2019年09月30日

暮田真名句集『補遺』批評会の参加お申し込み

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2019年09月23日

喫茶江戸川柳 其ノ漆

小津 こんにちは。

飯島 いらっしゃい小津さん。今日はどこかに寄っていらしたんですか?

小津 バスを降りたあと、少し遠回りして商店街を通ってきました。商店街でひさしぶりにバナナのたたき売りの実演を見ましたよ。

飯島 むかしの物売りって「たーけやー さおーだけー」みたいに独特の売り声がありましたし、がまの油にみられるような売り口上もありましたよね。演劇やアナウンス、ナレーションの世界だと「外郎売」という口上が今もって練習されています。元演劇部の私も暗記しておりますよ。「さてこの薬、第一の奇妙には舌のまわることが銭独楽がはだしで逃げる。ひょっと舌が回り出すと矢も楯もたまらぬじゃ。そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ」といったあと、早口言葉をつっかえずに言いつづけるんです。「のら如来のら如来三のら如来に六のら如来。一寸先のお小仏におけつまずきゃるな、細溝にどじょにょろり。京の生鱈奈良なま学鰹、ちょと四五貫目、お茶立ちょ茶立ちょちゃっと立ちょ茶立ちょ、青竹茶筅でお茶ちゃっと立ちゃ」。ふぅ、ブ、ブランクが……。

小津 マスター、芸達者すぎます!

飯島 洒落や付け足し言葉でテンポよく構成されていて、活舌練習にすごくいいんです。これって二代目市川團十郎が演じた「外郎売」の台詞で、今も歌舞伎十八番の一つとされています。

小津
 なんだか江戸のお仕事に興味が湧きました。今日は働くことについてのセットをお願いできますか。

飯島
 それでは少々お待ちください。

      * * *

お待たせいたしました、本日の江戸働き方セットです。

 三千世界しよひあるく貸本屋
 柔術やはらの師かういたしたらどうなさる
 生酔なまゑひにからくり一つらりにされ
 虫売りのむなしくかへる賑やかさ
 あんどんで真赤なうそを売て居る


小津 わあ、とても懐かしい香りが漂ってきました。〈三千世界しよひあるく貸本屋〉。これは宣伝文句みたいですね。お得意さん回りですか。

飯島 はい、そうです。江戸庶民の生活用具全般はレンタルが主だったんですね。一つの理由として、江戸は火事が多かったんでいちいち買い換えていられなかったんだと思います。だから損料屋、今でいうリース業者が庶民の生活を支えていました。衣服、食器、布団、家具、装身具といろいろ貸し出していたそうです。で、書物もレンタルなわけです。掲句は三千世界を背負っているんですから、当然エッチな世界についても抜かりがありません。〈貸本屋密書三冊持つて来る〉というような句もけっこう残っています。

小津 地下活動みたい。禁書の多い時代だし、貸本屋さんは大活躍でしたでしょうね。いまスマホで調べてみたら、江戸だけで十万軒に及ぶ貸本読者がいたとありましたよ。すごい。

飯島 ただ、現代と同じような悩みもありました。〈筆まめな得意にこまるかし本屋〉〈無料見物にはこまる貸本屋〉。貸本への書き込みや立ち読みがあったようです。

小津 本に書き込む人って何考えてるのかな。次読む人とのコミュニケーションかしら。

飯島 わたし、20代のころは自分の本に直接メモしていたんです。いまは付箋に書いて貼り付けますけどね。なので20代のころ買った哲学書や政治思想書なんかには書き込みが多いんですけど、今それを読み返すと昔の自分とコミュニケーションを取っているような不思議な感覚をおぼえます。こんなこと考えていたのかって。でも一回、図書館から借りた本に、誤字が校正してある書き込みがありましたよ。正しいんだけどダメだろみたいな。

小津 あはは。そういえば私、明治の狂詩を読む時は、先人たちの書き込みにすごく助けられていますよ。正直、手書きの校正や注釈​がないと困ってしまいます。次の〈柔術やはらの師かういたしたらどうなさる〉は、柔術が仕事に入るのがなんだか新鮮です。わたし、あの時代の人たちが先生に月謝を払っていたイメージをどうしても抱けなくて。

飯島 これもね、今と昔でおんなじです。よくプロレスラーに「技を掛けてください」と気安く頼むひとがいますけど、掛けるっていうことは技をキメるってことですからね。レスラーが手加減をして掛けたふりだけしたら「たいしたことねえな」と思われるし、もしそこそこ本気で技を掛けでもしたら、このご時世なんで大騒ぎされそうだし。今でもよくあるといえば〈追剥に逢つて見たがる下手柔術〉という句もあります。武術を始めてしばらくすると、自分が強くなったと錯覚してしまうのですね。

小津 素人は厄介ですよね。次の〈生酔なまゑひにからくり一つらりにされ〉。これは意味がわからない…。でも音の響きの綺麗な句ですね。

飯島 「らり」は乱離骨灰の略で「めちゃくちゃになること」という意味です。

小津 なるほど。「らりにする」という言い回しが江戸っぽい。

飯島
 あと覗きからくりについても一応ご説明します。これは、ガラスレンズが嵌め込んである穴を中腰で覗くと、その向こうにある絵が拡大されて見えるって趣向です。口上師の物語を聴きながら、次々と変わっていく絵を覗き見て楽しむんです。江戸川乱歩の『押絵と旅する男』に、浅草十二階近くの覗きからくり屋が描かれていますよね。

小津
 ハイカラとレトロとが織りなす幻想小説ですね。次の〈虫売りのむなしくかへる賑やかさ〉は…。

飯島 この句はペーソスが漂っていますよね。

小津 ええ。笑いの表情で書かれた哀しみが絶妙です。それにしても虫売りが仕事になるなんて、江戸はどれだけ都会だったのだろうと思います。都会暮らしの旬との出会いってことなんですよね。また虫売りは、虫のいない季節には何を売っていたのかしらという疑問も。

飯島 江戸の働き方を調べてみると、季節によって売り物を変えることが多かったみたいです。たとえば現代の焼芋屋さんなんかも、さすがに秋と冬だけの商いでは暮らせませんから、春や夏は別のお仕事をしている方が多いと聞きますね。竿竹屋さんとか。江戸川柳にも〈行灯は赤いまんまで薩摩芋〉という焼芋屋さんの句があるのですが、ちょっと最後の句とあわせて読んでみましょう。

小津 最後の句というと、〈あんどんで真赤なうそを売て居る〉ですか。

飯島 はい。この句は夜商いの西瓜売りです。夜の営業では西瓜の中身をくり抜いて蝋燭を立てたり、赤紙を貼った行灯を照らしたりしてムードを演出していたようです。ここで、あらためて先ほどの〈行灯は赤いまんまで薩摩芋〉を見ますと、夏の西瓜売りがそのまま焼芋屋になったことがわかると思います。

小津  ほんとだ! 夏は西瓜屋さんで、すぱっと切る実演をしたり、中も赤いしで、縁日的なスペクタクル​が似合いますよね。そして冬は焼き芋屋さんかあ。庶民の生活が目に見えるようですね​。今日もとてもお腹がいっぱいになりました。いつもよりも現代の味​覚に近かったように思います。また来月も遊びにきます。

《本日の江戸働き方セット》
三千世界しよひあるく貸本屋   禁書借りてみたい度 ★ ★ ★ ☆ ☆
柔術やはらの師かういたしたらどうなさる   素人は怖い度 ★ ★ ☆ ☆ ☆
生酔なまゑひにからくり一つらりにされ   普遍性度 ★ ★ ★ ★ ★
虫売りのむなしくかへる賑やかさ   江戸川柳っぽいぞ度 ★ ★ ★ ★ ★  
あんどんで真赤なうそを売て居る   実演販売王道度 ★ ★ ★ ★ ☆

posted by 飯島章友 at 22:30| Comment(0) | 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月17日

【お知らせ】月刊「おかじょうき」2019年9月号・誌上句会「0番線」

「おかじょうき」の誌上句会「0番線」でSinさんと共に選をさせていただきました。
題は「個」で、今月号がその発表号です。
ぜひ「おかじょうき」9月号をご覧くださいませ。

おかじょうき川柳社
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2019年09月13日

俳優と川柳の言葉

最近、新作映画の公開ということで、三谷幸喜さんをテレビでよく見かけます。

20年ほど前でしょうか、何気なくテレビをつけたら、三谷さんがビリー・ワイルダー監督に英語でインタビューをしていました。三谷さんのビリー・ワイルダー愛は有名です。テレビでも、ことあるごとにビリー・ワイルダーの魅力を語ってきました。わたし、「お熱いのがお好き」「アパートの鍵貸します」をはじめ、ビリー・ワイルダーの作品をいろいろ観たのですが、これは三谷さんの影響なんです。

ところで先日テレビで、三谷さんがこんなことをいっていました。もしかしたら川柳にも通じるかな、と思ったので、すこし再現してみます。

司会者 いい脚本っていうのはどういうところに出てくるんでしょうか?

三 谷 どうですかね、やっぱりキャラクターじゃないですか。それぞれのキャラクターが生き生きしているっていうのが大事だと思いますけど。

司会者 どういうところから着想を得られるんですか? 日常生活だったり……。

三 谷 いや、僕はやっぱり俳優さんからですね。

司会者 イメージを裏切る役をあてられるっていうのは、その俳優さんに私たち大衆が受けているイメージと違うイメージを持たれるということですよね?

三 谷 俳優さんを見て、この人に何をやらせたいかっていうところから話が膨らんでいくこともあるので、みんなが思っているようなものだけじゃつまらないから、その裏側を何とか見つけ出していくという作業がいちばん大変だし、楽しいですね。

とくに後半の「俳優さん」を「言葉」に置き換えてみると、川柳の題詠論だなと思ったりするのです。 


2019年09月05日

福島真澄著 句集『指人形』

著者  福島真澄
発行  昭和40年11月1日
発行所 川柳研究社


夜空に穴あけて ほら 覗く誰か
グラスは赤いチユーリツプで 気体の対話
隕石の凹みよ お前の堕落が 地球だなんて
数字或る日タダになるお報せ
月の裏側の屋根から御出勤のネクタイは 朱
標本室に 心臓の化石は姓貼られ
角膜移植が 抜け出した太陽の傘を 借りる
化石の蓋で 太虚の指紋に睡る 貝よ
恵まれた虫食ひパンの翅を食べる
水色の匙よりこぼれ夏を滲ませる仔猫


福島真澄は林ふじをや時実新子とおなじく川上三太郎の教えを受けた。『指人形』も川柳研究社から発行されている。タイトルは同集に収録された、

指人形に静寂しじまを吹かせ夫がゐない

から取ったと思われる。彼女の著書は『指人形』の他に、『福島真澄集』(「川柳新書」第34集)と『福島真澄集』(「短詩型文学全書」川柳篇第2集)がある。

福島の『指人形』を読んだとき、想像力の可動域の広さに驚いたものだ。というのも、もしこれが昭和50年代前半の作品だといわれれば、まあまあ有り得るかなと思うのだが、同集は昭和40年以前の句が纏められているのだから、進取の気性に富んでいるとしかいいようがない。

そんなわけで福島真澄という柳人の来歴が気になり、同集の散文を読んでみた。それは川上三太郎による「序」、今野空白と片柳哲郎による「跋」、そして著者福島真澄じしんの「あとがき」である。すると、福島は十数年にも及ぶ療養生活でベッドに埋まった日々を送っていたことが分かった。想像力の可動域がここまで広いのには、そのような厳しい事情があったのだ。

彼女の十数年に亘る闘病生活は、それこそむごいものであった。それこそ身動き一つできない十数年であったからである。従って彼女は〈心〉だけで生きていくよりほかはなかった。だからそうして生きた。眼は病室の天井を見つめているだけである。
(『指人形』所収・川上三太郎「だいなみっくに」)

福島の「あとがき」によると、今野空白にすすめられて川柳を始めたという。昭和24年のことだ。今野の「跋」にもその当時のことが書かれている。

真澄と僕との出会いは、僕がインターン時代の昭和二四年であった。当時、終戦後の混乱が抜けきらぬ掘立小屋のマーケット乱立時代に、真澄は聴覚と嗅覚の自負のみで病いと闘いはじめた頃で、蒼白な細い少女の身体をベッドに埋めていた。その瞳は同情や哀れみを拒否するように澄んでいて、カチッと合ったその瞬間は鮮明であった。
(『指人形』所収・今野空白「冬の花火」)

当時の福島が置かれていた環境を知ったうえで以下の川柳を見たとき、最初のときと読み方がまったく変わってしまった。当初は背景を知らなかったので、「不自由さが拾へば」「平熱に駆け下りられる」「返されるだけを叩く」という言葉の妙を純粋にあじわい、その奥行きまでは感得できなかった。

不自由さが拾へば身体ごと拾ふ
平熱に駆け下りられる坂がある
この壁は返されるだけを叩く壁だ


『指人形』には、川柳的な悪意(?)のまじるユーモラスな句も散見される。ユーモラスの背景に厳しい環境があったのは疑いえないが、読み手としてはまずテクストを楽しみたい。その点からすると、じつにプロフェッショナルな句集といえるのではないか。

開けゴマ 盗まれた小銭 蜂になれ
教科書に咲いた桜は散り給へ
うなだれた街灯に刻の袋が重たいぞ
愛は眼鏡を拭いて消えないか
小粒の銭を交換する 何とまあ蜜豆です
ウエイトレスのハ行が間投詞を摘み歩く


現在、福島真澄が川柳界で語られることはあまりないように思う。川柳アンソロジーにもほとんど載っていない。わたしの所有している本だと『明治・大正・昭和三代 現代川柳の鑑賞』(山村祐・坂本幸四郎/昭和56年/たいまつ社)に福島が取り上げられているくらいだ。わたし個人の力ではどうにもならないが、インフラストラクチャーとして川柳アンソロジーがもっと必要だと感じる。

最後にその他の福島作品を数句紹介しおこう。

喚きたい涙ならば魚語よ光れ
断層に物の怪を嚥む君主たり
ゴム風船に 世界が入つた 逆さの空
青信号の瞳孔から冠≠フある十九世紀の濶歩
ハタと動画 光る涙の音を消せ


作品は作者の感懐や、つぶやきにおわるのだろうかと福島真澄は問うのである。そして一個の人間の感情というものには、ペンで鮮やかに描けるような、素直な理想的なものばかりが溢れているのだろうか、と言うのである。つねに疑惑のない、やすらぎの感懐の中に、生きている限りは居られる筈がない。というこの作者は、自らの内部の世界を凝視し分析する。そしてそこに作家としての福島真澄の位置があった。
(『指人形』所収・片柳哲郎「天狼星の下に」)

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