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まばたきすることば──粒子と流体とのあわいで/杉倉葉氏ロング・インタビュー(聴き手:小津夜景)@3.こんなふうに句をつくる
小津夜景(以下、O) よろしければ、一句ができるまでの過程をお話しいただけますか。
杉倉葉(以下、S) 単語から作ることが多いです。たとえば、自選句のなかにある〈木漏れ日をなめてくずれる二等兵〉という句は、まずはじめに「くずれる」という動詞を使いたかったんです。これは金井美恵子の『くずれる水』が好きだからなんですが、ここで液体のイメージを使うとそのままになってしまうので、「木漏れ日をなめて」と液体でないものを液体のように書くことにしました。これで「木漏れ日をなめてくずれる」までができたのであとは最後を埋めるだけです。〈静脈を重ね航路を決める夜〉は、「静脈」と言う言葉から、それを重ねるイメージを思い浮かべ、それに類似するものとして「航路」を持ってきました。「夜」は「静脈」と言う語にふたつ「月」が含まれているところから。
軸になる語を決めてそれにあう語を見つけていきます。そうでないときは一気に思いつくときが多いです。思いついたらスマホのメモに書いておく。あとから語を変えたり助詞を調整したりはしますが。
O なるほど。一つの語が喚起するイメージを支柱にして、言葉の足し引きをしてゆくんですね。いけばなのように──
S そのせいで作品の質感が偏ったりするので、良いのか悪いのかわかりませんが、ただ近接するモチーフの句が集まりやすいので、並べてみてしっくりくるものが7、8句できると、それを軸に他の句も作っていきます。川柳は短歌や俳句のように連作で出す賞などがないので、作るととりあえずだいたい20句ずつブログに発表しています。でも川柳の連作ってあまりよくわからないんですよね。
O 連作のつくりかたに定石はないし、賞も好きな場所に出してだいじょうぶ! 俳人の御中虫は代表作が〈結果より過程と滝に言へるのか〉ですが、これって川柳ですよね。あと〈じきに死ぬくらげをどりながら上陸〉〈暗ヒ暗ヒ水羊羹テロリテロリ〉〈混沌混。沌混沌。その先で待つ。〉──こんな連作で芝不器男俳句新人賞を受賞しています。ちなみに彼女の連作句集『関揺れる』は、方法としてはインプロヴィゼーションでした。
S そんな俳句があるんですか。たしかに言われないと川柳だと思ってしまうかもしれません。
インプロヴィゼーションといえば、もともと連句から始まっているわけですから俳句や川柳とインプロヴィゼーションの相性っていいんですかね。川柳に限らず、そういう方法でなにかを書いたり作ったりしたことはないし、自分はあまり向いてなさそうなのでわからないんですが。
O おそらく相性はいいと思います。
S 前友達と連詩をやったら割とストレスがあったんですが、定型だとまた違うかもしれませんね。一度連句などやってみたいです。
4.自選10句をめぐって
O 今回は自選10句も頂戴しましたが、一読してたいへんキラキラしていると思いました。またこの上なくエロス的で、そこは八上桐子に通じる印象を受けます。あと発想の面で目を引いたのが、流体と粒体とのあいだの交歓といったパターンです。
木漏れ日をなめてくずれる二等兵 (粒 : 木漏れ日/流体性 : くずれる)
星々の呼称を巡る判決書 (粒 : 星々/流体性 : 巡る)
緑の光に浸る水の図形 (粒 : 光/流体性 : 浸る)
外は雨、入れ子になって睡ろうよ (粒 : 雨/流体性 : 雨、眠り)
たえまなく流体として孕まれて (粒 : 孕むより卵への連想/流体性 : 流体)
星をやどす葉からあふれだしてゆく水銀 (粒 : 星/流体性 : あふれだし)
受粉樹の街がくきやかに滅ぶ (粒 : 粉/流体性 : 滅ぶ)
「これって音楽ですか?」「いや、廊下です」
フラフープかじりつつ 秋の夕焼け (粒 : かじるから食べこぼしへの連想/流体性 : 夕焼け)
静脈を重ね航路を決める夜 (粒 : ×、流体性 : 静脈、航路)
唯一この中で異質なのは〈「これって音楽ですか?」「いや、廊下です」〉ですが(ともに「滑らかに流れるもの」といった流体的イメージを立てることはできますが)、このようなつくりかたは自覚的に?
S いま指摘していただいて初めて気がつきました。まったく意識していなかったです。たぶんキラキラしたものが好きで、それが溶けてゆくときに官能性を感じるんですよね。不定形にまじりあってゆく感覚に。
あとやはり川柳をきっちりした自律的なイメージをつくりあげるものだと思っていないから、流れ変化してゆくモチーフを使いたくなるのかもしれません。ひとつひとつの言葉=粒体がイメージ=流体として外にあふれてゆくように、というときれいに言い過ぎかもしれませんが、ひとつひとつの言葉をつなげてイメージを作る作句の過程それ自体や、自分の考えている川柳性が作品にあらわれているんだと思います。
O なるほど。ところで、ここまでは大枠がイメージの問題をめぐっていましたが、韻律や句形についてはどのようにお考えでしょう?
S 定型詩のいちばんおもしろいところは、定型があることによって否応なくすべて自己言及性を持ってしまうところだとおもっています。575をどう使用するのか、あるいはどうやってそこから逸脱するのか、ということがそのままジャンルそれ自体との距離感になる。それがあるから短い言葉が詩として成立すると思うんですよね。とはいえそれが作品にどう生きているのか、あるいは生きていないのかは自分でもわかりませんが。
韻律についてはわりと頭韻が好きです。あとア音。「たえまなく流体として孕まれて」などはかなりの部分音で選んでますね。ただ川柳であまり歌いすぎてもよくない気がしますし、字余りの句もよく作りますね。過剰に字余りの川柳と、過剰に字足らずの短歌(たとえば高瀬一誌の作品など)の違いがよくわからなくなってきますが。
私は575に対する愛着はあまりないですが、77は好きです。77が独立して一句になるのって結構変ですよね。もともと自律性のないものをひとつの作品として提出しているわけですし。
俳人から見て、川柳の韻律や句形は俳句となにが違いますか?
O 俳句は〈構造〉に取り組んできた文芸なので、句形への意識は強いです。いっぽう川柳は平句の遺風があって句が流れる。もちろん屹立する川柳というのは珍しくありませんが、それは句形の強さではなく、詠みの気迫や読みの奥行きによって屹つんですね。菅原孝之助〈ゆっくりと父を裸にした柩〉、大野風柳〈美しい国の機械が子を生んだ〉、普川素床〈なんと長い足だろう 夜は〉みたいに。やはり川柳は〈意味〉に取り組んできた文芸だと思うし、そこが私にとっての魅力です。
俳句のことをもう少し言うと、77に限らず575も自律性がなく、立ち姿も不安定だと思うのですが、俳句はそれをそう感じさせないための技法を考案してゆきました。例えば、切れ字を使って17文字の内部に彫りを入れ、音律や意味に立体感をつける。また季語を使い、いまここに立ちながら太古から来世までの時空、すなわち永劫回帰性を召喚する。そうやって怪しい土壌に〈構造〉を創造するわけです。もちろん〈構造〉への取り組みとは、阿部青鞋〈半円をかきおそろしくなりぬ〉に見られるような〈脱構造〉を含んでいます。ただしジャンルに関する言説はつねに後づけなので、どんな見立ても本質ではありませんが。
S 川柳の〈意味〉のおもしろいのは、その短さゆえに、意味が十全になることがないところにあると思います。読者はそれを補おうとするわけですが、補おうにもヒントがなさ過ぎて、言葉が描こうとしている世界の全体像が見えない。というより、全体像なんてはじめからないのかもしれない。そうした不安定さや不気味さが川柳だと私は思っています。〈エンタシスの柱に消える大納言〉(小池正博)というように、屹立させつつ(「エンタシスの柱」)もそこから逃れてゆく(「消える大納言」)ような。
川柳はあまり技巧的に見えないし、でも間違いなく技巧はあるはずなのに、理論・体系化されていないので、他の詩型を参照しつつ考えていけたらいいのかな、と思います。特に俳句は575という定型を共有していて、似ているような、でもぜんぜん違うような気がして不思議ですね。いまあまりよくわからずに切れ字をつかった川柳の句を作ってしまったりしているのですが、もう少しこれまでの俳句の蓄積を知ったうえで創作していかないといけませんね。
5.これからのこと
O さいごに今後どのような活動をしてゆきたいかを教えてください。短いスパンと長いスパンと分けてお伺いできますとうれしいです。
S あまり考えてませんが、とりあえずコンスタントに句をつくりつづけたい、というのと、あと最近はブログに作品を載せるのに飽きてきたので、他の発表の場所をつくりたいですね。同人誌などやってみたいです。
川柳はじめてまだ1年たっていないのですが、300句くらいは作ったと思うので、順調にいけば5年で1500句。それくらい句が集まったら句集つくりたい、と思っています。そのときはお読みいただけたら幸いです。
O 1年300句はいいペースですね。ますますのご活躍を期待しております。ありがとうございました。
(了)