今回も作品群も、作中に登場する植物のイメージが、別種のモノやコトになぞらえられ、照応している印象をもった。
原っぱにいると隙間ができそうだ
ヒメジョオン今は文字より音符でしょ
嵌ってしまうヤブガラシ的思う壺
蔓草よ愛を殺したのはどっち
舟なんかよこし聞き分けないハコベ
ため息も出ないママコノシリヌグイ
夏草が時間を止めているのです
夕暮れはハサミを持っているようだ
「ヒメジョオン」と「音符」、「ヤブガラシ」と「嵌ってしまう」、「蔓草」と「愛を殺した」、「ハコベ」と「舟」、「ママコノシリヌグイ」と「ため息も出ない」、「夏草」と「時間を止めている」。これらは読み終えてすぐ、感性の次元で合点させられた。言ってみれば、両者が地下水脈でつながっているように感じられたわけだ。けれど、その後によくよく分析してみると、どこで一脈相通じているのか、すぐには分からなかった。
このように、いっけん関係のなさそうなものどうしが、それにもかかわらず呼応するとき、明快な散文的世界から解き放たれる快感がある。いま自分は韻文を読んでいるのだ、という心地がするのだ。植物ではないけれども、同じことが「原っぱ」と「隙間」、「夕暮れ」と「ハサミ」の関係性にもいえる。
さて、群作中でもっともシンパシーをいだいたのは次の句だ。
夏草が時間を止めているのです
たぶん、自分がかつて書いた短歌を思い出したからだと思う。歌誌デビューして間もないころの若書きで恥ずかしいのだけど、それはこんな歌だ。
積雪に音飲まれ行く夜のみち無条件降伏してもいい (「かばん」2009年11月号)
「行く」と漢字で書かれている。いまなら「ゆく」とひらがなで書くだろう。この歌、三句目までは、一面を覆う圧倒的な雪のしろさに音すらも奪われ、何かこの世が停止してしまったかのような、ひどく頼りない気配がある。そしてその後、「無条件降伏してもいい」と句跨りで一気に表現されることで、いまにも自分が無化されそうな、切迫した気持ちが伝わってくる。
ひとり静さんの句も、圧倒的な「夏草」の量と生命力によって世界が押さえ込まれ、時間すら無効になってしまったかのようだ。別言すれば、時間という小川に生い茂る夥しい「夏草」が、時の流れをせき止めてしまっているかのようだ。春草や秋草では、「時間を止めて」しまう感覚は出ない。
ただ、わたしの歌と違うところもある。ひとり静さんのほうは、切迫した感じがあまりないのだ。世界の外側から、ですます調で静かに語りかけている、そんなゆとりを感じるのである。
さびしいと人を食べてはいけません ひとり静