千春さんの実家で飼っている猫の名が「てと」である。表紙の「てと」はたまらなく良い表情。
彼女の特徴として、よく樹々と会話する句がでてくる。大樹や葉っぱと会話したり、もたれかかったり、頭を撫でてもらったり、撫でてあげたり、それがとても自然で違和感なく感じるのは彼女の本性だからなのだろうか。植物的というのは気持ちのいいものだなとよく思った。
週末に「お疲れさま」という樹々に「ほんとう」という素直な私
彼女の作品はいつも等身大だと思う。「素直な私」も彼女だから、受け手も素直に読める気がする。
ときどき言葉が飛びすぎて追いつけないこともあるが、それはそれで今の彼女なのだと思う。いつか、自分がそのレベルになったらわかるだろうと思いたい。
不登校とうもろこしの葉が繁る
彼女が不登校になったことがあるのかどうか知らないが、心は不登校になったことがあるかも知れない。とうもろこしの背の高さ、畑の中でしゃがむ彼女、葉のざらざら感と濃い緑色、そしてその中の蒸し暑さを肌に感じる。一人だけれど独りではなくて、今はとうもろこしが寄り添ってくれているのだ。この優しさは彼女だけのものだ。
見逃した着物の裾が智恵子抄
有名な本を題材にしても、彼女が句にすると彼女の世界となる。智恵子抄なのに、彼女が今着ている着物の裾に違和感があって足元を確認している姿がもう智恵子抄ではなくて、彼女になっているのだ。智恵子抄と彼女の共通点がそこにあるように感じる。ふわっと香ってくるのは智恵子抄の本の中の智恵子さんなのか、彼女の香りなのか、狐につままれた感じがいい。
日常の中から生まれたのもいい。飾らないから本当にそうなんだろうなと思わせてくれる。
手もとから産声あげるその文字は今の私になってゆきます
今日の出来事を書いているのに、書いた先から今のことになっている時間の遡り感がいい。そして
これでいいんじゃないのか日記を燃やす
彼女はやはり孤独を持っている。自分が居なくなったあとに、身内や知人、見知らぬ人に自分の胸の内は読まれたくないから、書き終わった日記はその都度燃やしてしまう。キャンプで焚き火を見つめている感じで燃やされていく日記、表紙が分厚いからなかなか簡単には燃えない時間、この消滅感が実に気持ち良いのだ。
ストーブが無いと私は毛が生える
もちろん彼女は猫ではないので毛も生えていなければ髭も尻尾もない。しかし寒いと長座布団を二枚重ねてフリースの膝掛けを敷いて、そこに猫のように丸まって寒さをしのぐ彼女の姿が浮かぶ。この作業の方が手間がかかるだろう。
「ストーブつければいいじゃん」
「面倒臭い」
なんて夫婦の会話が聞こえそうだ。あくまでじっとして動かない彼女と、しかたないなぁ、スイッチ押せばいいだけじゃんという顔でストーブをつける夫のまったりとした感が心地良い。
大変な交通事故というテレビあなたと私ケンカのさなか
これはもう誰にでもある日常で、彼女夫婦だけのことではないのだが、こうして短歌になると改めて、ああ家もそうだわぁ、と共感する。そして
ひくいところでくちびるをなめる
してやったりとチロッと唇を舐める彼女の顔は女だ。自分が何をすれば彼がどう動いてくれるのか分かった上で、ちゃっかり実行し、優しい彼を見つめる。
彼女の言葉の使い方は独特で、けれどもそのチョイスがすんなりと彼女から出ていることは、普段の彼女を見ていると納得する。
八百屋が売っている二物衝撃
別に八百屋に2メートル大のキティちゃんが売っているわけではない。すべて八百屋にあるべき野菜や果物が売っているだけなのだが、彼女にはこの商品達の会話が聞こえるのだ。頭の片方で今日のメニューを考えている間、もう片方では野菜達の会話やらケンカやらが聞こえている。いったんは忘れるのだが、川柳を考えている時にその時のことがふと甦ったに違いない。大根と苺の意見の衝突はさぞ面白かっただろう。
神様は玄関先でぐーぐー満ちる
そして彼女によると、神様は玄関先でぐーぐー「満ちる」のだ。何だか宮崎駿作品を連想させる。
スパゲティがサァーと浮世絵を描く
更に、夕食に作ったスパゲティを皿に盛り、ミートソースをかけた瞬間、それはもうミートソースではなく浮世絵と化する。「サァー」っという表現、スパゲティのクルクル感と色を乗せるようなミートソースのタッグはもう浮世絵なのだ。だからフォークではなく割り箸を使うことになる。食べるごとに絵は変わっていく。乙な夕食だ。
以前、らきさんの名前を使った句を書いてもいい?と聞かれ、簡単に「うん、いいよ」と承諾した。そして本にまで載ってしまった。
あと少しあともう少しで樹萄らき
彼女の「あたし感」って何だろう?いつか聞いてみたいような、聞かない方がいいようなふらふらした気分だ。
鑑賞をと言われ、白羽の矢を立ててもらえたことが有難くて書いたが、いやはややはり人様の句について書くのは難しいとつくづく思う。こんな浅い鑑賞でごめんね、と紙面上で謝ってしまう。
最後に、彼女のこの本に詩も載せている。好きな一つを挙げておく。
「顔」です。
お粗末でございました。