2018年03月31日

加藤ゆみ子「白い磁場」を読む

こちらの諸事情により、加藤ゆみ子さんの1月作品「白い磁場」の鑑賞をアップできないでいました。遅くなったことをお詫びします。3月の小野善江作品の鑑賞は後日アップしますね。

石もて追われた古里が恋しくて

石川啄木の「石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし(『一握の砂』)が思い出されます。「追われた」「追はるるごとく」とあるように、ふるさとには誰だって思い出したくもない記憶が残っているものでしょう。言わばふるさととは、負のモニュメントが残存している場所であります。室生犀星の次の詩も有名ですね。「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食となるとても/帰るところにあるまじや(『抒情小曲集』)。現在では、むかしほど帰郷に覚悟など必要ないでしょうが、それでも日本人にとってのふるさとには、何ほどか〈帰れぬ場所〉というニュアンスがありはしないでしょうか。もっといえば〈もはや捨て去った場所〉というニュアンスすらあるかも知れません。

その一方で、上掲句にもあるように、ふるさととは無性に「恋しく」なって仕方がない場所でもあるでしょう。理性では捨て去ったつもりでも、感情からは容易に拭い去れないのがふるさとです。なぜならば、自分を育んできた土壌だから。これは、食習慣を容易に変えることができないのと似ているのではないでしょうか。三島由紀夫が『お茶漬ナショナリズム』というエッセーでこんなふうなことを書いています。日本人がひとたび外国に行ったなら、進歩的文化人だろうが反動政治家だろうが、仲好く「お茶漬ノスタルジーのとりこ」になってしまう。そしてお茶漬を掻き込みながら、日本についてああでもない、こうでもないと議論をする、と。三島が書いた例にみるように、どんなにアメリカナイズされたライフスタイルを送っていようが、食習慣は感覚に色濃くしみ着いてしまって容易に脱色できないものでしょう。おなじことが、ふるさとにも当てはまると思います。

加藤さんの句は、「石もて追われた」「古里が恋し」と、愛憎半ばする複雑な心情が直接的に表現されています。一方、「ふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」と歌った啄木とて、その「かなしみ」には〈悲しみ〉や〈哀しみ〉だけではなく、〈愛しみ〉の情も含まれているように思います。悲も哀も、それ一つだけでは生じることはありません。それらはその裏側に愛があればこそ生起するのだ、と一先ずいっておけば少しは説得力が増すでしょうか。

このように見てくると加藤さんの上掲句は、「ふるさと」とはこういうものだという作者の認識が表されていると同時に、近代以降の日本人が「ふるさと」をどう認識してきたかということまで折り畳まれているように思えます。

雑踏のコドク半径五メートル
愛ならば象形文字で伝えてよ


小林秀雄に『故郷を失った文学』という昭和8年の小文があります。
自分の生活を省みて、そこに何かしら具体性といふものが大変欠如してゐる事に気づく。しつかりと足を地につけた人間、社会人の面貌を見つける事が容易ではない。一口に言へば東京に生れた東京人といふものを見附けるよりも、実際何処に生れたのでもない都会人といふ抽象人の顔の方が見附けやすい。

また江戸川乱歩に『群衆の中のロビンソン』という昭和10年エッセーがあります。
映画街の人込みの中には、なんと多くのロビンソン・クルーソーが歩いていることであろう。ああいう群衆の中の同伴者のない人間というものは、彼等自身は意識しないまでも皆、「ロビンソン願望」にそそのかされて、群衆の中の孤独を味いに来ているのではないであろうか……

都会や群衆は、人間を「抽象人」にし「ロビンソン」にしてしまう。上掲句の「コドク」という片仮名表記には、都会や群衆の中で抽象化され、ロビンソンとして記号化されてしまった作中主体の状況が表されているのかも知れません。

都会人は「コドク」である、雑踏の中で人は「コドク」に歩いている、などと、あたかも個人の輪郭が消し去られたかのように片仮名表記の「コドク」を感じるとき、現代人は強烈に漢字表記の〈孤独〉に襲われ、〈生の手応え〉を渇望していくものだと思います。そのように考えたとき、「古里」という自己の本源を恋い、「象形文字」という可視化された愛を請う作中主体の境遇が、読み手に迫ってくるのです。

鍵盤に溺れたままの白い指
溜め息をついては白を深くする
人ひとり生きた証をのこす磁場


タイトルが「白い磁場」であり、上掲句に「白い指」「白を深くする」とあるように、「白」が本連作に通底するテーマと思われます。「白」とは、着色されるにあたっての起点、着色の前提となる生地といえるでしょう。繰り返しになりますが、これまで見てきた作品に「古里が恋しくて」「雑踏のコドク」「象形文字で伝えてよ」とあることからも分かるように、作中主体は確かな〈生の手応え〉を感じられずにいる。ちょっと気取った言い方をするなら、作中主体はずっと生の手応えを得ようと〈自己言及〉をつづけている。「古里」や「象形文字」という手応えを渇望するのは、どうにかして自分の輪郭を、言い換えればどうにかして自己言及の限界域を見定めようとしているからではないでしょうか。してみると「人ひとり生きた証をのこす磁場」の「磁場」は、本当は〈自場〉なのだと思います。

このように考えてみると、「白」という表現に込められているのは、自分の輪郭なり限界なりを見定められずにいる自分自身のことのように思えます。

posted by 飯島章友 at 23:59| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月22日

【速報】『スロー・リバー』増刷のお知らせ

どーもー。
現在、(おそらく)精神的な原因で声が出ない川合大祐です。
よりにもよってこんな日にお知らせです。
拙句集、『スロー・リバー』、増刷しました。
本日より、あざみエージェントさんのオンラインショップで発売です。
あざみエージェントさん→http://azamiagent.com
定価千円ポッキリ(税込)。
テンション変でごめんなさい。
たぶん、変な句集です。
(声帯だけが)リアル月に吠えらんねえ川合でした。
posted by 川合大祐 at 22:35| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月20日

小津夜景さんの好きな川柳・俳句・短歌(聴き手:飯島章友)


【川柳】
手加減の中で殺したものばかり  菅原孝之助
お別れに光の缶詰を開ける  松岡瑞枝
追伸のあかるい雨をありがとう  普川素床
さびしくて他人のお葬式へゆく  石部明
一本の縄とはしゃいでいる命   同


【俳句】
ずぶぬれて犬ころ  住宅顕信
なんと気持ちのいい朝だろうああのるどしゅわるつねっがあ  大畑等
半円をかきおそろしくなりぬ  阿部青鞋
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る  山口誓子
白魚を載せて気球の飛び立てり  松井真吾


【短歌】
おほきなる鯉落ちたりとおらび寄る時雨降る夜の簗のかがり火  若山牧水
なが雨によみがへるいかりいんぱあるのくさむら中の骨の累積  加藤克巳
手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり  藤原良経

 巻物の正体は、まさか大宝律令?
租庸調おひはぎながらコンビニもないころなりに愛しあつてた  謎彦
ゆふさりのひかりのやうな電話帳たづさへ来たりモーツァルトは  永井陽子




章友 今回は、夜景さんに「好きな川柳・俳句・短歌」を5作品ずつ選んでいただきました。上掲の句歌がそれです。みなさんはどんな感想をお持ちになるでしょう。イメージどおりだったか、それとも意外だったか。

夜景 おひさしぶりです。よろしくお願いします。

章友 まずは川柳から見ていきましょうか。菅原孝之助ですが、『現代川柳鑑賞事典』に掲載された時点での情報によると柳都川柳社の方のようです。〈少年の視野渺々びょうびょうと浜続く〉〈五分前男はきっとバラを買う〉〈キリストのかたちで鮭が干しあがる〉という句もあります。選んでいただいた「手加減の〜」の句は、川柳作家全集『菅原孝之助』に収録されているそうすが、こちらはどのへんが?

夜景 この方はね、型の中でことばが窮屈そうにしていないところがいい。この句と〈ゆっくりと父を裸にした柩〉とどちらかにしようか迷ったんですが、こちらの方が句意の伸縮性が高いので選びました。

章友 句の本意と関係なくなってしまうけど、この句はシュートレスラーであるカール・ゴッチやダニー・ホッジの台詞として読むとぞくぞくする。あ、すみません……。

さて、松岡瑞枝の句は『光の缶詰』からですね。同書には師匠・時実新子の序文があって、その冒頭には「こんなに痛々しい子が私の腕の中にいる」と書かれています。松岡さんの句については?

夜景 松岡瑞枝は言葉の一回性を信じていて、書くたびに奇蹟を起こそうとするタイプの人ですよね。成功した句には、手練にはぜったいに出せない徒手空拳のオーラがあります。

章友 次の普川素床の句は、【川柳スープレックス】の記事「小津夜景さんに聴く〜普川素床さんの明るい追伸への追伸〜」で取り上げられているので、ここでは省略しましょう。ちなみに川柳作家全集『普川素床』が文庫とKindle版で出ていて、「追伸の〜」の句もその中に入っています。

次の石部明の2句は、第一句集『賑やかな箱』が初出です。どっちの句も「川柳スパイラル」創刊号で夜景さんが言及しているので、省略してもいいんですが、あらためて何かありますか?

夜景 石部明はね、作句中に困ったことがあると「彼はどんな感じで書いていたっけ」と見にゆきますね。答えがあるかなと期待して。

章友 石部明は、セレクション柳人『石部明集』という作品集が邑書林から出ているのですが、残念ながら邑書林のほうではソールドアウトになってしまったようです。あとは書店に残っているものを除けば古本しかないのかな。これから石部作品を読むとしたら、現代川柳のアンソロジー『現代川柳の精鋭たち』や文学フリマで手に入るフリーペーパー「THANATOS」の1〜4(現時点で3/4まで発行)で代表作を見ることができます。

では次に俳句を見ていきましょうか。住宅顕信の句は、彼の中でいちばん有名な作品かもしれない。

夜景 これは他ジャンルの導入といった観点から。ブルーハーツっぽい。でもパクリになったり、パンク・ロックの劣化版になったりせずに、するりと俳句の中に呑み込んでいる。

章友 ブルーハーツかあ。すこし前に「ヨルタモリ」っていうCXのテレビ番組があって、タモリと宮沢りえが進行役だったの。その番組に甲本ヒロトがゲストにきたとき、宮沢りえがうっとりしちゃってね。あれは素面だったと思う。

で、宮沢りえといえば栄養ドリンクのCMでシュワルツネッガーと共演していたのが思い出されるんだけど、その少し前、シュワちゃんはカップヌードルのCMに出ていた。彼が車を肩に担いで歩いていたCMです。その中でシュワちゃんは、カップヌードルを食べたあと気持ちよさそうに伸びをして力瘤をつくる。次の大畑等の句を見ると、自分はなぜかあのカップヌードルのCMを思い出すんです。バックでは遊佐未森の「地図をください」っていう曲が流れていたんだけど、その曲ともどこかシンクロしてしまう。この句では「ああのるどしゅわるつねっがあ」と平仮名で記すことで、固有名詞が質的変化を起こしている。面白いなあ。

夜景 この「ああのるどしゅわるつねっがあ」って切れ字でしょ? こうゆう切れ字を発見したい。そう考えると、作句ってふだんからの素材集めが大事なんですよね。

章友 素材集めが最大のレトリックかもしれない。さて、次の阿部青鞋は、【―俳句空間―豈weekly】の「俳句九十九折(12) 俳人ファイルW 阿部青鞋」という記事で作品を見るかぎり、川柳人からも親しみを持たれそう。記事にもあるように「俳壇から少し離れたところに位置していた」ことも影響しているのかなあ。

夜景 これは自分の素の感じに近い。自分にとって一番わかりやすい世界です。まだ俳句を書いていなかったころは青鞋の他、小川双々子、岩尾美義あたりが好きでした。一方河原枇杷男は句の観念性が単純で、全くのロマン主義だと感じたりとか。

章友 次の山口誓子の句は、【フラワーズ・カンフー】の「そういえば、の流儀。」という記事で、その次の松井真吾の句も【フラワーズ・カンフー】の「宇宙間について・前編」という記事で言及されているので省略します。

夜景 松井さん、あのブログをお読みになったようで「実は私、講談社学術文庫の『現代の俳句』を読んだ折、大西泰世さんの句に感動して俳句をはじめたんです」とメールを下さいました。〈わが死後の植物図鑑きっと雨〉という句が大好きだったそうです。それから何年かして、巴書林『超新撰21』の清水かおりさんの句に衝撃を受け、そこで初めて現代川柳というものがあるのを知り、北宋社『現代川柳の精鋭たち』をお読みになったそうです。

章友 では短歌のほうを見ていきましょうか。僕の知る範囲でいうと、選んでいただいた若山牧水と加藤克巳の歌は、語られることの少ない作品だと思います。ちなみに牧水の歌は『山櫻の歌』、克巳の歌は『宇宙塵』に収録です。

夜景 牧水の歌は「かがり火」というラスト一語に至るまでのカメラの動きが抜群。克巳の歌は「いんぱある」の意味を知らない頃からことばの力のすごい作品だなあと思っていて、意味を知ったあとは「長雨」の一語がいきなり深まった。

章友 インパールと書かずに「いんぱある」とした。漢字の「長雨」をきっかけに「よみがへるいかりいんぱあるのくさむら」と平仮名がつづき、漢字の「骨の累積」に収斂していく。「骨の累積」が徐々によみがえってくる雰囲気が伝わってきます。冷静な歌作だ。

さて良経の歌は、「ただ秋風のすみかなりけり」という看取に自分なんかは魅かれる。

夜景 さらりときれいな情趣の代表みたいな歌。実は哲学的なところもいいですね。

章友 古典和歌はわりと読んできたほうですか?

夜景 残念ながらほとんど読んでいません。これから読みたいと思っています。

章友 次の謎彦の歌は【フラワーズカンフー】の「謎彦、その文体のエチュード」という記事がありますので省略します。

最後、永井陽子の歌は『モーツァルトの電話帳』からですね。わたしの大好きな歌集です。〈あまでうすあまでうすとぞ打ち鳴らす豊後ぶんごの秋のおほ瑠璃るりの鐘〉〈つるばみにぶらさがりゐる蓑虫が「あ、いや、しばらく」などともの言ふ〉〈軒先へ法師蟬来てをしいをしいほんにをしいとつらつら鳴けり〉など、好きな歌がいっぱい収録されている。おととし『佐藤佐太郎全歌集』を買ったんですが、次は『永井陽子全歌集』をと思っています。選んでいただいた「ゆふさりの〜」については?

夜景 私、永井陽子・紀野恵・小池純代が、今までいちども飽きたことのない「お気に入り三大歌人」なのです。その中で一番早く知ったのが永井陽子で、なんて言うんでしょう、この人の歌は風と光と音楽からできていて、これはその象徴のような作品だと思います。「モーツァルトは」と「は」で終わるところも、感動的な展開を予感させていいですね。

章友 永井陽子の歌は風と光と音楽からできている。いい言葉ですね。本日はありがとうございました。


【参考】
『現代川柳鑑賞事典』(2004・田口麦彦 編著・三省堂)
『菅原孝之助』(2009・新葉館出版)
『光の缶詰』(2001・編集工房 円)
『普川素床』(2009・新葉館出版)
『賑やかな箱』(1988・手帖舎)
『石部明集』(2006・邑書林)
『現代川柳の精鋭たち』(2000・樋口由紀子,大井恒行 編集協力・北宋社)
「THANATOS」(knot:小池正博・八上桐子)
『現代の俳句』(1993・平井照敏 編・講談社)
『超新撰21』(2010・筑紫磐井, 対馬康子, 高山れおな 編・邑書林)
『山櫻の歌』(1923・新潮社)
『宇宙塵』(1956・ユリイカ)
『モーツァルトの電話帳』(1993・河出書房新社)
『佐藤佐太郎全歌集』(2016・現代短歌社)
『永井陽子全歌集』(2005・桐葉書房)

posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月11日

【お知らせ】『2018年版 俳誌要覧』

『2018年版 俳誌要覧』(東京四季出版/504p/定価2600円)に、2017年の川柳界の年間回顧を書かせていただきました。「俳文学の現在〈川柳〉」のページです。詳しい内容は以下のリンクをご覧ください。よろしくお願いします。

東京四季出版
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2018年03月08日

【速報】『スロー・リバー』増刷のお知らせ

こんばんは、お久しぶりの川合大祐です。
(誰それ? という人もいらっしゃるでしょうが、柔らかい時計です。それはダリ。おおかたこんな奴です。あと宇宙細菌の、ってもういいですね)
このたび、拙句集『スロー・リバー』が、あざみエージェントさんから増刷していただけることとなりました。
まだ未定なところも多く、詳細は追ってお知らせします。
とりあえずの宣伝です。皆さまの貴重なデータ通信料を奪って失礼しました。

  中八がそんなに憎いかさあ殺せ
  ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む
  ロボットに神は死んだか問うのび太
  (本書より)
posted by 川合大祐 at 22:38| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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