夏目漱石と素晴らしき格闘家たちC
つづいてレスリングの連作を見てみましょう。昭和7(1932)年の6月に行われた試合が詠まれています。
レスリングを観る
息つまるヘツドロツク、はつと思ふまにどたりといふマツトのひびきだ
じりじり、両足で締めつける物凄い静けさのなかで、誰かごくりと唾をのむ
ねぢきれさうな激しい意欲を身のうちに感じる――ゴングよ、早く鳴れ
ボクシングの連作と比べたとき、いささか分析的な文体に感じます。競技の質的な違いが文体に影響を及ぼしているのでしょうか。連作の中には日付、会場、選手名などが出てこないので、どんなレスリングの大会だったのかはわかりません。ただ、この年はロサンゼルス五輪が7月30日より行われました。レスリングには、わが国からも7名の柔道有段者が出場。その中には、のちに「日本レスリングの父」と呼ばれる八田一朗もいました。連作の試合が6月ということを考えると、一つの可能性としてですが、五輪代表選考にかかわる試合なのかも知れません。
昭和6年〜7年は、日本のアマチュアレスリングの形成期。昭和6年には、庄司彦男・八田一朗・山本千春らによって、早稲田大学レスリング部が創設されました。これが日本初のレスリング部です。6月10日には大隈講堂に「リング」を作って公開試合も行われました。しかし、まだアマレスの統一的な協会はなく、夕暮の連作が詠まれた昭和7年には複数の団体が存在していました。八田一朗と山本千春の大日本アマチュアレスリング協会、講道館のレスリング・グループ、庄司彦男の大日本レスリング協会と、三団体が鼎立していたのです。
ロス五輪へ出場する選手は、この三団体からそれぞれ選出する折衷策がとられました。しかし、結果は全選手とも敗退。この時期の日本のレスラーはまだ柔道家だったので、仕方がなかったのかも知れません。柔道とレスリングはおなじ組技系格闘技ではありますが、ルールの違いや道着の有る・無しで技術は大きく変わってしまうのです。
なお庄司彦男(庄司彦雄とも)とは、前述したプロレスラーのアド・サンテルと大正10(1921)年に他流試合をおこなった柔道家です。結果は、道着をつけた試合だったにもかかわらず時間切れ引き分け。しかも、試合内容は終始サンテルが庄司を圧倒したのでした。ここでは詳しく述べませんが、サンテルはジョージ・ボスナーという柔術を取り入れたプロレスラーのもとで「着あり」の戦い方を習得し、その後アメリカで野口清(野口潜龍軒)、伊藤徳五郎、三宅多留次、坂井大輔といった柔道・柔術の強豪と戦い、勝利していたのです。ある意味、逆・前田光世ともいえましょう。
庄司彦男には思い出があります。わたしは学生のとき国会図書館で、庄司彦雄・山本千春著『レスリング』(三省堂/昭和6年)を閲覧したことがあります。たしか日本で最初のレスリング書だったと思います。読み進めていくと、アマチュアの技術が文章とイラストで紹介されていたので、ああアマレスの本か、と思いました。ところがです。最後のほうになっていきなり、プロレスリングの世界ヘビー級王者フランク・ゴッチのトー・ホールドが解説されていたため、え? と困惑してしまいました。要するにレスリングとして、アマチュア・レスリングとプロフェッショナル・レスリングが総合的に解説されていたわけですね。
現在はアマレスとプロレスとは全くの別物になりましたが、アメリカのプロレス・オールドタイマーには、プロとアマとを包括してレスリングを語る人も少なくありません。それに英語でWrestlingを検索すると、アマレスもプロレスもヒットします。庄司の感覚もそれと近かったのではないでしょうか。
庄司はサンテルとの戦いの後、政治学を学ぶためアメリカに留学しました。そのときプロレスリングについても知識を深めたといいます。オリンピック志向の八田に対し、庄司はプロレス志向。二人の方向性には違いがあったのです。ただし、八田はプロレスリングに否定的ではありませんでした。年季が入ったプロレスマニアなら、ビル・ロビンソンの来日や鶴田友美(ジャンボ鶴田)のプロレス入りなどで、八田がどれほどプロレス界に貢献したかご存じの方も多いと思います。
そしてこの年、ブリティッシュ・ヘビー級チャンピオンになった私に、ジャパンへ来ないかというオファーがあった。これはジョイント・プロモーションのプロモーターのひとりであったジョージ・レリスコウに、ジャパンのアマチュアレスリング協会会長のハッタ(八田一朗)から連絡があってのものだった。
『人間風車ビル・ロビンソン自伝 高円寺のレスリング・マスター』(ビル・ロビンソン著/エンターブレイン)
ロビンソンが昭和43(1968)年に初来日をしたのは国際プロレスという団体でした。その国際プロレスの社長だった吉原功は、早稲田大学レスリング部の出身であり、八田は吉原のことをずっと支援していたのです。
さてロス五輪の後、庄司と講道館はレスリングから撤退しました。その結果、八田の大日本アマチュアレスリング協会(現・日本レスリング協会)が残りました。創成期の日本のアマチュア・レスリングの歴史に興味のある方は、以下を参照してください。
・「今泉雄策の考えるレスリング」内の〈八田一朗会長以前の日本レスリング史〉
http://yusaku.jp/old/hatta-goroku18.htm
・同 〈八田一朗会長以前のレスリング史U〉
http://yusaku.jp/old/hatta-goroku21.htm
余談ですが、八田一朗は俳人でもありました。わたしが10代のころに初めて買ったアマレスの本に、講談社スポーツシリーズ『レスリング』(笹原正三 著/講談社)があるのですが、その中に、
10年の血と汗にじむ金メダル
という八田の句が紹介されており、加えて「ホトトギス」の同人であることも書かれていました。もっとも、当時は「同人」や「ホトトギス」の意味はわかりませんでしたが……。八田の家は高浜虚子の家と近く、虚子の次男である友次郎とは同級生だったそうで、高浜虚子に師事したのもよくわかります。昭和30(1955)年には句集『俳気』(花鳥堂)を出版。なお、八田の俳句についても「今泉雄策の考えるレスリング」にいくつか記事があります。
・【レスリング回想録】
http://yusaku.jp/shouwa/index.htm
ここまでわたしは夕暮の連作について、アマレスであることを前提に話を進めてきました。でも、一首目に「ヘツドロツク」という言葉が用いられています。これは一般的には、プロレスの技として認識されています。もしもですよ、この歌がプロレス志向だった庄司の団体の試合を詠んだものだとしたら……。二首目の「両足で締めつける」もプロレスのボディ・シザースと思えなくもありません。庄司がアメリカに留学した1920年代のプロレスリングでは、エド・ストラングラー・ルイスとジョー・ステッカーがヘビー級のトップレスラーでした。ルイスの必殺技はヘッド・ロック。ステッカーの必殺技はボディ・シザース。見事に符合します。いずれにせよ夕暮の連作には情報が少ないため、はっきりとしたことは何もわかりませんが、力道山が登場する二十数年も前に「ヘツドロック」が短歌に登場した事実は驚異的です。
漱石がイギリスでレスリングを観てから30年。いよいよわが国でレスリングが本格的に根付いていく様子を、前田夕暮の短歌をきっかけに概観してみました。
(つづく)