『一行の青春』は詩集とエッセイ集とが2冊1函になっている。2冊とも、山村祐を筆頭に250名が結集していた「短詩」誌(昭和41年9月〜昭和45年3月)に関わる内容になっている。エッセイ集のほうは山村祐の短詩論や短詩作品鑑賞、詩集のほうは計43冊発行された「短詩」誌のアンソロジーで72名の作品群が選出されている。
詩集の巻末に載っている山村の「短詩」誌顛末記によると、「短詩」会員の年齢は「一六、七才から二二、三才までが90%を占め、あとは二〇才代後半までを中心に、三〇才代、四〇才代を含めて10%弱、五〇才代は私と妻のほか一、二名だった」というから、既成の短詩型文学とは対照的だ。また会員のほとんどは俳句や川柳の洗礼を受けていなかったとも。そのため、徒手空拳でおのおのが短詩を模索していたようだ。だからだろうか、二年近くして壁に突き当たり書けなくなった実作者が多かったと、山村はエッセイ集のほうで書いている。
また、おなじく詩集の顛末記によると、短詩は「第三の短詩形作品の創造」を目標にしていたという。徳川時代に俳句や川柳という一行の詩が生まれたように、「近代以後の社会から新しく生れでるべき短詩形作品の可能性を考えた」そうだ。
それでは何はともあれ、詩集『一行の青春』より何作品か引いてみよう。
満月少年 スプーンに海を
マッチ擦った 睫毛に別の世界がブランコしてた 谷口慎也
エスカレーターからふってきた棺桶 吉田健治
別れる時は雪の上を上手に歩いて下さい 後藤すみ子
紫陽花の重いのは 夢を吸っているからです 桜陽子
あなたが好きと レモンスカッシュに浮いてみる 大沢たえ子
風葬の鳥 秋の果実は地底に熟れた 佐藤龍夫
たとえば 夜は長靴 森原英機
油紋に漂うフランス人形の胎内で澄んでいる祖国 石原明
一卵性双生児は夕日が嫌いトマトが嫌い 本間美千子
「おはようまどか」パパを疑っちゃえオウム 吹田まどか
おばさまのノド鳩が住んでいる 大ッきらい
あじさいの息の根とめて「ママ 花束よ!」
最後の吹田まどかとは故・安藤まどかの当時の筆名。安藤まどか(川柳での筆名は望月こりん)は時実新子のご息女で、「月刊 川柳大学」誌の発行人だった。短詩は現代から生れでるべき詩形ということで口語中心なのだが、吹田の作風は口語体というよりも会話体が全面に出ており、72名の中でも異彩を放っている。
さて、短詩とは何かという問題についてである。「短詩」誌内でも活発に議論がされていたようだし、一般に形式というものは作品をもって(つまり実践によって)示唆されるものだと思うが、短詩の牽引者である山村は自分なりの理論を立てていた。エッセイ集から抽出してみよう。そのひとつは〈一呼吸の詩〉という基準だ。これは、短詩は「呼吸を変えないで読めるということ、つまりいちばん快適な一呼吸の長さ」でよまれるということだ。一呼吸ということからすると、新古今短歌は五七五/七七の二呼吸でよまれる性格だと山村はいっている。そしてもうひとつは〈短詩ゴムマリ論〉。これは「ゴムマリを掌で強く握れば握るほど反撥力の増してゆく」ように「短詩の凝縮化の力が強まるに反比例して、それに反撥する力も強くな」るという理論だ。「ゴムマリを握る力が最高に達してハレツする(伝達性が失われる)直前において、相反する二つのエネルギーは最も微妙なバランスの美しさ、力強さを発現する」のであり、短詩もそのように成立するということだ。例として山村は「咳をしてもひとり」(尾崎放哉)をあげている。
「短詩」誌は長音派と短音派とに分かれたことなどによって休刊となった。もし続いていたらどうなっていただろうとも思うが、「短詩」は必ずしも定型によらない詩形なのだから、遅かれ早かれおのおのの道を歩み出していくことになっただろう。
現在、短詩・一行詩がジャンルとして成り立っているのかといえば、たぶんジャンルといえるほどの規模にはなっていない。そのような状況を見たとき、山村が短詩・一行詩の基準として〈一呼吸の詩〉をもっと前面に出せていたらどうなっていただろうか、と思ったりもする。或る文芸形式がジャンルとして成立し発展するには、参加者に或る基準がおおむね合意され、形式に安定性がもたらされることが必要かと思う。短詩・一行詩はその点で輪郭が見えにくい。誤解のないようにいっておくと、形式の安定=厳密なルールが必要といっているのではない。そうではなく、あらかじめの基準がなければその形式を更新する応用可能性も出てこない、というごく平凡なことをいいたいのである。