広瀬さんの「貼り紙は『しばらくドアを休みます』」は、どうしても今の時期が思い起こされます。去年から緊急事態宣言が繰り返し出され、飲食店の入口に「しばらく休業」のお知らせが貼られているのをよく見かけます。でも掲句では、店ではなくドアを休むのだという。え、ドアって職業だっけ? 一瞬本気で確認する自分がいるのです。まず上五に「貼り紙は」を置き、あたかも店の休業っぽさを醸し出しているところが作者の腕と言えるでしょうか。
野間さんの「裏漉しの続きをキルケゴールする」のばあい、キルケゴールがどのような人物かを調べたところで句意は取れないと思います。いやむしろ下手に知識があると、読みが無限のこじつけゲームになってしまうのではないでしょうか。だからと言って、キルケゴールが無意味なことをもって価値があると見なすこともできません。それでいいのだったら、川柳の自動生成装置が無作為に作句したものでもいいことになってしまうでしょう。この句は、裏漉しの続き→キルケゴールする、という表現によって読み手の感情に波紋を起こせるかどうかの冒険を行っているんだと思います。あくまで野間幸恵という一人称を保持したまんまでね。
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「Picnic」3号における野間幸恵さんの巻頭言は、「5・7・5を企む『Picnic』」と題されています。前半を引用してみます。
俳句を書きだして、かなり早い時期から言葉で景色を書くのではなく、言葉の景色を書くという意識になっていきました。それは言葉の関係だけに集中すると、575から異質な世界が現れたり、言葉が全く違う表情になるという、嘘のような偶然の積み重ねによります。
別のところで広瀬ちえみさんや樋口由紀子さんもこれと同じようなことを書いていました。言葉の関係しだいで「575から異質な世界が現れる」「言葉が全く違う表情になる」というのは、わたしも作句や読みの過程でたびたび経験してきました。そのたびに思い出す思想家がいます。イギリスの
マイケル・オークショットです。ここで少しオークショットの思想について簡単に触れてみましょう。
オークショットという人は、「知識」の種類をふたつに分類しました。ひとつは「技術知」、もうひとつは「実践知」です。技術知というのは、定式化して教えることができる知識のことを言います。たとえば川柳で言えば、入門書や通信コースで教えられる知識がこれにあたるでしょうか。
それに対して実践知というのは、文字どおり実践的な行為・行動・伝統・慣習などをつうじ、無自覚に体得していく知識のことです。なので、こちらは定式化ができず教えられません。暗黙的な知識です。実践知は川柳活動においてとても大切です。何回も何回も入門書を読んだ人が句会で特選をとったり、一句鑑賞に取り上げられる川柳を作れたりするかと言ったら、必ずしもそうではないでしょう。ようするに創作においては、技術知だけでなく実践知も必要になってくるのです。
この実践知(実践的知識)という領域は、スポーツ選手、プロの料理人、寄席芸人、また誤解をおそれずに言えば医者など、技芸をつきつめる世界に生きる人ならば、痛いほどよく分かるのではないかと思います。オークショットは、そんな実践的知識(および自由主義社会)のモデルとして「会話」を想定していました。わたしは、前掲の野間さんの巻頭言を見て、オークショットが述べる会話論を想い浮かべたのです。会話と短詩は、じつは似ているのではないか。以下、オークショットの会話論を引用しつつ、それを「現代川柳の読み」と重ね合わせてみたいと思います。( )内は飯島が付けました。
適切に言うなら、話言葉(句意)の多様性がなければ会話(現代川柳の読み)は不可能である。即ち、その中で、多くの異なった言葉(句意)の世界が出会い、互いに互いを認めあい、相互に同化されることを要求もされず、予測もされないような、ねじれの関係を享受することになる。
マイケル・オークショット著『政治における合理主義』(勁草書房)所収、「人類の会話における詩の言葉」(田島正樹訳)
会話が弾むためには、ある一つの観点(たとえばイデオロギーなど)から一つの結論にいたるようなことはなるべく避け、いろいろな文脈が交わっていたほうがいい。同じことが現代川柳の読みにも言えるのではないでしょうか。そもそも現代川柳は、言葉が欠落しているため文として不完全だったり、一見無関係な言葉と言葉が五七五の中で出合っていたりするわけですから、ある一つの句意に収めることは不可能です。ですから現代川柳の読みでは、人それぞれの読み方が交わり、相互に同化されないことが大切だとわたしは思うのです。
でも、一つの句意に収まらない川柳など無意義ではないか。そう思う人は少なくないと思います。確かに時事川柳などは、社会の役に立つために明確な意味を書くジャンルかも知れません。でもわたしは、時事川柳とて必ずしも句意が一つに収まるとは思いません。たとえば宮内可静の「老人は死んでください国のため」はどうでしょう? ここで再びオークショットを引用してみます。同じく( )内は飯島です。
会話(現代川柳の読み)においては、参加者達は、研究や論争にかかわるのではない。そこには、発見されるべき「真理」も、証明されるべき命題や、めざされるいかなる結論もない。
(中略)
また、会話(現代川柳の読み)の中で語る言語(読みの観点)は序列を型づくりはしない。会話(現代川柳の読み)は決して、外的な利益を産み出すべくくふうされた企てでもないし、賞をめぐって勝ち負けを争う競技でもなく、また、経典の講釈でもない。それは、臨機応変の知的冒険なのだ。
同上
臨機応変の知的冒険! 現代川柳の読みを表す言葉としてこれ以上のものはないかも知れません。たとえば俳句や短歌、既成川柳、時事川柳には入門書がありますが、現代川柳(ここでは木村半文銭―中村冨二―石部明といった系譜)の入門書はほとんどありません。それは、現代川柳がとことん「実践知」の文芸だからではないでしょうか。
現代川柳は定式がない文芸なので、正直言ってわたしのようなごく普通の人は、どう書いたらいいかが分からず、どう読んだらいいかも分からず、苦しむことが多いんです。でも、それと同時に、自作を推敲したり他者の作品を味わったりするとき、定式がないその分だけ臨機応変の知的冒険を楽しんでもいるのですよ。
この臨機応変の知的冒険が、野間さんの言う「575から異質な世界が現れたり、言葉が全く違う表情になるという」こととつながっている気がしてなりません。
(おわり)