
樋口由紀子さんの第三句集『めるくまーる』(ふらんす堂)が2018年11月に出た。ちょいとサイケっぽくて、くらくら目がまわーる感じのタイトルと表紙だ。上半期には八上桐子さんの句集『hibi』(港の人)が出て、現在も川柳および川柳外の人たちから好評である。お二人とも「うみの会」という神戸の川柳勉強会に参加されている。うみの会に勢いがあるのだろうか。あるいは、現代川柳じたいに勢いがあるということかも知れない。この十年、目に見えて若い書き手が増えてきているし。
『めるくまーる』を何回か読んでみて改めて感じたのは、樋口さんの書き方の多様さだ。たとえば、決めつけの強さが妙な説得力とおかしみにつながっている「恣意的に弁当箱は右に寄り」、意図的な舌足らずが前句としての七七やお題を想像させる「あの松を金曜日と呼ぶために」、ただごととしての「綿菓子は顔隠すのにちょうどいい」、見立て・趣向で魅せる「はらわたのビー玉行ったり来たりする」、時事に直結する「前転で近づいてくる中近東」、時事よりももっと根本的な時代批評を感じさせる「ビニールの鞄の底はニヒリズム」などなど。
そんな川柳の可動域が広い樋口さんだが、彼女の川柳作品の大半には或る姿勢が感じられる。それは「日常が非日常に見えるよう工夫する」ということだ。たとえば以下の句はどうだろうか。
一晩だけ預かっている大きな足
最初に感想からいうと、「大きな足」だからこそ目に留まった句だ。仮に「大きな腹」や「大きな尻」だったらチープなトホホ川柳になってしまうだろうし、「大きな首」や「大きな頭」だったら芸のない猟奇川柳だし、「大きな手」や「太い腕」だったらさほどイメージが刺激されない。ところが「大きな足」だったら、そこはかとないおかしさが滲み出てくると同時に、大きな足を預かる異様さに驚異をおぼえる。また、それと裏腹に「足」という部位からは、どこかドスンと地に足がついた現実感や生活感が醸し出されてもくる。だから、身体の部位を選ぶならやはり足、それも大きな足が川柳に適っていると思うのだ。
さて、この「大きな足」という表現、じつに短詩型らしい。というのは、大きな足が何なのかという〈全体像〉が切り捨てられ、視点が〈部位〉にのみ集中しているからだ。これが散文であれば「大きな足の孫を一晩だけ預かっています」とか、「足の石膏像を一晩だけ預かっています」とでも書いて、大きな足の正体を明記できるだろう。それに対して上掲句では、大きな足のみクローズアップして、それが包摂されている全体像は書かれていない。十七音では書くだけのスペースがないこともあるだろうが、むしろレトリックとして意図的に全体=正体が切り捨てられ、大きな足にだけスポットライトが当てられているのだろう。それによって、ありうべき散文的光景が異様な光景へと一転している。先に「日常を非日常的に見えるよう工夫する」のが樋口さんの姿勢だといったが、上掲句では〈視点〉の置き方を工夫することで、ありうべき光景を非日常的光景に仮装させているように思う。
こういうふうに考えてくると、たまに見かける「現代川柳はSF的だ」という議論に、そう簡単には肯けなくなる。なお同句集には、「ダブルベッドのどこに置こうか低い鼻」「前足はさもしいゆえに考える」など、同じような書き方の句が他にも散見される。
大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも 北原白秋『雲母集』