発行人:清水かおり
編集室:山下和代
「川柳木馬」の第170号が発行されました。まずは会員作品から。
紫陽花をひねれば水が出る遊び 小野善江
コロナ振り向く「こんな顔ではなかったかい?」 同
家出するには古本が多すぎる 古谷恭一
袋とじみたいに開ける顔半分 萩原良子
筋金入りのアンドロイドの欠伸 田久保亜蘭
諸肌は質屋に置いたままですが 桑名知華子
小野善江さんと言えば〈たばこ屋の煙になったおばあさん〉〈世界から閉じ込められるカードキー〉〈エコマーク我らやさしく滅びゆく〉など好きな句がいろいろとあるのですが、今号の〈コロナ振り向く「こんな顔ではなかったかい?」〉は、わたしの中で小野善江さんの代表作となりました。
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さて、今回の「川柳木馬」第170号は、木馬誌がずっと続けている「作家群像」の掲載号です。これは作家のプロフィール、作者のことば、自選60句からなる特集。今回取り上げられている柳人は柳本々々さん。その柳本さんの川柳について、「卑弥呼の里川柳会」の真島久美子さんと「川柳スパイラル」の川合大祐さんが評を書いています。真島さんは森山文切著『せつえい』(毎週web句会、2020年)で序文を書かれていた方ですね。憶えています。柳本さんを評する方としては意外性があり、素敵なマッチメイクだと思います。
真島さんと川合さんの評は木馬誌で読んでいただくとして、ここでは以下、わたしが柳本さんの自選句を読んで思ったこと、考えたことをちょっと述べてみたいと思います。
ちがった星の、ちがうひこうき、ちがうさばく
地球と違う星であるのならば、それが一見「ひこうき」や「さばく」であったとしても、地球のそれとは異なった意味が与えられている可能性があります。なぜなら違う星では、地球とは違う歴史と文脈で世界が成り立っているからです。これはたとえば、現代アートが男性用便器を従来の小用の文脈から引き離し、美術の文脈に持ち込むようなことと通底するかも知れません。掲句のように柳本川柳には、わたしたちにとって「歴史的文脈」とは何かを考えるきっかけとなる句が散見されます。歴史的文脈は、現代思想ならば制度とかシステムなんて表現される場合もあるでしょうが、それらはわたしの感覚にはあまり馴染まないので、ここでは歴史的文脈と呼ぶことにします。グローバルスタンダードでさまざまな区別や領域が取り払われている時代。でもグローバリズムが既成事実化されればされるほど、ひとびとは自分の存在の成り立ち(歴史的文脈)が何であったかを考えるようにもなりました。文芸作品の背景には時代性があります。一見無関係に思える内容であってもです。
どこにいたって寿司なんだから
寿司は日本人にとって馴染みの食べ物です。それを見ればすぐに寿司だと判別もできます。なぜならば、日本人は日本文化の文脈の中で過ごしているからです。でも、寿司を知らない外国人からすると、ライスの上に何かの切り身がのった食べ物らしきもの、といった感じかも知れない。それはその外国人が日本文化の文脈の中で過ごしていないからです。掲句にも歴史的文脈を考える内容が見出せます。
100パーセントユニコーンで出来たユニコーン
ユニコーンは一角獣のことで想像上の生き物。掲句は、100%の非現実で出来たリアル非現実、と言い換えることができると思うんです。だからこの句の背景には、生の手触りとか実感をバーチャルで代替する時代性がある、とも考えられます。先ほどグローバリズムの時代にあって、ひとびとは歴史的文脈(自分の成り立ち)を考えるようになった、と言いましたが、そのことと一脈相通じているはずです。
桜桃忌おんなじ服のひとと会う
「ねむけっていいね」「いいよね」雨と雨
なんでもないひだな なんでもないひだね 星
柳本さんの川柳に感じるのは、登場人物たちがコミュニケーションをしているようでしていない、ということです。桜桃忌の句は、「おんなじ服のひとと会」ったにもかかわらず、そこから何か太宰治の話で盛り上がるような気配はありません。ねむけの句も、なんでもないひの句も、一応会話はしているものの、発語への同意があるのみで双方向性を感じません。会話に葛藤が見受けられず、ディスコミュニケーションも同然と言えるのではないでしょうか。しかも、下五の「雨と雨」という相似形および「星」という隔たりとで、ディスコミュニケーションが補強されている感すらあります。
生の手触りとか実感がバーチャルで代替される世界。会話に葛藤のないディスコミュニケーションの世界。とても無機的な世界です。でも、これらは既にわたしたちの世界で起こっていることです。柳本さんは表現上、それにたいする批評は明示していません。まるで、ただただ写実・写生に徹しているかのように。それでもひとつ感じることはあります。ねむけの句にしても、なんでもないひの句にしても、言葉遣いに子供っぽさがありますよね。そこにこそ、無機的な世界に生きるしかない現代人の「哀しみ」が感じられないでしょうか。そう、意外にも柳本川柳は抒情詩としての側面があるとわたしは思うのです。
作家的には、上に挙げたような時代性や世界のあり方を認識したところで、さあそこからどう生きていくのか、という実存的テーマが残されています。
「終わり?」「うん」そしてマヨネーズ
無機的な世界、言わば世界の終わりの後にかける「マヨネーズ」。このマヨネーズのぐちゃぐちゃ感――映画『家族ゲーム』(森田芳光監督、1983年)でも崩壊した家族の食卓をぐちゃぐちゃにするのにマヨネーズが効果的に用いられていました――を経て、全く新しい世界を設計していくのか、それとも歴史的・有機的な文脈を再帰的に意識していくのか。今後、柳本さんがどんな川柳を書いていくか、引きつづき見守っていきたいです。本当は1万字以上でも書けそうなんですが、ネットの記事ですからこのあたりで終わりにします。