2020年10月17日

千春『てとてと』読む 4

 千春の恋と生と死と
    愛と性と詩と そして猫と/くんじろう



 いつだったか、離婚して十数年経った頃に私、くんじろうの長女が尋ねてきた。彼女の瞳は虚で焦点が定まっていない。「少し寝かせて」とふらふらと二階に上がり猫二匹と一緒にぐっすり二時間ほども寝ただろうか。
 「ありがとう」と言ってそれ以外何も言わず帰っていった。そういうことが二、三度あってから、今度は次男から電話。「近頃、お姉ちゃんがお父さんところへ行ってないか?」と。「ああ、時々」と答えると「実は姉ちゃん病気やねん、心の病気や」・・・・・・言葉が出なかった。 
 その頃、川合大祐さんのブログをたまたま拝見した時、ご自分もパートナーの千春さんも「心の病気に向き合っている」云々の事を吐露されていて、思わず娘の病気について、メールをお送りしてしまった。以前からお付き合いはあったのだが、その事がきっかけで更に親しくお付き合いを続けて頂いて今に至っている。
 ある日、千春さんから「作品集を出すので表紙絵を描いて欲しい」とご連絡を頂いた。「喜んでお受けします」ということで「ついては作品集のゲラがあればお見せください」とお願いして、その時はじめて千春さんの作品に触れることになった。
 作品集が発刊され、しばらくして、「川柳スープレックス」に「てとてとの鑑賞文を」とのご依頼を受け、これも喜んでお受けした。お受けしたのであるが、本当に困ってしまった。
 「てとてと」の内容は、それこそ一筋縄の「読み」では鑑賞など出来ない。まず、端緒が見つからない。作品集を幾度か読み直し、更にその混迷は広がる。その混迷の末に、自分の娘の事から始めなければ進まないと思い立った。その事を触れずに千春さんの内面にはたどり着けないと思ったからに他ならない。
 この鑑賞がどういう結果になるか、私自身にも全く先が読めないが、私の感じるまま、思いのままに綴ってゆきたいと思う。以下の文章では敬称略とさせていただく。


  「恋」あるいは「失恋」

     初恋

  女の子なのに
  女の子を好きになった
  ああいい友達だな
  パスタの食器を置いた
  その瞬間
  これは友情ではない
  恋だ

  彼女は
  あの男子格好いいねと
  よく言っていた
  私は初恋と同時に
  失恋をした
  傷をえぐるように
  一緒に習字教室へ通った
  私が男子ならば

  中学卒業と同時に
  別々になり
  でも手紙のやりとり
  数年後
  告白をした
  「あ、そう」
  拒否もせず。
  それだけ。

  年賀状と
  時々のメールのやりとり
  彼女は今、婚活をしている

  十三歳の初恋を忘れない


      ※

  友達に会わないための嘘をつく
         君はほんとは初恋だから


  どきどきと実加子の眠る寺に行く
        同性愛の仲間と共に


      ※

 千春は十三歳で恋をした。そして同時に失恋もしたという。しかし、中学卒業数年後に告白をした。と、いうことは、十三歳の失恋を少なくとも四、五年、あるいはそれ以上の年数、告白もせずじっと「恋」ではなく「失恋」の想いに耐えていたということか。

 短歌に「会わないための嘘をつく」とある。恋の想いが燃え上がるのを一番恐れていたのは千春自身なのだ。「どきどきと実加子」の墓に行く同性愛の友達と。実加子は初恋の相手ではないのか。「同性愛の仲間」たちとの関係も微妙な距離感であるが。

 ここに千春の原点がありそうだ。十三歳での初恋と失恋。実加子の存在。そして「同性愛」への気づき。同性を好きになること自体罪でもなんでもない。ただ千春の悲しみは、初恋の相手に理解されなかったこと、数年後告白をした後も「あ、そう」と取りつく島もない。彼女は「婚活」という最後の言葉で決定的な別れを告げる。
 詩の中の
「拒否もせず。」の「ず。」
「それだけ。」の「け。」
この「。」がとても悲しくて哀れである。


     顔

  あなたが句を書く時
  別人の顔になる
  あなたが野球を見る時
  別人の顔になる 
  あなたがパソコンをいじる時
  別人の顔になる

  
  ぱんって手を叩く

  「あれ、どうしたの千春ちゃん」

  あなたは私のための顔になる


       ※

  赤ちゃんの頃のあなたを知る桜
        私はちょっと嫉妬している

  秋の月浴びてふたりは歩き出す
      燃えないゴミと燃えるゴミ出し

  降りだした雨の匂いで思い出す
        あなたの心嗅ぎわけたとき

  丁寧によろしくというお義母さん
         大祐君は返品しません


       ※

 千春は大祐の事を、主人とかうちの亭主とか、そんな呼び方をしない。よく使うのは「大祐くん」か、「私のパートナー」うん、パートナーが一番よく聞くかも知れない。
 あれっ?彼女は同性愛のはずでは?確かに結婚しているはずだ。結婚という形を保っているはずだ。しかし「顔」の詩は明らかに恋文である。「私(千春)をいつも見ていて欲しい」というラブレターだ。「ぱんと手を叩く」猫だましをしてまで自分を見ていて欲しいと願う。「桜」にまで嫉妬をしている。まことに不思議な二人の関係。決して偽装結婚なんかじゃない。お義母さんに「大祐君は返品しません」と心の呟き。確かに惚れている。しかしそれは夫婦としてであろうか。友達としてであろうか。あくまでも個人の感想ではあるが、大祐の中にある種の「母性」を千春は嗅ぎ分けているのかも知れない。


     着物

  ここ一、二年ひんぱんに
  和服を着るようになった
  窮屈な帯を締めていると
  何かを忘れられそうで
  素敵だと言われると
  何かを忘れられそうで
  ひんぱんに着るようになった

  ここ一、二年よく
  がんばってきたと
  和服を脱ぐとき
  帯を解いて
  ほっとするとき
  よくがんばってきたと
  自分にいいたくなる
  だから
  着るようになった


         ※

  姪っ子をみんなで囲み笑う日の
       猫の気持ちはきっとさびしい

  階段は静かに下りて千春ちゃん
         職場の壁に三ヵ所貼られ


         ※

 女の子を好きになった千春は「私が男の子だったら」と独白したが、この詩に触れると、やはり千春は「女の子」であって「女の子」として「女の子」に恋をしたのではないかとも思う。
 着物を着るには、帯の他に帯締めを含めて何本かの紐が必要となる。彼女のSNSでは、着付けをお習いになってご自分で着ることができるご様子である。私の母は水商売をしていたのでよく和服で出かけていた。その様子は手に取るように想像できる。
 着物を着るという行為は、自分の体を緊縛する作業だとも言える。それは見方を変えると自傷行為にも似ている。着付け慣れると、どこをキツく締めてどこを緩めるのかコツが掴める様ではあるが、私の母は帯をキツく締め上げるのが好みであった。
 千春自身に自傷行為にも似た行為だとの「気づき」があったのかどうかは定かではないが、帯を解いた時の開放感は想像に難くない。「女の子」というより「女性」としての喜びもまた、この詩には漂っている。


     こころ

  トイレ掃除の仕事をしていて
  さみしそうだと思った一輪挿しに
  花を活けてみた
  
  「えっ買っているんですか」
  すごく驚いた人がいた
 
  その人はもう居ないけれど
  その人の笑顔を思い出して
  今日も花を活けてみる


        ※

  ぼわっとした光つつまれ親友の
         出産前後ほんとにきれい

  手で雪のうさぎをつくる南天の
          燃える瞳の安産でした

  嵐の日産まれてきてもいいけれど
        出棺の日は晴れるといいね

  産まれた日親の離婚も雪の日で
        白は何かを知らせてくれる

  父と別れ店を始めた母の手は
        パンの匂いがしみつき温む


        ※

 「トイレの神様」そんな歌があったが、昭和以前から、嫁は「便所掃除」を進んでこなした。「便所を綺麗にしておくと安産になる」という言い伝えがあったから。
 千春はあくまでも「仕事」としてのトイレ掃除を詩にしているのだが、無償の「花」を活ける事によって、気づいてか気づかないかは別として「安産」あるいは「妊娠」という言葉がちらつく。この心情は後の短歌にも繋がる。

 五首のうち一首、二首目は親友の出産を心から喜んでいる気持ちが表現されているが、三首目からは少し様相が変わってくる。
 千春自身の産まれた日と両親の離婚の日も「雪の日」だという。これはおそらく心象風景であろう。それは、彼女がこれから体験していく自らの人生の暗示でもあろう。
 その人生は不幸であるのか幸福であるのか、 
 その答えは出ていない。だって一生とは言えないほどの、まだほんの人生の半ばを過ぎたばかりなのだから。
 その「こころ」の葛藤の中で、母の歌を詠む。彼女を育ててくれた母の手は「パンの匂い」がしみつき暖かいと懐かしむ。その「パンの匂い」は、千春の「こころ」と「からだ」の痛みの鎮静剤でもある。
(詩 短歌 おなかより)



  自愛 あるいは 自滅

  「入ってもいいですか」「いいですよー」ちつ

 ひらがなの「ちつ」は「膣」であり舌打ちの「チッ!」でもある。「入っても〜」「いいですよー」はあきらかに性交の承諾であろう。
 だが、性の悦びでは無い。愛のまぐあいでもない。あくまでも女性としての機能、器官の提供に過ぎない。肌を触れ合うことは嫌いでは無いけれど、性交そのものには嫌悪があり、「しなければ」との思いも滲み出る。それはその「嫌悪」の源に、自身の生理不順と不妊がある。コミカルに詠んではいるが、とても切実なのだ。
  
  不登校とうもろこしの葉が繁る

 「とうもろこし」は「とうもろこしの葉」に包まれて、さらにてっぺんには特有の「毛」が見える。おぼろげに男性性器を示している。
 「不登校」という三文字で当時の年齢、心の闇までも表現して、「異性」に対しての怖れが垣間見える。

  ストーブが無いと私は毛が生える

 寒くなると猫は冬毛になる。冬毛になって寒さから身を守る。「ストーブが無いと」「毛が生える」という。それは作者の身を守る冬毛なのだろうか。あるいは「毛深くなる」の意味を含めると「性転換」とも読める。真実は作者にしか解らない。否、作者さえ解らないのかも知れない。

  中待合室は猫である。わたしも診て。

「中待合室」が「猫」であって「わたし」は明らかに患者である千春。千春は「医師」に診てもらう前に「猫」の体内でじっとしている。「猫」はまた作者自身であって、そこに「医師」は介在しない。「猫」と「わたし」果たして病の正体は。

  母という蛸の壺を行ったりきたり

 「母という蛸の壺」は母の子宮であり、千春はそこを「行ったりきたり」する。作者自身は大人にもなれず軟体動物のまま母へ回帰する。「蛸の壺」で安らげるのであれば帰ればいい。そこで傷を癒してまた暗闇を浮遊すればいい。

  ナプキンの出番がこない月割れる

 生理が遅れる、来ないかも知れない。わたしは「女」であるのに。月は割れて暗黒のはらわたを見せる。原始女性は太陽だった。今ではその太陽でのみ輝く。その恐怖は人間としての「自立」さえ脅かす。「ナプキンの出番」は「自立」あるいは「行動力」であり、そして「鎖」であり「足かせ」でもある。

  女陰には女陰の薬あばれるな

 「女陰」とは作者自身、というより作者の体内に棲む「怪物」あるいは「もののけ」かも知れない。それ専用の薬があるという。それは「怪物」を鎮めるための呪文か。「あばれるな」は体内の「怪物」に。言い換えれば「自分」に対しての「呪文」でもあろう。

  いやけれどいつかウンコになってゆく

 「いやけれど」は「そう仰いますが」で「ウンコ」になってゆくのは「自然の理」である。作家は作品を吐く。いや排泄すると言ってもいい。どんなに努力したって、どんなに苦しんだって所詮「ウンコ」なのだ。千春は「ウンコ」を排す、とは詠まず「なってゆく」という。直訳すれば「そう仰いますがわたしは所詮ウンコになってゆく定めなのです」と言っている。「千春」という個体が咀嚼されて「排泄物」になってゆく。それはまさに、自分の足を食らう蛸そのものである。

  お風呂場のおしっこの吐息

 「子供」である。本来おしっこをする場所ではないところで。しかし、シャワーを浴びながら「大人」だってそういう衝動に駆られる。あるいはそれが「常識」だと言うなら、常識を破っていいじゃないか。さほどの罪でも無いとは思われるが、やはり吐息が漏れる。
 「尿意」と「お風呂場に漂う悪意」「おしっこの吐息」はおしっこをした「わたし」の吐息では無い。「おしっこそのものの吐息」であってふわっと臭いまで漂う。写生句である。

  いい結婚ってなんだろうレシートが溜まる

 作者は「結婚ってなんだろう」と問わず「いい結婚ってなんだろう」と問う。この問いは世間一般の常識に問うているのでは無い。自分の内面の「結婚」に対する価値観にである。しかし、この句を吐いた途端に、千春にはその答えが見えている。「レシート」は日常そのもの。この「レシート」は「溜まって」いるのであって家計簿などに貼って整理されているわけではなさそうだ。いつの間にか財布の中やキッチンの棚などに「溜まる」のである。整理するつもりで残してあるものが溜まるのである。それは日常の澱のようなモノであったり、二人の存在証明でもある。
 千春と大祐は、お互いにパートナーを求めている。ある目的に向かって進んでいる「戦友」なのかも知れない。「レシート」を見ながら「自分は良い妻なのか」と迷うことも無いでは無いが、パートナーは「良い妻」など求めてはいない。二人は傷つき何度も倒れながらお互いを抱き起こし、また前へ進む。ひょっとしたら「レシート」は戦士が放った銃弾の空薬莢のように床に散らばっているのかも知れない。
(川柳「ひげ」より)



  ・・・・ そして乳房
  
  初恋の人はみずうみ生理中

 千春の恋は、やはり作品に深く投影される。そして、恋人が同じ性ゆえにその思いやりの表現も生々しい。その事が川柳の質を高めている。女性はよく海に例えられる。確かに海は生命の故郷であって今地球上に存在する生物の全ては海から生まれた。「海」は「産み」と同義語だとも言える。
 「みずうみ」もまた「うみ」であるが、その世界は海に比べて限定的である。「みずうみ」には「うみ」になりきれぬ想いが隠されている。「恋人」は「みずうみ」で「生理中」だと言う。どこかはかなくて、叶えられぬ恋模様が狂おしい。

  触れた手のしろさしろさを振りほどく

 「しろさしろさ」がとても透明な表現である。漢字の「白」ではなくひらがなの「しろさ」のリフレインが痛いほど迫ってくる。その「触れた手」を振りほどく仕草がさらに痛い。この句もまた、同性への想い、別れの辛さが溢れ出ている。

  猫は浮かない

  猫は研がない

  猫はうまない

  猫は根づかない

  猫はよみがえらない

 五行詩である。これもまた川柳の「かたち」である。「猫」は水を嫌う、水に落ちると溺死するかも知れない。「猫」は爪を研ぐ前に爪を切られてしまう。「猫」は避妊手術を施され生む事は無い。「猫」はたまに宇宙へ行ったように帰らないし、誰の持ち物にもならない。「猫」は七度生まれ変わると言うが、目撃したものは誰もいない。読みながら、ふと「猫」と「千春」を入れ替えて読んでみた。あっ、そうか。やはり「猫」は千春そのものだったのだ。

  時間になる母にも樹にもなれない

 「時間になる」はどう読むべきか。「時間そのものになる」と読むのか「制限時間が来ましたよ」と読むべきか。「母」になることが出来ないまま、まして「樹」にもなれないまま、私(作者)はすでに「時の放浪者」と化している。やがて「化石の森」に同化して思考さえ止めてしまうのか。

  腐臭が漂う私の体からヒトデ

 気づかないうちに、私(作者)の中に何か得体の知れないものが蠢いている。いや、気づかないふりをしている間に、それが確信となって、腐臭となって私を恫喝する。ある時、私の中から、のそっとヒトデが這い出してきた。私はもはや空蝉の如く・・・。カフカの臭いを漂わせてシュールである。

  おっぱいに触れているとき昼の闇

 おっぱいに触れるのは作者自身。自慰行為であろう。少し汗ばんで真昼にも関わらず深い闇へと落ちてゆく。「闇」とは罪の意識なのか。「乳房」とは言わず「おっぱい」と言う。自分の乳房に触れながら、母のおっぱいを想い、やがては同性のおっぱいに憧れる。何度も言うが、そのこと自体まったく罪では無い。闇から抜け出す道具は、自分の笑い声かも知れない。

  PMSおっぱいが大きくなり洗いにくい

 PMSとは、月経前症候群のことで月経に関して周期的に体や精神に不調をきたすことをいい、月経が始まるとその症状は消えるとか。その「PMS」を上五の位置に据えて「おっぱいが大きくなり洗いにくい」と言う。さて「PMS」のせいであろうか。自分の性に対する嫌悪も含まれていて。にも関わらず、自分の性を愛おしくとも思うのだ。不思議な味わいがある句。
 
  恋人と友の区別がつかぬ風呂

 「恋人」と「友」と区別がつかないと言う。
 裸になって風呂に入っているのに。そんなことがありえるのか。最初パートナーとの風呂で「この人は恋人?それとも友?」との感慨を詠んだと理解したのだが、千春の場合はそこに同性との恋慕が加わる。それはむしろ表現の広さであって決してマイナスではない。いろんな恋があって豊かなのだ。

  こんばんは潮騒は足りていますか?

 海辺の民宿に泊まって、潮騒が聞こえて来るだけでなんとも心地よい。そんな潮騒を楽しみにしている観光者に「潮騒が足りていますか?」と聞いているのであろうか。あるいは恋人同士が砂浜を歩いていてBGMとして「足りていますか?」と余計なお世話をしているのだろうか。ひょっとして、その質問は「海」に向けて投げかけられたものかも知れない。
 鏡のように凪いだ海に何かが足りない。それは「潮騒」だったと。それを「海」そのものに問うている、と言う読みも成立するのではないかと思う。

  バス停で待っててくれた猫のてと

 「てと」は千春の愛猫の名前である。「てと」への思い入れは相当なものである。作品の中で、ある時は「猫」として登場し、またある時は「千春」と同化して登場する。バス停で自分の帰りを待ってくれていた「てと」どんなに愛おしい存在か。それが辛かった仕事帰りや病院の帰りだったとしたらなおさら。「てと」の与えてくれる癒しは「生きがい」そのものでもある。そして「バス停で待って」とは、まさに「パートナーを待つ千春」の姿でもある。
          
(川柳・しっぽより)



  「てとてと」を読んで。

 NHKのEテレで「性」についての番組があった。哺乳類、特に人間は染色体XXの女性とXYの男性の2種類だとされていたがそうでも無いらしい。極端に言うとXがひとつの女性もYが無い男性も存在すると。それも外見では分からない。男らしい人に案外Yがなかったりするとか。実はこれ奇形でも遺伝情報の異常でもなんでも無いらしい。それもずいぶん昔から存在していたとか。分類に分けるとすると(個々の個性なので分ける必要もないが)「女らしい女」「女」「男っぽい女」「女っぽい男」「男」「男っぽい男」となる。この分類を「性スペクトラム」と言うとか。文化や環境でそうなるのではなく、あくまでも遺伝情報の上であると。例えば、髭の濃い女性、体毛の無い男性。ゴツゴツとした女性、ふっくらとした男性など。外性器や内性器の形も千差万別でそれぞれ皆違う形をしていると。同性を好きになったり、自分の性に違和感を持つ事は異常ではない。性同一性障害と呼ばれるが、それが果たして障害なのか?将来自由に性が選べる時代がくるかも。
 さらにショッキングな話は、やがてY染色体は消滅する、と言う話。元々X染色体とY染色体は同じ長さであったものが今現在Y染色体はX染色体の半分の長さしかないとか。傷つきやすいY染色体は子孫に受け継ぐにつれて傷つきだんだんと短くなってきたとの話であった。受胎せずに子孫を増やしていく方法を人類は手にするかも知れないし、もはや恋愛は子孫を残すための行為だけでは無い時代になっているのだ。

 同性愛、異性愛。その差は微々たるもので大切な事は誰かを恋し、愛して、大切にするという行為であって、他人を傷つけること、自分を傷つけることが一番許されない。また外見で差別したり、少数派だと言うだけで排除したりする事のいかに知性のない所業か。人類、いや生命体は多様性がある事によって地球上で生き残っているのだと、そろそろ解っていい頃なのだが。

 千春は自分の性の有り様について、自分の心の病について、作品を通して馬鹿正直なほどに告白し、自分に対峙した。その結果、その作品のほとんどに既視感の全くない自分の世界だけを表現した。しかし、共感を否定した訳ではない。やはり誰かに、読者に、その想いが伝わる事を切に願っている。
 千春もまたひとりでは存在しないのだ。

  千春ちゃん今日をいっぱい浴びなさい

 千春本人の句である。
posted by 飯島章友 at 23:45| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月09日

川柳雑誌「風」118号/第21回風鐸賞正賞 本間かもせり

川柳雑誌「風」第118号
編集・発行 佐藤美文

今号は第21回風鐸賞の発表号でした。十七字と十四字の10句、どちらで書いても応募できる「風」誌の年間賞です。今回の正賞は本間かもせり、準賞は伊藤三十六と森吉留里惠、選考委員は成田孤舟、津田暹、新家完司、雫石隆子、木本朱夏の各氏。

受賞作を少し引用させていただきます。

 どのページにも待つ人がいる  本間かもせり
 逃げて逃げてと叫ぶ天気図
 となりの窓も窓を見ている
 二、三歩先を歩き出す季語

 
 片仮名の海に漢字を投げてやる  伊藤三十六
 人を食うことにも飽きた大欠伸

 メビウスの輪の見せぬハラワタ  森吉留里惠
 寂しくなると飛ばすミサイル

かもせりさんの句は、ただごと句、教訓句、老いの嘆き句といった、各川柳吟社で量産されている書き方におもねらない着眼点の良さと想像力があって、納得の正賞です。かもせりさんは、短句(「風」誌でいう十四字詩)を知ってもらいたいと積極的にTwitterなどで活動してこられた方です。いわば「公」の意識をお持ちの方です。かもせりさんには遠く及びませんが、わたしも世間に短句を知ってほしいと願っている一人なので、今回の報はまるでじぶんのことのように嬉しいのであります。

なお伊藤三十六さんはリアルで何回もお会いしていますが、とてもおもしろいおじ様です。森吉留里惠さんは『十四字詩句集 時の置き文』を発行されていて、こちらは電子書籍で読むことができます。

つぎに会員作品「風鐸抄」の十四字詩も引用させていただきます。

 耳に住み着く虻が百匹  坂本嘉三
 感染減らず揺れる吊り革
 梅雨が居座る家系図の中
 春の小川を慕う血管


先述したただごと句、教訓句、老いの嘆き句の流れに巻かれない書き方で注目しました。背景に老いの嘆きがあったとしても、それを川柳として「表現」なさっている。こういう方を見逃さないことがじぶんの役目だと思ったりしているのです。
posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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