わたしは子供のころから小説というものを殆ど読んできていません。いま自分の家の本棚をみても、小説は、文学好きの親戚からもらったお下がりが数冊あるくらい。都内で一番下の高校に入るまで、ずっとクラスで最下位の成績の子でしたから、とにかく活字が苦手。殊にこむずかしい純文学など、とても読めたものではありませんでした。でも、子供向けの探偵小説だけは違っていました。中でも、ポプラ社の少年探偵団シリーズと名探偵ホームズシリーズはよく読んだものです。
シャーロック・ホームズほどの世界的な小説になると、それを元にした創作物もいろいろと生まれています。その中には、ホームズと同時代の実在人物を登場させた創作物もあって、たとえばホームズとジークムント・フロイトが絡む小説・映画があります。おなじように、夏目漱石とホームズが絡む小説もあるんです。漱石は明治33(1900)年に文部省の命でイギリスに留学しました。これはホームズが活躍していた時期と重なっているんですね。参考までに、わたしが持っている『シャーロッキアンは眠れない』(小林司・東山あかね/飛鳥新社)によると、ホームズの誕生日は、1854年1月6日説が有力なんだとか。
さて、その漱石のイギリス留学時代のこと。彼は木戸銭を払ってレスリングを観ているんです(興行内のレスリングなんでプロレスリング)。といっても、日本の柔術家とレスラーの戦いがあると聞いて、それを目当てに出掛けたようですけど。このことは、『漱石・子規往復書簡集』(和田茂樹編/岩波文庫)で知ることができます。漱石(金之助)が病床の正岡子規へ宛てて書いた明治34(1901)年12月18日の書簡です。これが最後の書簡となりました。
先達「セント、ジェームス、ホール」で日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負があって二百五十円懸賞相撲だというから早速出掛て見た。
(中略)
ソンナシミッタレタ事は休題として肝心の日本対英吉利の相撲はどう方がついたかというと、時間が後れてやるひまがないというので、とうとうお流れになってしまった。その代り瑞西のチャンピヨンと英吉利のチャンピヨンの勝負を見た。西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも一、二と行司が勘定する間このピタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大に埒のあかない訳さ。蛙のようにヘタバッテ居る奴を後ろから抱いて倒そうとする、倒されまいとする。坐り相撲の子分見たような真似をして居る。御蔭に十二時頃までかかった。ありがたき仕合である。
まあ、こんな感じなんでしょうね。そもそも組技系格闘技は、打撃系格闘技と違って興行に不向きな面があるのです。打撃のようにアクションが大きいわけでもなく、また型の演武があるわけでもなく、どんなに寝技の技術が高くてもそれが観客に伝わりづらいのです。
加えて1900年ごろといえば、10割近い日本人がレスリングなんて知らなかったでしょう。以下は、先日取り上げた小島貞二著『力道山以前の力道山たち―日本プロレス秘話―』(三一書房)に詳しく書かれていることですが、日本で初めてレスリングの興行が催されたのは、明治20(1887)年。プロモーターは浜田庄吉。明治16(1883)年に角界を脱走し、海を渡ってレスリングを習った男です。「西洋角觝」などと銘打ったこの興業では、レスリングと同時にボクシングの試合も組まれたようですが、興行的には失敗。レスリングが日本に根付くことはありませんでした。
その後、プロレスラーのアド・サンテルが、日本柔道に挑戦状を叩きつけ、はるばる船に乗って来日したのが大正10(1921)年のこと。サンテルは、パワフルな投げ技と卓越したサブミッションホールド(締め技・関節技)をもつ強豪で、世界ライトヘビー級王者にもなった選手です。この柔道vsレスリングの試合は、靖国神社境内相撲場にリングを設置して行われました(この他流試合については丸島隆雄著『講道館柔道対プロレス初対決―大正十年・サンテル事件―』に詳しいです)。当日は渋沢栄一や、元横綱・太刀山峯右エ門も観戦していたそうです。なお、このアド・サンテルは、のちに鉄人<求[・テーズを指導したことでも有名です。テーズにサブミッションホールドを教え、それがテーズの財産になったわけです。
そして昭和3(1928)年には、三宅多留次らによる「大日本レッスリング普及会」のレスリング興行がありました。三宅は明治37(1904)年から柔術家として欧州で活躍した後、アメリカで柔術を指導していました。と同時に、タロー三宅・メケ三宅などのリングネームでプロレスラーとしても活躍。後年、ハワイ相撲の横綱だった沖識名をプロレスリングにスカウトしたことでも有名ですね(その沖識名は、力士だった力道山がレスラーに転向した際のトレーナー)。この興業は、三宅が24年ぶりに帰国した凱旋興行だったわけですが、浜田同様、これも失敗に終わってしまいました。
浜田庄吉と三宅多留次の興行が成功しなかったように、日本人にとってレスリングは退屈な格闘技だったのでしょう。結局、根付きませんでしたからね。レスリングにたいする漱石の感想は嫌みったらしいようにも思えますが、率直な感想だったと思います。スポーツを、殊に組技系格闘技を興行として成り立たせるためには、綺麗事だけでは済まされない、とわたしは思っています。
(つづく)