2019年02月27日

森山文切さん「さけや」を読む/柳本々々

文切さんの川柳には、〈なんでこんなとこに/なんでこんなことに〉のエネルギーがある。それは、間違えることのエネルギーといってもいいかもしれないし、誤配のエネルギーともいってもいいかもしれない。世界のボタンをあえて掛け違えてみることで川柳はことばや意味のエネルギーを発見する。

ガールズバーにある墨書き、救護訓練中の通知音、扉に貼ってある終了の付箋、仏壇のグルテンを除去したナポリタン、なんでこんな〈とこ〉にのエネルギー。

卑猥に見えるダクト平面図、なさけやさんからかけられるおさけ、ギロチンにキレる生首、なんちゃら増える奈良の鹿、なんでこんな〈こと〉にのエネルギー。

さいきん久保田紺さんの句集『大阪のかたち』を持ち歩いて読んでいるのだが、樋口由紀子さんと小池正博さんがこんなことを書いていた。

「生きていくうちにはどうしようもないものが必ずある。なんだかわけのわからない事象にも出会う。最後まで割り切れないものが残ったり、どういえばいいのかわからない感情だってある」と樋口由紀子さん。「人は天使でも悪魔でもなく善悪のグレーゾーンで生きている。どうでもいいことはどうでもいいのであり、しかし本質的なことだけで生きていけるのかというと、そうでもない」と小池正博さん。

ふたりが書いているのは、なんでこんなとこに/なんでこんなことに、の認識を放棄するな、ということではないかともおもう。

文切さんの川柳は、放棄しない。それをことばに置き換え、ひとつ・ひとつとして確認する。川柳はそうした世界のボタンのかけ違えのエネルギーをひとつひとつ配置していくことだとおもう、かけ違えたままで。

かけ違えたままで、どこかにたどりつこうとしている。そういうわたしたちのひとつのありかた。


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2019年02月24日

喫茶江戸川柳 其ノ弐


小津 今月もやってまいりました飯島章友さんの「喫茶江戸川柳」、前回ははじめてということもあり、万人にのどごしの良い「本歌取り川柳セット」を注文しました。今回はもうすこし味の濃い、珍しいものに挑戦してみたいと思います。てなわけで、飯島さんこんにちは。また来ちゃいました。

飯島 いらっしゃいませ、夜景さん。このお店では江戸川柳、つまり江戸時代の川柳を楽しみながら珈琲を召し上がっていただけます。今日はどのような川柳にしますか? 

小津 今日は珍味っぽいものがあれば、それを試してみたいのですが。

飯島 珍味ですか……そういえば今年は葛飾北斎の没後170年ということで、いろいろな催しがされているそうです。北斎って世界的な絵師なのは勿論ですが、奇人としても有名ですよね? 同居人の娘ともども片付けられない親子で住まいがゴミ屋敷だったとか、それもあって引っ越しを93回したとか、じつは100回引っ越すのが目標だったとか、改名を30回したとか、『冨嶽百景』で画狂老人卍≠ニ号したりとか(笑)。

小津  「卍」は最高ですね。非合法っぽい香りがして。

飯島 非合法! たしかに元ヤンのじいさんっぽいセンスだ。でね、葛飾北斎って、なんと柳人でもあったんですよ。秀句アンソロジー『誹風柳多留』85篇(1825年)に序を寄せているくらいで。

小津  それはすごい。 本物の柳人なんだ。

飯島 「葛飾連」という吟社の主宰だったくらいですから。北斎の生涯は1760年〜1849年、柳多留の刊行は1765年〜1840年までですから、まさに江戸川柳の時代を生きた人だったわけです。北斎の柳号は卍、あるいは百姓・百性。そのほか、万字、万二、万仁、萬二、萬仁、万治、錦袋、百々爺も北斎の柳号ではないかと推測されているそうなんです。画号を30回も変えた人ですから柳号をこれだけ変えてもおかしくないですよね。

小津 そういうのわかります。わたしも号を変えたいタチだから。では今日は、北斎のセットを味わってみてもよろしいでしょうか。

飯島 かしこまりました。ただ北斎の川柳っていまのテレビならたぶん「びんづるのピーピーピーピーらしい木魚なり」「ピーピーピーピーめ行平鍋へみや子鳥」「ピーピー報謝来れば摑んでーピーピーピーピーピー」みたいになるのが多いんです。ですから本日は、そのへんに配慮したセットにいたします。少々お待ちください。

      * * *

おまたせしました、本日の北斎川柳・珍味添えセットです。

  蜻蛉は石の地蔵の髪を結ひ
  田毎田毎月に蓋する薄氷
  芋は今咽元あたりろくろ首
  初夢がモシさめますと獏の妻


小津  え? これ、 まるで 立派なお師匠さんの句みたいですよ?

飯島 最初の句は、地蔵の頭に蜻蛉がとまったのが丁髷でしょうか、髪を結ったようだとの見立てですね。

小津  なるほど。「まんじ」と聞いて超ヤバいのを想像していたので、拍子抜けしてしまいました。

飯島 柳人の前田雀郎(1897〜1960)は北斎の句をあまり評価していません。雀郎は『川柳探求』の中で「川柳家北斎」という小論を書いているんですけど、「見るべきものなく」「川柳の名を以てはここに掲ぐるを遠慮すべき句ばかり」「ただかかる時に生れあわせ、川柳の心に触れながらその正しきものに眼を開き得なかった」と、さんざんな言いようなの(笑)。

小津 なぜでしょう。

飯島 雀郎なりにちゃんとした理由があります。北斎の時期の川柳はいわゆる「狂句」なんで、近代の川柳観からすると狂句風は許容できなかったわけです。ただ、見立て句とはいえ「蜻蛉」の句みたいなのが中心だったなら、雀郎の評価も違ったかもしれません。

小津 なんで一個の正解でものを測るんだろう。今より先に、過去があるのに。雀郎はわたし好みの端正な句を詠みますけれど、でも「川柳とは何か」という問いを「川柳において何が〈正統〉か」に置き換えてしまう感性は少しも端正じゃないですね。

飯島 近代っていうのは、前の時代のあり方をほぼ否定する原理があると思うんです。明治維新も、敗戦後も、90年代からの新自由主義体制も、その前の時代のシステムや精神性を否定しました。だから近代短歌でも正岡子規は、古今集以後の和歌にはあまりいい評価をしなかったですよね、源実朝や橘曙覧らは除いて。近代川柳でも、川柳が狂句と呼ばれていた約100年を先ず否定したんです。

小津 あらら。

飯島 だから前田雀郎もそういう近代の時代精神のなかで狂句に手厳しくなったんじゃないでしょうか。

小津 雀郎と子規とは似て非なる、ですよ。子規の狙いは伝統や権威の打倒による変革で、いっぽう雀郎はサブカルチャーだった川柳の歴史を物語的に再編してカルチャーにしたいって話ですから。近世和歌にはいろんな「邪道」を排するためのお家芸的ルールがあって、結果おおむねあんなことになりましたけれど、川柳における諸現象を制御しようとする雀郎の欲望は、正岡子規が批判した近世の抜け殻和歌と同じ道を招き寄せることになる。

飯島 そのへんは問題が大きくて延々話せちゃいそうなんで、次の二点に絞って私の見方を提出しておきますね。一つめは、アララギに代表される近代のスタイルは既存和歌にあった本歌取りなどのレトリックを排し、表現面では後退もあったし案外早く形骸化したこと。二つめは、子規やアララギは万葉に戻れといい、阪井久良伎ら川柳中興の柳人は狂句以前に戻れといったこと。つまり、レボリューションには革命のほかに「循環」という意味もあるように、革命変革には「再巡」の面もあるということです。その再巡が、因習や権威を打破し前進になると信じていた、という面で子規と久良伎はおなじだと思います。久良伎に師事したのち決裂しちゃう雀郎にも、後進として何ほどか時代の影響があったでしょう。

小津 ふむふむ。私ね、実は短歌も、和歌が排除してきた狂歌性の奪還を無意識に目指してきたように感じるんです。与謝野晶子から枡野浩一まで。こういう人たちが登場した時みんな驚いたと思うんですが、狂歌もひっくるめた三十一文字の歴史の中でみると全然ふつうなんですよね。

飯島 なるほど。そのへんとても興味があります。さて、次の句は信濃は姥捨の「田毎の月」を題材にしています。姥捨山のふもとの棚田は一枚一枚に月が映ると言われていて、観月の名所として有名なんだとか。歌川広重が絵に描いてから有名になったらしいんですけどね。冬になってその棚田に氷が張ると、田毎に映っていた名月がそのまま封じられる。すごく叙景的なんだけど、どこか人工性を感じます。

小津 はい。なんだか都会的な味がします。

飯島 じつは田毎の月は想像上の景色なんです。想像風景へ北斎流の創造が付け加えられた句なんですね。

小津 フューチャー・デザインっぽくキマってますね。

飯島 次の「芋」の句は文句取りです。吉原の二代目高尾太夫の作といわれる「君は今駒形あたりほととぎす」、あれです。洒落なんで、雀郎の好みからは遠そうだ。

小津 「君は今駒形あたりほととぎす」は好き句なのです。北斎の句もばかばかしくていいなあ。

飯島 芋は長い首だとつっかえそう。コントでよくあるんです。爺さんが「うっ」って餅を詰まらせたかと思いきや「うっ、うまい!」ってネタ。このろくろ首もそんなコントをしそう。

小津 あははは。その話を聞いてわかった。この句、意外と平句の味なのかも。

飯島 それは面白いですね。というのも、ご存じかもしれませんが雀郎は、川柳のルーツは平句だと書いているんですよ。

小津 はい。存じています。

飯島 雀郎は故人なのでもうお話することは叶いませんが、雀郎と今の短詩人が平句について意見交換したら一体どうなるんだろう、なんてことを想像して堺雅人みたいなニヤニヤ顔になってます。

小津 エロ・グロ・ナンセンスはダメでしょう。でも若輩特権を最大限に行使して、しつこく付きまとって落としたいですね。ご飯も若輩特権で奢ってもらいつつ。

飯島 最後の「初夢」の句は、夢違いの獏のことでしょうね。井原西鶴の『好色一代男』に「厄はらひの声、夢違ひの獏の札、宝舟売など」とありますけど、当時は獏を描いた札や、「獏」と書かれた宝舟の絵を枕の下に入れて寝る風習があったとか。こうすると、たとえ初夢が悪夢だったとしても獏が食べてくれるというわけです。ちなみに「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」っていう掛詞満載の回文を唱えたりもしていたみたいですよ。

小津 これね「モシ」が可愛いの。漫画のフキダシみたい。

飯島 『北斎漫画』をマンガやアニメのルーツという人もいますね。北斎はいろんなエコールに学び、絵の対象も名所・花鳥・妖怪・幽霊・生活・滑稽・役者・美人・アダルトと幅広い。さきほど立派なお師匠さんの句みたいと仰いましたけど、マジメか!って句を作るのも北斎ならではかもしれません。

小津 いろんな顔があるわけですね。いま住んでいるアパートから徒歩3分のところに入場無料の市立美術館があって、展示の目玉が北斎漫画の初版本なんです。本当みんな北斎が好きですよ。彼のヒップな精神が、こちらの心までぱっと明るくしてくれる。

飯島 へえ〜見てみたいなあ。話を戻すと、北斎の句も「さめます」が掛詞になっています。「(獏の食べ物としての)初夢が冷めない(覚めない)うちに食べてしまわないと」って獏の妻がいってるわけです。

小津 なるほど。「獏の妻」という設定も可愛いなあ。絵が見えます。今日はものすごく美味しかったです。しかも多彩な味で楽しかった。また機会を見つけて北斎の川柳を味わいたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

《本日のHOKUSAIセット》
蜻蛉は石の地蔵の髪を結ひ お師匠さん度 ★★★☆☆
田毎田毎月に蓋する薄氷 都会派度 ★★★★☆
芋は今咽元あたりろくろ首 ナンセンス度 ★★★★☆
初夢がモシさめますと獏の妻 マンガ度 ★★★★★

posted by 飯島章友 at 10:30| Comment(0) | 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月22日

月刊「おかじょうき」2019年2月号


月刊「おかじょうき」2019年2月号
発行人 むさし
編集  Sin

月刊「おかじょうき」を発行している「おかじょうき川柳社」は、青森県を拠点に活動して川柳グループです。創立は昭和26(1951)年といいますから、宮城県の「川柳杜人社」同様、歴史のあるグループなのですね。社名が陸蒸気(蒸気機関車)から取られているところからもそれは感じられます。初代代表は杉野十佐一。この方から名前を取り、おかじょうき川柳社は毎年、全国誌上大会の「杉野十佐一賞」を開催しています。また、それとは別に誌上句会の「0番線」や、ゲストを迎えてトークセッションなどを行う「川柳ステーション」もあります。会員は青森県の方が中心ですが、福岡や島根、京都、奈良など西日本の会員の方もいらっしゃいます。

さて、今号の表紙には「祝!300号!」とあります。後記によると、不定期発行の時期もあったとのことですが、通巻300号はやはり素晴らしいですね! わたし、長く続けることは力だと考えています。プロレスリングの業界を見ても、現在人気のある団体というのは日本でも海外でも長い歴史があります。支持不支持は別にして、政党なんかもそうですね。分裂を繰り返してしまうと、UWF系プロレスのようにたとえ若くて志が高くても……いえ、その話は関係ないのでやめておきましょう。

会員雑詠集【無人駅】
ばったの目 Light and Darkness and Darkness  柳本々々
正座してなりきってみる三杯酢  熊谷冬鼓
闇市のキリンの馘は三ツ折りに  田久保亜蘭

【月例句会】
システムを更新してもおバアさん  むさし(席題「新」まきこ・熊谷冬鼓選)
勾留延長もうバナナには戻れない  まきこ(宿題「留」土田雅子選)
栞はずして魂の進化系  土田雅子(宿題「カバー」奈良一艘選)
ともすれば月の裏には中華街  吉田吹喜(宿題「自由詠」むさし選)

七句引用させていただきました。作風的には所謂「言葉派」の作品が多いように見えますが、伝統川柳に近しい作品もあれば、時事性や私性の作品も散見され、全体として懐の深さが感じられます。もともと杉野十佐一が師事していたのは川上三太郎だったのですから示唆的です。そのほかに鑑賞欄、句会報、リレーエッセイ、インフォメーションなど、内容はコンパクトに豊富です。誌面だけからの印象ですが、すこし歌誌「かばん」の雰囲気と似ているかも知れません。

おかじょうき川柳社のサイトはとても充実しているので、興味を持たれた方はぜひ参考になさってください。

おかじょうき川柳社 オフィシャル・ウェブサイト


posted by 飯島章友 at 23:51| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月15日

山村祐「定型律の回帰性」を読んで

『続短詩私論』(山村祐著・森林書房・1963年)は、柳人・山村祐の評論集である。山村の評論には柳俳の差異や川柳の特質、あるいは伝統論など、現在の川柳評論でもつづいている議論がいくつかある。戦後の知識人が立脚していた進歩思想というのは、合理の先に必ずや最終的な答えがあるものと信じ、そこへ向けてひたすら世界を変革するイデオロギーだと思うが、実際の答えというものは、探求しつづけながらも決して到達が叶わない境地なのだろうと、同書を読んであらためて思った。

さて、『続短詩私論』のなかには「定型律の回帰性」という評論が掲載されている。ここで山村祐は、定型の魅力についてこんな分析をしている。

五七五・十七音定型の魅力が生れる要素の一つは、二律背反的な読後の感じにあるのではないか、ということである。頭の中で、あるいは唇にのせて、二音一拍に読む場合、呼吸的には休止符の存在によって偶数的感覚で読むが、発音(声)的には、実際の音数が奇数なので奇数的感覚を残す。この二律背反的な性格が、単純に割切れてしまう場合と異なって、魅力を保つ秘密ではないか。そしてその秘密は、五音七音五音の間にある三コの休止符にすべてがかかっているということなのである。

どういうことなのか、これだけでは分かりにくいと思うので、山村が同論で引用している誹風柳多留の「腰帯を〆ると腰は生きてくる」とともに説明していこう。

こし おび を◯ (実質6音)
1拍 2拍 3拍
 
しめ ると こし は◯ (実質8音)
1拍 2拍 3拍 4拍

いき てく る◯ (実質6音)
1拍 2泊 3拍

同論によると、句を読むときは、1音1拍で読むのではなく、2音を1拍に数えて読むのだそうだ。そして日本語は抑揚がない言語なので、何音かのグループの間に休止が挟まれることで、句にリズム感を呼ぶという(「◯」は1音分=半拍の休止符を意味する)。ちなみに上掲句のばあい、休止符も含めると、3・4・3拍の合計10拍で読むことになる。

これによって「頭の中で、あるいは唇にのせて、二音一拍に読む場合、呼吸的には休止符の存在によって偶数的感覚で読むが、発音(声)的には、実際の音数が奇数なので奇数的感覚を残」す。この二律背反的な性格が、定型の魅力を保つ秘密だという。そして「定型の形式美を完成するものは定型律の回帰性に求め」られ、回帰性のないリズムは五七五・十七音定型律ではないし、その変型でもないという。

ちなみに、山村自身はけっして定型論者ではない。むしろ脱定型論者だ。しかしこの評論では、「私の目的は定型が永い歳月を存在してきた事実と意味に眼を向け、そこから何を引継ぐべきかを考えたい」のだといっている。偶数的な感覚と奇数的な感覚の二律背反。そして回帰性。その構造をきちんと分析して明らかにする山村からは、評論のあり方について示唆されるところが大きい。

ただひとつ、何となく気になることが生まれた。それは、わたしたちは本当に句を2音1拍で読んでいるのか、ということだ。そこでさらに音を厳密に見るため、試みに先の柳多留の句をローマ字で表記してみよう。

こし おび を◯
kosi obiw o◦◯ 

しめ ると こし は◯
sime ruto kosi wa◯

いき てく る◯
ikit ekur u◦◯

小さな丸「◦」は、1音のさらに半分の音ということで見てもらいたい。さて、この句はローマ字で読んだとしても、上五と下五の長さが同じであり、きちんと回帰性を示している。ただし、ローマ字で書くと違いも出てきた。母音の入った上五のobiや下五のikiは音のテンポが速くなり、そのぶん末尾の休止が長くなったようだ。

ではもう一作品、おなじやり方で見てみよう。今度はわたしの好きな現代川柳の作品から。加藤久子の「レタス裂く窓いっぱいの異人船」ではどのようになるだろうか。

れた すさ く◯ 
reta susa ku◯

まど いっ ぱい の◯
mado ippa ino◦◯

いじ んせ ん◯ 
ijin sen◦◯ 

この句の下五では、語頭に母音iと末尾に撥音nがあるため、上五より速いテンポで読むことになりそうだ。特に末尾に「ん」がきたばあい、読みのテンポが速まるケースが多いのではないだろうか。たとえば〈三分が 限界という ウルトラマン〉という文があったとき、この3パート目の「ウルトラマン」は、字余りではあるが5音と見なしたくなる。実際に読んでみると5音強くらいだ(この問題は川柳の句会でも議論になることがある)。いずれにせよ音韻論的なことはからっきし分からないので、相当見当違いなことをしている可能性はある。しかし、とにもかくにも上掲句では、上五が3拍で下五は2拍半になった。だとすると、再びもとへ戻ってくるリズム=回帰性が認められないことになってしまうのだろうか。

尤も、実際口に出して「れたすさく」と「いじんせん」の両方を読んでみると、後者のほうが若干速く読み終わった気はするものの、時間的長さはほとんど変わらない。理屈と実地は違うものだ。それに個人差だってあるだろう。だから、たとえ上五と下五の読みのテンポが微妙に違っていても、回帰性が認められないとまではいえないだろう。山村の分析した定型の回帰性は揺るがないと思う。

と、一見落着したかに思えたものの、また気がかりなことができてしまった。それは、3パートそれぞれの末尾に休止を入れるという読み方で本当にいいのか、ということだ。たとえばわたしは上掲句を、「れたすさく◯まどいっぱいのいじんせん」というふうに、中七からの12音を一気に読み下すほうが心地好い。休止を入れて抑揚をつける必要性を感じないのだ。山村は、5音/12音の短長律はリズムに回帰性がないため、定型感から外れたものであるといっているのだが、定型感とはそういうことなのだろうか。が、そこまで踏み込むと長くなるため、ここまでにしたい。
posted by 飯島章友 at 07:20| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月13日

久保田紺句集『大阪のかたち』

久保田紺句集『大阪のかたち』(2015年・川柳カード)
編者 小池正博

ざぶざぶと醤油をかけて隠すもの
ひまなところに稲荷寿司詰め合わす
ショッカーのおうちの前の三輪車
絶叫のカバ誰が妖怪やねん
唐揚げになるにはパンツ脱がないと
高島屋ですが大根売ってます
遠くから見るといいやつだった島
きれいなカマキリに食べてもらいなさい
褒められたあたりにはもう行けないね
あいされていたのかな背中に付箋
着ぐるみの中では笑わなくていい
撒いた餌くらいは食べて帰ってね
呑み込んであげるカプセルにお入り


人は、或る人が亡くなってから生前の仕事や才能に関心を抱くことが多いと思います。わたしもそんなひとりです。でも、久保田紺さんにかんしては違います。お会いしたことこそありませんが、亡くなる前からずっと彼女の作品に注目し、愛読してきました。紺さんの川柳はとにかく愉しい。なので、何かに迷っているときなどには紺さんの川柳を読み、気持ちをリフレッシュさせていました。それは今でも変わりません。彼女が作句を始めたのは2005年だそうです。だからそれほどベテランというわけではなかった。やはり言語の才能に恵まれていたのでしょう。これからも紺さんの川柳が読み継がれていってほしい。切にそう思います。

posted by 飯島章友 at 07:30| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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