2021年08月31日

飯島章友句集『成長痛の月』が出ます

タイトル:成長痛の月
著  者:飯島章友
発 行 所:合同会社素粒社
発 行 者:北野太一
デザイン:北野亜弓

なんと! わたくし飯島章友が2021年9月15日に川柳句集『成長痛の月』を発行します。帯文は歌人の東直子さんにお願いしました。各章は以下のとおりです。

みず
少年たちの九十九折
芽キャベツの乱
未明のパーツ
スクールデイズ
猿の星
句意を刈り取れ/レトリカを行く
世界の水平線
シニフィアン・シニフィエ
一銭一句物語

川合大祐さんの『リバー・ワールド』や湊圭伍さんの『そら耳のつづきを』と時期的に近くなりましたが事前に3人で申し合わせた、わけではないんですよ。

作句をはじめてから12年経っての出版は、もしかしら遅いくらいかもしれませんね。でも、なにせ現代川柳の世界は荒野です。他のジャンルに比べると詩形が見えづらく、インフラも未整備。そんななか、文字どおり手探りでやってきたのが12年という歳月だったように思います。

Amazonではすでに予約が始まっているようです。どうぞよろしくお願いします。

成長痛の月 - 飯島章友
成長痛の月 - 飯島章友
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2021年08月16日

湊圭伍著・現代川柳句集『そら耳のつづきを』を読む


現代川柳句集『そら耳のつづきを』
著 者:湊圭伍
発 行:2021年5月26日
発行所:書肆侃侃房

靴音から遙かに閉じゆくみずうみ

そら耳のつづきを散っていくガラス

手のひらの穴から万国旗をのぞき

きみの死をぜんぶ説明してあげる

くちびるを捲って遠い火事をみせ

帝王を折檻にゆくはらたいら

拍手した手がふっくらと焼き上がる

火葬場の火からウナギの話題へと

寝返りを打つと渚がちかくなる

意味なんてあればあったで寝てしまう


湊圭伍さんの第一句集『そら耳のつづきを』が出ました。わたしと湊さんは、2009年から柳誌「バックストローク」に投句を開始しました。その後「川柳カード」を経て、現在も「川柳スパイラル」で一緒なのですから、言ってみれば「同じ釜の飯を食ってきた」間柄です。

とは言え、当時の湊さんは俳句や現代詩を通過してきたからかも知れませんが、五七五(前後)の長さで表現する力量がわたしよりもありました。ずっと短歌をやってきたわたしではありますが、川柳は下の句のない短歌みたいなもの。その短さには正直、困惑するばかりだったのです。東京2020オリンピックのあとだからでもないのですが、当時のわたしをレスリングになぞらえるなら、上半身も下半身も自由に攻撃してよいフリースタイル・レスリングだけやってきた人が、下半身を攻撃してはいけないグレコローマン・レスリングを始めたようなものなのです。

五七五に四苦八苦していた当時のわたし。他方、湊さんは、2010年3月7日の週刊俳句【川柳「バックストローク」まるごとプロデュース】(バックストローク30号)、2011年4月9日の「第4回BSおかやま川柳大会」での選者(バックストローク35号)、同年9月17日の「バックストロークin名古屋シンポジウム」でのパネラー(バックストローク36号)、短詩サイト「s/c」での「川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞」など、新人ながらその句作センスと批評力にみあった役目が与えられ、みごとその期待にこたえていたのでした。こうして文章で記すだけだと何とも簡単ですが、リアルタイムで見た者からするとまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。現代川柳界に出現した新星でありました。

湊さんのご活躍は本人の力もさることながら、当時の川柳環境にも後押しされたのかも知れません。句集の「あとがき」を読んでそう思いました。彼が所属していた「バックストローク」や「川柳結社ふらすこてん」の主要メンバーは、石部明・石田柊馬・くんじろう・筒井祥文・樋口由紀子・小池正博・きゅういち・吉澤久良・兵頭全郎の各氏を見てもわかるように西日本の柳人たちでした。当時の湊さんは近畿在住。こうした気鋭の柳人たちとじかに交流し、刺激を受けることで、川柳の実践知をみるみる吸収していったのであろうことは想像に難くありません。

一方のわたしは東京者であり、バックストロークに似た作風のグループが関東になかった関係で、しばらくは一人で句作をする環境でした。でもやがて、当時こちらにいた江口ちかるさんと出会い、「かばん」に川合大祐さん・千春さん・柳本々々さんが入会してきたことで、徐々に環境が変化していきます。さらにこのブログを通じて全国の柳人の皆さんとの交流も増え、いまでは日々刺激を受けつづける毎日です。

いまこの文章は、昔話を楽しむような感覚で書いています。湊さんとわたしがバックストロークに投句を始めてから12年。その月日の流れを想うと、彼の第一句集が出たことは本当に感慨深い。

意味なんてあればあったで寝てしまう
この句、じつは暗唱できるくらい気に入っているのですが、以前読んだ川柳評論に書いてあった警句かな、くらいに思っていました。それが今回『そら耳のつづきを』を読んで、そっか湊さんの川柳だったんだ! と嬉しくなりました。〈中八がそんなに憎いかさあ殺せ〉(川合大祐)と同じくらい示唆に富んでいると思います。ホント、みんなにこの句を暗唱してもらいたいです。

火葬場の火からウナギの話題へと
このあたりは所謂「伝統川柳」的な興趣があります。でも、いまはこういう不謹慎さを含んだ伝統川柳を見る機会が少なくなりました。みんなもっと不謹慎になれ。

帝王を折檻にゆくはらたいら
こういう一見狂句風な川柳も湊さんは書きます。他にも〈おい思想だな〉というのもあり、こちらは一行詩のような風采ですね。川柳の可能性をを楽しんでいるな、とわたしも愉しくなりました。

くちびるを捲って遠い火事をみせ
最初は〈ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺〉(塚本邦雄)を思い起こしたのだけど、すぐに塚本の短歌とは趣きが全然違うことに気づきました。むしろ〈雑踏のひとり振り向き滝を吐く〉(石部明)に近くて、川柳的な茶目っ気を感じます。

そら耳のつづきを散っていくガラス
「そら耳のつづき」→「散っていくガラス」の展開が抜群に上手い! ここでの「そら耳」は絶対動かしたくありません。そら耳という過誤につづいて舞い散るガラス。今の時代・今の人間ともシンクロしている気がします。ガラスが散ることでいうと、〈一斉に都庁のガラス砕け散れ、つまりその、あれだ、天使の羽根が舞ふイメージで〉(黒瀬珂瀾)が有名ですが、湊さんの掲句も忘れられない川柳になりそうです。
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2021年08月05日

「Picnic」No.3 A

広瀬さんの「貼り紙は『しばらくドアを休みます』」は、どうしても今の時期が思い起こされます。去年から緊急事態宣言が繰り返し出され、飲食店の入口に「しばらく休業」のお知らせが貼られているのをよく見かけます。でも掲句では、店ではなくドアを休むのだという。え、ドアって職業だっけ? 一瞬本気で確認する自分がいるのです。まず上五に「貼り紙は」を置き、あたかも店の休業っぽさを醸し出しているところが作者の腕と言えるでしょうか。

野間さんの「裏漉しの続きをキルケゴールする」のばあい、キルケゴールがどのような人物かを調べたところで句意は取れないと思います。いやむしろ下手に知識があると、読みが無限のこじつけゲームになってしまうのではないでしょうか。だからと言って、キルケゴールが無意味なことをもって価値があると見なすこともできません。それでいいのだったら、川柳の自動生成装置が無作為に作句したものでもいいことになってしまうでしょう。この句は、裏漉しの続き→キルケゴールする、という表現によって読み手の感情に波紋を起こせるかどうかの冒険を行っているんだと思います。あくまで野間幸恵という一人称を保持したまんまでね。

 ◆ ◆ ◆

「Picnic」3号における野間幸恵さんの巻頭言は、「5・7・5を企む『Picnic』」と題されています。前半を引用してみます。

俳句を書きだして、かなり早い時期から言葉で景色を書くのではなく、言葉の景色を書くという意識になっていきました。それは言葉の関係だけに集中すると、575から異質な世界が現れたり、言葉が全く違う表情になるという、嘘のような偶然の積み重ねによります。

別のところで広瀬ちえみさんや樋口由紀子さんもこれと同じようなことを書いていました。言葉の関係しだいで「575から異質な世界が現れる」「言葉が全く違う表情になる」というのは、わたしも作句や読みの過程でたびたび経験してきました。そのたびに思い出す思想家がいます。イギリスのマイケル・オークショットです。ここで少しオークショットの思想について簡単に触れてみましょう。

オークショットという人は、「知識」の種類をふたつに分類しました。ひとつは「技術知」、もうひとつは「実践知」です。技術知というのは、定式化して教えることができる知識のことを言います。たとえば川柳で言えば、入門書や通信コースで教えられる知識がこれにあたるでしょうか。

それに対して実践知というのは、文字どおり実践的な行為・行動・伝統・慣習などをつうじ、無自覚に体得していく知識のことです。なので、こちらは定式化ができず教えられません。暗黙的な知識です。実践知は川柳活動においてとても大切です。何回も何回も入門書を読んだ人が句会で特選をとったり、一句鑑賞に取り上げられる川柳を作れたりするかと言ったら、必ずしもそうではないでしょう。ようするに創作においては、技術知だけでなく実践知も必要になってくるのです。

この実践知(実践的知識)という領域は、スポーツ選手、プロの料理人、寄席芸人、また誤解をおそれずに言えば医者など、技芸をつきつめる世界に生きる人ならば、痛いほどよく分かるのではないかと思います。オークショットは、そんな実践的知識(および自由主義社会)のモデルとして「会話」を想定していました。わたしは、前掲の野間さんの巻頭言を見て、オークショットが述べる会話論を想い浮かべたのです。会話と短詩は、じつは似ているのではないか。以下、オークショットの会話論を引用しつつ、それを「現代川柳の読み」と重ね合わせてみたいと思います。( )内は飯島が付けました。

適切に言うなら、話言葉(句意)の多様性がなければ会話(現代川柳の読み)は不可能である。即ち、その中で、多くの異なった言葉(句意)の世界が出会い、互いに互いを認めあい、相互に同化されることを要求もされず、予測もされないような、ねじれの関係を享受することになる。

マイケル・オークショット著『政治における合理主義』(勁草書房)所収、「人類の会話における詩の言葉」(田島正樹訳)

会話が弾むためには、ある一つの観点(たとえばイデオロギーなど)から一つの結論にいたるようなことはなるべく避け、いろいろな文脈が交わっていたほうがいい。同じことが現代川柳の読みにも言えるのではないでしょうか。そもそも現代川柳は、言葉が欠落しているため文として不完全だったり、一見無関係な言葉と言葉が五七五の中で出合っていたりするわけですから、ある一つの句意に収めることは不可能です。ですから現代川柳の読みでは、人それぞれの読み方が交わり、相互に同化されないことが大切だとわたしは思うのです。

でも、一つの句意に収まらない川柳など無意義ではないか。そう思う人は少なくないと思います。確かに時事川柳などは、社会の役に立つために明確な意味を書くジャンルかも知れません。でもわたしは、時事川柳とて必ずしも句意が一つに収まるとは思いません。たとえば宮内可静の「老人は死んでください国のため」はどうでしょう? ここで再びオークショットを引用してみます。同じく( )内は飯島です。

会話(現代川柳の読み)においては、参加者達は、研究や論争にかかわるのではない。そこには、発見されるべき「真理」も、証明されるべき命題や、めざされるいかなる結論もない。
(中略)
また、会話(現代川柳の読み)の中で語る言語(読みの観点)は序列を型づくりはしない。会話(現代川柳の読み)は決して、外的な利益を産み出すべくくふうされた企てでもないし、賞をめぐって勝ち負けを争う競技でもなく、また、経典の講釈でもない。それは、臨機応変の知的冒険なのだ。
同上

臨機応変の知的冒険! 現代川柳の読みを表す言葉としてこれ以上のものはないかも知れません。たとえば俳句や短歌、既成川柳、時事川柳には入門書がありますが、現代川柳(ここでは木村半文銭―中村冨二―石部明といった系譜)の入門書はほとんどありません。それは、現代川柳がとことん「実践知」の文芸だからではないでしょうか。

現代川柳は定式がない文芸なので、正直言ってわたしのようなごく普通の人は、どう書いたらいいかが分からず、どう読んだらいいかも分からず、苦しむことが多いんです。でも、それと同時に、自作を推敲したり他者の作品を味わったりするとき、定式がないその分だけ臨機応変の知的冒険を楽しんでもいるのですよ。

この臨機応変の知的冒険が、野間さんの言う「575から異質な世界が現れたり、言葉が全く違う表情になるという」こととつながっている気がしてなりません。
(おわり)
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2021年08月03日

「Picnic」No.3 @

Picnic No.3
編集:野間幸恵・石田展子
定価¥1000

かたち良きくちびる残すギリシャかな  大下真理子
スプーンは遠い国から来たようだ  樋口由紀子
ガムテープ顔の上には顔があり  〃
週三で通う段差ダンサーズ  榊陽子
朝死が眩しい行ってみようか  〃
蓮根を食べると穴の味がする  月波与生
錠剤になった幸せそうな人  〃
覚めながら裂けながら書く手紙かな  岡村知昭
牛乳や行方不明の語られず  〃
数学の苦手な人も噛むパセリ  中村美津江
貼り紙は「しばらくドアを休みます」  広瀬ちえみ
さみしさになる永遠のハンモック  野間幸恵
山羊座など後ろが開くワンピース  〃
底冷えのビルなり絶対音感  〃
裏漉しの続きをキルケゴールする  〃


7月に「Picnic」の3号が出ました。今回の参加者は15名。どのような集まりなのか私もよく分かっていないのですが、五七五という共通項をもとに、俳人や柳人の区別なく集まった同人誌のようです。

また、これもよく分からずに言うのですが、参加者の皆さんは俳句や川柳の主流派(と何となく見なされているもの)と書き方が違っているように思えます。だからこそ、こうしてジャンルの区別なく集まれるのかも知れませんね。

ここでいくつか句を見てみましょう。樋口さんの「ガムテープ顔の上には顔があり」、何だか奇妙な情景ですね。でも、阿部寛や松重豊といったノッポの俳優さんが出ているドラマでは、縦のツーショットを見かけることがあります。つまり「顔の上には顔があ」るわけです。特定の条件がなくては生じない「顔の上には顔」ではありますが、ガムテープという庶民的な小道具があることによって、ごく日常的な風景に思えてくるから言葉って不思議ですよね。

榊さんの「週三で通う段差ダンサーズ」ですが、じつは以前テレビ朝日の「タモリ倶楽部」の中で、タモリさんが先んじてこのシャレを使っていました。けっこう昔の放送です。その回ではたしか、東京は世田谷の明神池跡をタモリ一行が訪ねていました。検索してその場所を見れば分かるのですが、そこは池の跡地だけに少々低くなっていて、階段で降りるようになっています。その高低差に萌えを感じたタモさんが、俺は段差好きのダンサーっすから、みたいに言っていたのですよ。だから正直言うと、掲句のその部分に関してはネタバレして読んだのです。でも、段差ダンサーズに「週三」で通うのがおかしくて思わず笑ってしまいました。段差ダンサーズって音感も映画のタイトルになりそうでおもしろい。ちなみにわたしも国分寺崖線・湧水好きのダンサーである。

月波さんの「蓮根を食べると穴の味がする」ですが、ザ・川柳という感じがして、とても嬉しくなります。読みの可動域において格差がある川柳界ではありますが、この句はどんな層の柳人でも味わえるのではないでしょうか。尤も、どんな層でも味わえると言ったばあい、川柳界では一読明快な句を指します。それは実際のところ「言われなくても知ってます」という平板句であることが多いのだけど、月波さんのこの句は一読明快でありつつも平板ではないですよね。このセンスが今の大吟社の川柳に少なくなっていると思うのです。
(つづく)
posted by 飯島章友 at 07:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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