今月の作品は「たどり着いて いまだ荒野/大川博幸」だった。
朝の闇釜鳴り出して動きだす
朝食の頃合に向けて予約炊飯しておいた電気釜が鳴る。朝はまだ闇の中だという。どことなくまだ寒そうな雰囲気がある。季節はいつだろう。夏や春の朝は、4時台5時台から闇が退きはじめるものだから、この句の朝は秋か冬、わけても冬の可能性が高いと思う。冬であれば6時台ですらまだまだ暗く、7時台に朝食をとるとしたら、暗いうちから電気釜が始動するはずだからだ。
「朝の闇」「釜鳴り出し」「動きだす」といった状態の描写のみで、寝静まっている家の様子や、春を待つ寒い朝を疑似体感することができる。これがもしも、朝は釜が鳴り出してから始まる、などといった説明調であったなら、体感するよりも早く理知で納得してしまい、掲句のような臨場感は出なかっただろう。
むかしから川柳は、理知が優先する文芸である。理知が優先される書き方では、「AはB(である)」という問答構造が、顕在的にも潜在的にも句に含まれてくる。それは、ともするとその一句だけで自己完結してしまい、読み手の想像力の参入する余地がなくなる弱みをもつ。ところが掲句のように、状況を描写することに徹した写生句はどうか。読み手は、句の背景をあれやこれやと想像することができる。そこに、作者と読者の共同作業性が生まれる。写生の良さとは、作品を読み手に開放するところにある。何も「句語の飛躍」ばかりが作者と読者の共同作業性を担保するわけではないのだ。
なぜか嬉しい神の反対語が塩で
昨今よく耳にする「神対応」という言葉。これは、驚くほど行き届いた対応、というくらいの意味がある。その神対応の反対語が「塩対応」。素っ気ない対応、というくらいの意味である。プロレスファンの方なら「しょっぱい試合」というプロレス業界用語をご存知かと思う。「つまらない試合」という意味だ。実例をひとつ。レスラーの平田淳嗣がマイクをもって、「みなさん、こんなしょっぱい試合ですいません」といったシーンは、プロレスファンの間では語り草だ。このしょっぱいがやがて「塩」となり、現在の興行格闘技の世界では「塩試合」に、アイドルの握手会などでは「塩対応」という言葉に発展した。
このように言葉の発展を概観してみると、神と塩との「縁」の強さが思われて感慨深い。神棚にお供えするのは通常、米・水・酒・塩。その祭祀における神と塩とのつながりが、全く次元の異なるビジネスの世界で奇跡的な再会を果たす。しかも反対語という、一直線に対応しあった関係で。
「……何にまれ、
日本では、神話上の神々や社の御霊、それに動植物や海山など、そこに超尋常性が感じられればすべて神になる。わたしはさきほど、神と塩との再会を奇跡的といった。しかし、これほど包括的な日本の神概念を確認すると、けっして奇跡的な再会などではなかったように思えてくる。そう思うと、なぜか嬉しい。
宇宙は四角だろう部屋が四角なので
宇宙は三角や四角ではないだろうし、そもそもかたちという次元に収まると思えない。しかしこの語り手は、卑近な部屋の四角形を広大無辺な宇宙のかたちにまで押し広げている。決めつけといえばそうに違いない。しかし川柳は、その決めつけを武器にしてきた歴史がある。
「AはB」「AするとB」「AだからB」といった川柳的問答構造においては、答え(B)の部分に、いかに読み手を納得させる決めつけをもってこられるかがポイントだ(それはけっして論理的に納得させるわけではないので注意)。さきほどわたしは川柳的問答構造について、「ともするとその一句だけで自己完結してしまい、読み手の想像力が参入する余地がなくなる弱みをもつ」と述べた。しかしそれを翻すようだが、川柳の自己完結性=決めつけというものは、その内容いかんでは他者を惹きつけずにいられない。
ふぐ汁を食はぬたはけに食ふたはけ 江戸川柳
死刑の宣告程名文はないじゃろ 木村半文銭
諏訪湖とは昨日の夕御飯である 石部明
明るさは退却戦のせいだろう 小池正博
雑巾をかたく絞ると夜になる 樋口由紀子
「宇宙は四角〜」の句も、一般社会で突然こんなことを言ったなら、宇宙の専門家と思われるか変人と思われるかのどちらかだ。しかし川柳という一般社会の論理の外にある世界では、部屋が四角なんだから宇宙は四角だ、といったほうが正常になる。
以下の前川佐美雄『植物祭』(昭和5年)の作品も、短歌という場ではむしろ好ましい過剰さとも思える。
なにゆゑに
四角なる室のすみずみの暗がりを恐るるやまひまるき室をつくれ
丸き家三角の家などの入りまじるむちやくちやの世が今に来るべし