2020年02月28日

今月の作品 石山正彦「屋隊」を読む


 最初に言っておきたいが、あえて妄想的な読みをする。作者の意図を汲もうとは思わないし、汲むことは不可能である。ただ、与えられた句を、どのように読むことができるのか、ひとつの実験であり、私のエゴイズムである。という弁解のもと、駄文を連ねる。

 一目瞭然、同じ文字数の句が並んでいる。
 数えてみればわかるとおり、一句につき16文字が使われている。それが8句。16進法やビットなどという概念を持ち出して読むことも可能だろう。
 だかここでは、句群の長方形が整然としたかたちをとっていること、8の倍数が16であることに注目したい。16×8はまた、8/16に容易に転換できる。約分すれば1/2である。
 この1/2が、aからa'への飛躍あるいは照応が、連作を支えるブースターになっているだろうか。

  歌うこともなくて、子ども泣くつて

 「、」で句の前半と後半が区切られている。それ以上に、「こともなくて」と「子ども泣くつて」の変奏が、句を半分にわけている。(類似は差異を顕わにさせる)。変奏されるのは「こ」が「子」に、「と」が「ど」に、そして「くて」が「くつて」にさせられている箇所である。
 この「つて」の「つ」がなぜ旧仮名遣いなのか、そもそも連作に旧仮名と新仮名が混在しているではないか、と一見戸惑いをおぼえるかもしれない。
 しかしこの「つ」においては、前半部から改造された部分の強調、と読めなくもないのだ。異物が混入したことをあらわす、異物としての旧仮名。いや旧仮名/新仮名という区別は、連作を見る限り、通常の思考とは異なる感覚で把握されている。決して、「擬似的な古さ」を呼び込むための物ではないのだ。

  橋のうら廻っていくとはなした餃子

「餃子」の「子」が、前句の「子ども」から導き出されている。正確に言えば、読者にとって「餃子」は「子ども」から連続されるものだ。そしてこの「餃子」は意味を撹乱する。日常言語では、餃子は話すものではないからだ。いま、話す、と書いたが、「放す・離す」と読むことも無論可能である。「いくとはなした」は、「行く、とは、成した」と読むことさえこの句は許す。この言葉の意味の転回は、「廻って」によって保証されている。そして転回は「橋のうら」に最初から結実されている。橋の裏側は本来重力がはたらく場所ではないからだ。橋のうらを廻るとき、当然おもても意識されている。その「廻転」によって句はつらぬかれ、「うら/(表記されない)おもて」の二項対立が止揚されるのだ。

  ほとんどのごま塩あたま小分けする

 言葉が喚起するイメージにおいて、「子ども」の群れを見ることはたやすい。ここでもうひとつ仕掛けられているのは、「ほとんどの」に「どの」が含まれている点かもしれない。「どのごま塩あたま」と読んだ時、群れが「小分け」にされる情景が、いっそう強調される。「小」が「子」とのつながりを保っているのはもちろんだが、「分け」られていると言う点で、句によって自らが分割されてゆく図式をみることも、おそらくは可能だろう。

  メリケンサックとはぎょうざから来

 ここにおいて、「ぎょうざ」がまた反復される。しかし「ぎょうざ」は「餃子」ではない。「メリケンサック」と「ぎょうざ」の形態的な類似は、両者の根源的な違いを際立たせる物だった。その差異から生まれる運動が、句に力を与えているのだが、ならば「ぎょうざ」と「餃子」にもその差異による力動を見ることは可能だろうか。「ぎょうざ」が発音に近い、しかしこのテクストがネット上に書かれた物であることを思えば、「ぎょうざ」というひらがなの〈かたち〉を見て取ることができはしまいか。〈ギョウザ〉の〈ぎょうざ〉という襞をもつ形態を、メリケンサックからの剥離に、より強調されると〈見る〉ことができる。あえて新仮名で書かれているのは、その観点から確認した方がよいだろう。この「メリケンサック/ぎょうざ」の対比、「ぎょうざ/餃子」の対比による、引き裂かれが、この句の熱源となっている。

  指じっぽんで送ったメールから来季

「来季」の「季」が前句「ぎょうざから来」から導き出されていることは明らかである。前句からのベクトルが、この句のベクトルに解離されて行く運動。それが1/2の運動であるとは言えないだろうか。この1/2が顕著なのは「指じっぽん」であろう。指が10本である、ということ。それは5×2であることを前提としている。奇数である5が、偶数に上昇される瞬間。5という数字は、575の川柳型式において、〈呪われている〉とすら思われる数である。5も7も、合計した17も、2で割り切ることはできない。しかし、この連作では「16文字」という縛りが、その飛翔を読み手に印象づける。「メール」が0と1からなる信号であることに注意を向けてもいいだろう。そしてこの運動が、「来季」というまだ見ぬ世界を現出されるのだ。

  いつまでもずつといつしよなんだよ

 ここで語られているのは、二者の関係である。aがa'と「ずつといつしよ」と呼びかけること。そこには1/2を畏怖しつつ、しかしついに一体化を成すことができず、永遠に一緒にいる=永遠に半分でいることしかできない、という諦念を読むことが可能であろう。この〈一体化を望みつつ不可能〉という引き裂かれが、句そのものに分裂をもたらしている。という読みを許すのは、ここにおいても唐突な旧仮名である。「ずつといつしよ」。ここに「ずつ」は一人ずつ、二人ずつの「ずつ」とも読める。この言葉の多重性が、この連作をつらぬく〈半分〉を支えている。ならば、「いつしよ」は「何時」と捉えることもできるとして、「いつまでも/いつ」という時間性がこの句に運動性をもたらしていると思うのだ。

  蝶ちょうを拭きながら追い吐く双子

 1/2はさらなる1/2を誘発する。「蝶ちょう」にはじまり「双子」に終わるこの句は、分裂に重ねられた分裂を顕現している。これは「蝶ちょう/双子」という素材に終わるものではなく、「拭きながら追い吐く」の「ながら」にも重点が置かれていると見ることはできるだろう。並行して行われる二つ(あるいはそれ以上)の行為。「ながら」の主体はひとつであるが、それゆえ二つの行為が交わることはない。その逆説が、句の原動力として息づいている。なお、「双子」の「子」については、連作の中で幾度も反復された旋律である。「子」が自らより分裂したものであること、あるいは1/2と1/2の二者の結合の結果であることを考えれば、それは当然の帰結であるのかもしれない。

  こめかみにひらひりひれと四字熟語

 前句において、二分割はさらに二分割された。それゆえの「四」なのだろうか。この「四字熟語」がどんなものだったのか、明記はされていない。だが、明記されていないことによって、「ひらひりひれ」が「四字熟語」ではないかというビジョンを読み手に抱かせる。当然「ひらひりひれ」のどこも「四字熟語」ではない。しかしaがa'ではないという事態において、この二つは関係するし、〈二つ〉という事実を顕わにする。〈二つ〉は決して混じりあうことがない。しかし〈二つ〉の関係、あるいは無関係という関係によって、川柳は川柳として成立している。あえて言うなら、成立しないところに〈有ってしまう〉ということが川柳の川柳性かもしれないのだ。その点で、1/2を基盤に置いたこの連作は、実に正統的な川柳ということができると信じる。

 以上、妄想的な読みを行った。あくまでこれは私の読みである。「優れている川柳」を審査するほど虚しい行為はない。しかし、この連作には、読み手の様々な読みを許す、という点で、確実に大きな許容力を持っている。次にどんな読みをさせてくれるのか、私は畏怖とともに楽しみにしている。
posted by 川合大祐 at 13:11| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月06日

2.9『補遺』批評会へのご参加 追加募集

2月9日(日)の暮田真名第一句集『補遺』批評会は、スペースにまだ余裕がありますので引き続き「批評会へのご参加」のみ承ります。
当たり」のTwitterからDMでご参加の旨をお知らせください。

またブログ右上(スマホだと下側)にあるスープレックスのメールアドレスでも承ります。

暮田真名さんのほか、平岡直子さん、柳本々々さん、川合大祐さん、笹川諒さん、小池正博さんと対話ができる機会でもありますので、ぜひお越しくださいね。
posted by 飯島章友 at 06:59| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月01日

屋 隊/石山正彦


歌うこともなくて、子ども泣くつて

橋のうら廻っていくとはなした餃子

ほとんどのごま塩あたま小分けする

メリケンサックとはぎょうざから来

指じっぽんで送ったメールから来季

いつまでもずつといつしよなんだよ

蝶ちょうを拭きながら追い吐く双子

こめかみにひらひりひれと四字熟語



【ゲスト・石山正彦・プロフィール】
無所属。1997年生まれ。


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posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 今月の作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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