それではあまりに粗雑なので、少し補足すると、「文字をどうやって脳内で変換しているか」である。
わかりにくい補足になってしまった。わかりやすい一例として、きゅういち氏の「今月の作品」から見てみよう。
消えま・・・まで言ってカタツムリは消えた
この句の場合、「・・・」をどうやって捕らえるかである。「・」をひとつの音として捉えるならば、「消えま・・・」は六文字と認識することができる。しかし、「・・・」を無音として読むとき、「きえままで」と上五の句になるのである。
つまり、「消えま・・・まで」の「消えま」から「まで」まで(!)のあいだが、消失したことになる。
この際、掲句は「きえままで/いってかたつむ/りはきえた」と、見事なまでに五七五の定型を守っている。
しかしながら、なぜわれわれは、そのような「読み」をしてしまうのだろうか。すなわち、なぜ五七五という定型に沿って読んでしまうのだろうか。
ヒントは「・・・」という三つの「・」にあるような気がする。
たとえばこれが「・・」という二文字だったら、「消えま・・」という五文字の句として読むことができる。
また、「・」ではなく、「×」という伏せ字だったら、「消えましょう」「消えましたと」などの、「意味」を持った句としても読めてしまう。
しかしながら、掲句は、その読者の甘い期待を裏切る。「消えま・・・まで」と提示されたとき、読者は、何が消えたのか、どこまでが「まで」なのか、途方に暮れることになる。
だからこそ、読者は五七五に頼るのではないか。
五七五という定型は、作者のためではなく、読者のためにあるという考えはどうだろうか。
「読む」ということが作品を成立させるための行為だとしたら、「読むためのツールとしての五七五」という考えは、さほど突飛なものではあるまい。
掲句を見てみよう。この混沌とした世界を、「世界」として成立させたいという欲望が、読者であるわたしにもあなたにも、湧いてこないだろうか。
そのとき、「五七五として読みたい」という欲望が、湧いてこないだろうか。
畢竟、「世界」とは「何かに型を与えたいという欲望」のフォルムである。川柳とは、そうやって「世界」を切り取ってくる文芸だと、私は思う。
だから、その欲望に対して何らかの違和感、平たく言えば、「そんなのやってられっか」という「作者」は、何か罠を仕掛けるのではないか。少なくとも、この掲出句には、読者の欲望を逆手に取り、読者の既成概念を揺さぶる仕掛けがなされていると思う。
これは妄想だが、「「パプリカ」にまたがって」という連作のタイトルにおける「パプリカ」とは、おそらく筒井康隆の同名小説である。
ここで筒井作品との意味的な連関については触れない。
ただ、「筒井康隆『パプリカ』」というひとつの「型」をみずからの型のなかに取り込むこと。そこに構造としての川柳の快楽があるのではないか。
自己言及とは、結果として自己の消滅をもたらす。カタツムリが殻の中にみずからを閉じこめてゆくとき、「消えま・・・」ものは何なのか。ここを巡って、読者と作者が戦うことが、川柳を「読む」ということなのだと思う。