石もて追われた古里が恋しくて
石川啄木の「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」(『一握の砂』)が思い出されます。「追われた」「追はるるごとく」とあるように、ふるさとには誰だって思い出したくもない記憶が残っているものでしょう。言わばふるさととは、負のモニュメントが残存している場所であります。室生犀星の次の詩も有名ですね。「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食となるとても/帰るところにあるまじや」(『抒情小曲集』)。現在では、むかしほど帰郷に覚悟など必要ないでしょうが、それでも日本人にとってのふるさとには、何ほどか〈帰れぬ場所〉というニュアンスがありはしないでしょうか。もっといえば〈もはや捨て去った場所〉というニュアンスすらあるかも知れません。
その一方で、上掲句にもあるように、ふるさととは無性に「恋しく」なって仕方がない場所でもあるでしょう。理性では捨て去ったつもりでも、感情からは容易に拭い去れないのがふるさとです。なぜならば、自分を育んできた土壌だから。これは、食習慣を容易に変えることができないのと似ているのではないでしょうか。三島由紀夫が『お茶漬ナショナリズム』というエッセーでこんなふうなことを書いています。日本人がひとたび外国に行ったなら、進歩的文化人だろうが反動政治家だろうが、仲好く「お茶漬ノスタルジーのとりこ」になってしまう。そしてお茶漬を掻き込みながら、日本についてああでもない、こうでもないと議論をする、と。三島が書いた例にみるように、どんなにアメリカナイズされたライフスタイルを送っていようが、食習慣は感覚に色濃くしみ着いてしまって容易に脱色できないものでしょう。おなじことが、ふるさとにも当てはまると思います。
加藤さんの句は、「石もて追われた」「古里が恋し」と、愛憎半ばする複雑な心情が直接的に表現されています。一方、「ふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」と歌った啄木とて、その「かなしみ」には〈悲しみ〉や〈哀しみ〉だけではなく、〈愛しみ〉の情も含まれているように思います。悲も哀も、それ一つだけでは生じることはありません。それらはその裏側に愛があればこそ生起するのだ、と一先ずいっておけば少しは説得力が増すでしょうか。
このように見てくると加藤さんの上掲句は、「ふるさと」とはこういうものだという作者の認識が表されていると同時に、近代以降の日本人が「ふるさと」をどう認識してきたかということまで折り畳まれているように思えます。
雑踏のコドク半径五メートル
愛ならば象形文字で伝えてよ
小林秀雄に『故郷を失った文学』という昭和8年の小文があります。
自分の生活を省みて、そこに何かしら具体性といふものが大変欠如してゐる事に気づく。しつかりと足を地につけた人間、社会人の面貌を見つける事が容易ではない。一口に言へば東京に生れた東京人といふものを見附けるよりも、実際何処に生れたのでもない都会人といふ抽象人の顔の方が見附けやすい。
また江戸川乱歩に『群衆の中のロビンソン』という昭和10年エッセーがあります。
映画街の人込みの中には、なんと多くのロビンソン・クルーソーが歩いていることであろう。ああいう群衆の中の同伴者のない人間というものは、彼等自身は意識しないまでも皆、「ロビンソン願望」にそそのかされて、群衆の中の孤独を味いに来ているのではないであろうか……
都会や群衆は、人間を「抽象人」にし「ロビンソン」にしてしまう。上掲句の「コドク」という片仮名表記には、都会や群衆の中で抽象化され、ロビンソンとして記号化されてしまった作中主体の状況が表されているのかも知れません。
都会人は「コドク」である、雑踏の中で人は「コドク」に歩いている、などと、あたかも個人の輪郭が消し去られたかのように片仮名表記の「コドク」を感じるとき、現代人は強烈に漢字表記の〈孤独〉に襲われ、〈生の手応え〉を渇望していくものだと思います。そのように考えたとき、「古里」という自己の本源を恋い、「象形文字」という可視化された愛を請う作中主体の境遇が、読み手に迫ってくるのです。
鍵盤に溺れたままの白い指
溜め息をついては白を深くする
人ひとり生きた証をのこす磁場
タイトルが「白い磁場」であり、上掲句に「白い指」「白を深くする」とあるように、「白」が本連作に通底するテーマと思われます。「白」とは、着色されるにあたっての起点、着色の前提となる生地といえるでしょう。繰り返しになりますが、これまで見てきた作品に「古里が恋しくて」「雑踏のコドク」「象形文字で伝えてよ」とあることからも分かるように、作中主体は確かな〈生の手応え〉を感じられずにいる。ちょっと気取った言い方をするなら、作中主体はずっと生の手応えを得ようと〈自己言及〉をつづけている。「古里」や「象形文字」という手応えを渇望するのは、どうにかして自分の輪郭を、言い換えればどうにかして自己言及の限界域を見定めようとしているからではないでしょうか。してみると「人ひとり生きた証をのこす磁場」の「磁場」は、本当は〈自場〉なのだと思います。
このように考えてみると、「白」という表現に込められているのは、自分の輪郭なり限界なりを見定められずにいる自分自身のことのように思えます。