短歌の共感性とは、〈規則正しい=即く〉と〈ズレる=即かない〉が重なり合うことによって生まれる、といえるだろう。これは、短歌における〈言葉のモアレ現象〉とでもいうべきものだ。そして〈言葉のモアレ現象〉こそ、えもいえぬ不思議な情感を読み手に与える一因であり、また規則正しさが求められる散文を脱することにも寄与している。今回は分析しないけど、おそらく俳句や川柳の共感性にも〈言葉のモアレ現象〉は関わっている。
こうしてモアレ現象と短詩型の関係を考えてみたとき、ふと、わたしの脳裏に寺山修司の名前がよぎる。印刷におけるモアレについていうと、いちど網点を貼ったデータを拡大・縮小することによってモアレが発生してしまうのだという。短詩型に置きかえるならば、或るエモーションから作られた五七五に七七を付け加えて拡大したり、逆に五七五七七から七七を省いて縮小したりすると、モアレが発生するといえそうだ。寺山の『ロミイの代弁―短詩型へのエチュード』を読むと、彼が俳句の短歌化と短歌の俳句化に意識的だったことが窺われる。
チェホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き寺山によると、これでは窮屈でしょうがないということで次のようになった。
籠桃に頬いたきまでおしつけてチェホフの日の電車にゆらる逆のばあいもある。
桃太る夜はひそかな小市民の怒りをこめしわが無名の詩これはやや冗漫だということで次のように引き締めている。
桃太る夜は怒りを詩にこめておなじエモーションからできた短歌と俳句を並べてみると、その一致とズレに、えもいえぬ不思議な感覚が起こってくる。これも〈言葉のモアレ現象〉といえるのではないだろうか。
また、寺山修司の歌集『空には本』を見ると、あることに気がつく。それは、先行する自分の歌の断片を、まるで衣服のコーディネートでもするかのように、後行する自分の歌へ組み込んでいるのだ。こころみに、歌集内では別々のページに掲載されているそれらの歌を並べてみよう。いっぱいある中から一例だけあげる。
やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく
冬怒濤汲まれてしずかなる水におのが胸もとうつされてゆく
冬怒濤汲みきてしずかなる桶にうつされ帰るただの一漁夫三首に共通・類似する断片を、赤・青・黄で色分けしてみた。先行する歌の断片を組み入れることによって起こる一致と不一致。それが、一首だけ鑑賞するのでは味わえない不思議な情感を醸し出し、くらくらする。ここにおいても〈言葉のモアレ現象〉が起こっている気がしてならない。