秩序、というもの/ことは、何のためにあるのだろうか。
こんな問いを立てるのも、川柳というもの/ことにあって、いっけん「法」が支配しているように見えるからである。ルール、とあえて片仮名で書いた方が感触は伝わるだろうか。たとえば五七五ということ、それが川柳にとって、最も尊ばれる「法」であると、多くの人が理解している。
だが、なぜ五七五なのか。その理論については、拍打などの音声的な点からも説明はなされている。だが、その当否はここでは置いておく。ここで考えたいのは、多くの人々(主に五七調に携わらない人々)にとって、五七五(短歌なら五七五七七)が当然の前提として了解されているという問題についてである。
およそ、五七調に関わった者ならば、いちどならず「ここで五音(あるいは七音)にしなければどんなにかよいのに」と誘惑された経験があるはずだ。その次には、当然として「なぜ五七五なのだろう?」という疑問にぶち当たる人も多いだろう。そのあとに「それはルールだから」と言って納得するのか、その「ルール」自体を食い破ろうとするのかには、優劣はない。ただ、携わる者の志向が異なるだけである。
だが、その「ルール」は果たして五七五にとって必然なのか、を意識してしまう者はいる。
五七五は、五七五でなくともよいのではないか。
しかし、「携わらない人々」からは、五七五は、五七五であると、前提されている。その無自覚性を含めて、「五七五」は「法」と呼ぶのがふさわしいように思う。無論、「法」によって「秩序」がうまれたわけではないし、その逆に「秩序」によって「法」がうまれたわけでもない。「法」が発見されたときに「秩序」も発見されたという考えは、一考に値すると思われるが、「法」と「秩序」(この順番は攻×受のように固定化されたものではなく、リバ可能なものと思っていただきたい)の連関を説明するものではない。いや、ここで「法/秩序」を語るのは、大言壮語にすぎる。私が語ることができるのは、あくまで川柳のことだけだった。
川柳とは何か。
そんな問いに答えが出せるのだったら、誰も苦労しないが、仮説を立てることはできる。たとえば「川柳とは、秩序をあたえるものである」という説はどうだろうか。渾沌、という言葉ではとらえきれない〈ぐちゃぐちゃ〉を、言葉という枷をもってかたちと成す。それが川柳であると、とりあえずは仮定しておく。
であれば、五七五とは、やはり枷のかたちとして、必然なのか。否、と答える作品群が確かに存在する。自由律、と呼ばれる句が、その一角を占めるだろう。回り道をしたが、九月の作品、石川聡「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」もそのひとつである。
視点を今作に絞るとして、そこに秩序はあるか。是、と答える。その回答に至るまでに、私は、冒頭の問いを以下のように修正しなければならない。
秩序、というもの/ことは、何によってもたらされるのだろうか。
その問いを続けつつ、まず「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」を見てゆくことにしたい。
まず目につくのは、連作が進むたびに文字数が昇順でふえてゆくこと。
これは全体を見たときに、一種強烈な印象を与える。同時に、そこに「ルール」があることを了承させる。ふえてゆくという自己規程。斜面のような紙幅を見るとき、この連作は自ら「ルール」を課するものだということを私たちは感じ取る。
自由律、というものが、絶えざる自己管理の結果であると、この型式は明示している。それがゆえにひとつの秩序がもたらされているのでもあるが。
逆立ちした秋だ 「秋」が「逆立ち」しているのか、逆立ちをしている作中主体が秋を詠嘆しているのか、あるいは、「逆立ちした」と「秋だ」のあいだには連関がないのか。そのいずれも読み方として可能である。むしろ、さまざまな読み方を、これだけの字数で提示することができる、そこに句としての構成力=秩序の兆しとして解釈したい。
雷去り萩に色さす 第一句に比べ、ここでは因果関係が表記されている。意味の上での因果関係はあまり「意味がない」。雷が去ったから萩に色がさしたというのは、たしかに因果として成立していないだろう。だが、因果がないところに因果を設定する。すなわち、ここにおいても秩序が発生すると言うことである。連作として見た場合、字数がふえてゆくことによる、情報量の増加もまた、一定の秩序であろう。
セミのパトラッシュ 当然ながら『フランダースの犬』の「パトラッシュ」を踏まえている。ここで示されているのは、パトラッシュが「セミ」である世界と、「犬」である世界の交錯である。セミを「パトラッシュ」と呼ぶ世界は、犬をそう呼ぶ世界に折り重なることによって、より世界観を補強される。世界というもの/ことが秩序のためのツールだとして、この句は秩序としての世界を描いている。
そよりさよりひかりきる ここでは、「り」の連続による統一がなされている。しかしそれは無意味なのか? という問いを立ててみても良いだろう。文脈において、ここに矛盾はない。しかし、「そより/さより/ひかりきる」のあいだには断絶がある。その断絶をひとつの文章にすること。そこに、渾沌を濾過する「詩」があるように思うのだ。
なかゆび舐めて駆けのぼる龍 このあたりから、情報量の増大により、「意味」と「無意味」がいっそう際立ってくる。この句において「舐めて」は「なかゆび」に、「龍」は「駆けのぼる」に強く結びついていることは言うまでもない。しかしこの二群の連結、あるいは非連結に、まぎれもなくなんらかの「法」が通底している。それが、五七五に拠らない、「自由」というルールなのではないか。
平積みの浸透圧の無いフォント 連作中、はじめて私たちは五七五に遭遇する。しかしそれは一瞬で、すぐに通過するものと、連作の全体を見た私たちはよくわかっている。この句において五七五は絶対ではなく、連作を構成するための一パーツにすぎない。それを証立てるように、句として「詠まれた」もの/ことは、ほぼ意味性を剥奪されている。だからこその、Aが「無い」Bという奇妙な公式が導き出される。
赤く重く滑り落ちる満月不飽和脂肪酸 そう、そして五七五はあっけなく通過されてしまった。五七五をはみ出していくことに、実は必然性などいらない、というのはこの評でにじみ出してきたテーゼである。この句はうつくしい。うつくしさのために何をしてもいい、という理屈ではない。むしろ句の意味の解体と再構成が、一句の中で続けられている、という点において、美、が存在するのだ。それはこの「不飽和脂肪酸」が「ある」ものではない、存在しないという存在の仕方によって保証されるのではないだろうか。存在しないものが存在するというのは、やはりひとつの秩序立てであるかもしれないが、この句のインパクトはその秩序自体をも解体する。
浮いた静脈の第四弦サティーの蒼いしらべ そしてついに、ここはゴールなのだろうか。理論上は、文字数をさらにふやしてゆくことが可能なはずである。八句、というルールがあるからこの連作はここで終わっているが、連作のベクトルはさらに先を目ざしているようにも見える。この(仮の)最終句における情報量の多さは、〈さらに入れられる〉詩の面積の無限性を示している。だが、この連作はここで終わった。それは八句という縛りのせいだけではないだろう。短詩が短詩として成立するぎりぎりのところで、この句はあやうく立っている。それはこの句および連作に対する否定ではない。むしろ、〈短詩は無限の詩へのエネルギーを内蔵しつつ、それをさえぎる〉ことによって成立するのではないか。そうした「川柳」というものの構造を、くっきりと見せているのではないか。
ここでのルールは、その〈さえぎる〉という一点に集約されるのかもしれない。何かを規定するときの、切断。
だから全体として見たときに、「切断」によって「秩序」はもたらさるのではないか。評中に挙げた「何によってもたらされるか?」という問いに、この連作はひとつの答えを示してくれたような気がする。
秩序は型式ではない。秩序は〈ぐちゃぐちゃ〉を切断したときにはじめて発生する。
だがその秩序は、切断ゆえの自己切断と、反動としての自己増殖に常に突き動かされている。
その運動体をとらえるのが、五七五の、川柳の意義なのかもしれない。そしてそれが、〈携わらない〉人びとの、「前提」への回答になっているはずだ。
この連作を呼んで、渾沌としたまま、考えさせられたもの/ことである。
追記 ネット環境の不備から、鑑賞文を書くのがかなり遅くなりました。石川聡さんはじめ、皆さまにご迷惑お掛けしたことを謝罪します。たいへん失礼しました。