夏休み永遠が待つ鳥のふん
「夏休み/永遠が待つ/鳥のふん」と3つのパートからなる句としても捉えられるが、「夏休み/永遠が待つ鳥のふん」と読んでみた。「永遠が待つ鳥のふん」とは何だろう。わたしのばあい、鳥による種子散布を思い出した。鳥が果実などを食べたあと、消化されなかった種子は糞をつうじて散布される。その種子が果実を実らせれば、また鳥が来て種子散布をしてくれる。すなわち「鳥のふん」には「永遠」という可能性が宿っており、「永遠が待」っている。
「夏休み」と「永遠」。この二つはよくタッグをよく組む。〈永遠の夏休み〉なんて歌や本のタイトルでいかにもありそうではないか。けれど掲句は「夏休み/永遠が待つ鳥のふん」として、安易な馴れ合いをつくらない。加えて、最後に永遠を「鳥のふん」で入念にコーティングし、夏休み+永遠がかもし出すキラキラしさをきちんと回避している。土俵際で見事にふんばった句と言えるだろう。
いやけれどいつかウンコになってゆく
たとえば松茸となめ茸には動かしがたい価値の優劣こそあるが、食ってしまえば一緒だ。また、高校時代に偏差値が30台だった飯島章友と財務省のエリート官僚の価値だって、怪物に食われれば胃のなかでは一緒だ。そういう警句として読める。だが川柳では、教訓めいた内容は「道句」(みちく)として好まれない。ならばこのように教訓性をウンコでコーティングするしかないのである。
掲句は本作品集の中でもとりたてて佳句というわけではない。されど、ああこれが川柳だ、と強く感じさせてくれた。根性のねじ曲がったわたしの印象論ではあるのだけど、短歌や俳句の書き手はあまりこういう表現をしない。いやこういう表現を選択しない人が短歌や俳句へ行くのかも知れない。掲句の方向を突き詰めていくことで将来、定金冬二の「一老人 交尾の姿勢ならできる」のような川柳を生み出せたなら、柳人として最高に幸せだと思う。
水をやるあけっぱなしの国語辞書
ウンコの句が続いたからというわけではないが、最後はウンコなしの川柳を。「国語辞書」という〈花壇〉に毎日水をやる。やがて収録されている個々の言葉たちが発芽して成長し、花を咲かせるのだが、そこに思いがけない花の取合せが生じて、句や詩や歌をなすことがあると思う。
『MANO』17号の樋口由紀子「飯島晴子と川柳」からの孫引きだが、俳人の飯島晴子がこんなことを書いているそうだ。「言葉が現れるとき」という評論だ。
眼前にある実物をよくよく目で見て、これは赤いとか、丸いとか、ああリンゴであるとか、とにかくなるべく実物に添って心をはたらかしてしらべる。そして、知ったこと、感じたことを他人に伝えるために、自分の内部ではなく、公の集会場の備えてある言葉の一覧表、とでもいうような種類の言葉の中から言葉を選んで使う、というやり方である。対象となる事物が、観念や情感に代っても事情は同じである。私にとってこれ以外の言葉のとらえ方があろうとは思ってもみなかった。
(中略)
それが俳句をつくる作業のなかで、言葉を扱っていていつからともなく、言葉というもののはたらきの不思議に気がついた、言葉の偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを体験した。
掲句も「公の集会場の備えてある言葉の一覧表」=「国語辞書」の言葉たちが発芽して花を咲かせ、「言葉の偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないもの」=「句・詩・歌」が生まれることを願っているかのように、わたしには思えた。
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