先日おこなった七七句会で気づいたことがあります。それはご投句いただいた全41句のうち、下七が四三調で終わる作品が16句あったということです。四三で終わるとは、たとえば今即興ででっちあげると「角を力ませ 待ってる豆腐」という句があるとします。この下七の「まってる/とうふ」は四三で終わっているということになります。また特選・準特選句にはなかったものの、入選句には四三調で終わる作品が多く見られました。いずれも納得の素敵な入選句です。
川柳の七七句(短句)や連句の世界では、この四三調が忌避される傾向があります。最初にそのことを知ったときは驚きましたよ。七七句をつくりはじめた時分、四三で終わる句を量産していたし、リズムに抵抗感をおぼえたこともなかったからです。はじめて四三の忌避を知ったのは、七七句を理論的に理解したい思い、いろいろな評論を読んだときだったと思います。
連句の世界の四三忌避は門外漢なので何ともいえません。でも川柳七七句における四三調忌避については、本当に試作や議論を重ねた末にできた「お約束」なのか、いぶかしく思っています。だから今回の七七句会のように、不特定多数に開かれた場では、四三の良し悪しは選者や投句者各人の判断に任せればいいと思っています。いやもっと言えば、そのお約束じたいをリセットしてもよいかも知れませんね。
余談ですが、その世界に入ってから初めて知るお約束ってありますよね。たとえば、わたしが作歌を始めた時分のこと。それは今野寿美さんの短歌教室でした。そのときは短歌のことをほとんど知らなかったんで、短歌のお約束を逸した連作を出したことがあります。どういうことかと言うと、自分の気持ちを詠んだ通常の歌のほかに、他者の気持ちを詠んだ歌までつくってしまったのでした。だって小説はそうじゃないですか。たとえ私小説であっても、すべての登場人物は基本的に作者の自作自演ですよね。だもんで、当然短歌もそういうものだと考えていたんでしょうね。まあ当然のことながら、短歌は一人称の文芸なんですよ、と今野さんからやさしく説明していただいた憶えがあります。
話を戻します。外部の人たちに四三調の忌避が通じないことを示す例が、じつは連句の本に載っていました。『連句―そこが知りたい!─』(2003年、おうふう)の70ページにこんなエピソードが書かれているのです。1998年11月5日に宇宙飛行士の向井千秋さんがディスカバリーから発した「宙がえり 何度もできる 無重力」に対して、短歌の下の句を募集したことがあったそうなんです。14万5千点近くの応募があったらしいのですが、国内の入賞作品100点のうち50点が四三調だったということです。たとえば「ほしのピアノで おはなのおうた」という感じです。
さて、前述の本によると、
北村季吟は『誹諧埋木』でこう書いているそうです。
耳にもたゝず、きゝよろしきやうにしたて侍るべし。すべて三四をよきにさだめ、四三をあしきに定めたり。二五と五二とは其の句によるべきにやとぞ。
確かに声に出して読むと三四で終わったほうが終止感はあるんです。それは、よくある二音一拍四拍子論でならすぐに説明ができます。
○○/○・/○○/○○
○○/○○/○○/○・
でも、今回は個人的感覚でいってみようと思います。だって理屈と実践は別ですもの。
たとえば、拙句に〈まだ一筆で描ける赤ちゃん〉(まだひとふでで・かけるあかちゃん)というのがあります。これは最後の「あかちゃん」の4音が収まりよく、完結感があると思います。これを「まだひとふでで・あかごはかける」と改作するとどうでしょう。最後の「かける」の3音に少々尻切れトンボっぽさが生じ、散文の断片ようにも感じられるかも知れません。ただし〈まだ一筆で描ける赤子〉(まだひとふでで・えがけるあかご)と名詞で終えたらどうでしょう? 「あかごはかける」よりは完結感が出ていると思うし、個人的には違和感をおぼえません。だとすれば、音数というよりも動詞(用言)と名詞(体言)の問題なのではないか。まして四三調の忌避というお約束を知らず、しかも黙読で「まだ一筆で描ける赤子」を見たらどう感じるでしょうか? わたしならたぶん気にならないと思うんですね。現代は朗詠よりも黙読が優位の時代です。この黙読ということも四三に違和感をいだかなくなった要因だと思うのですが、いかがでしょうか。
もうひとつ、標語の〈飲んだら乗るな乗るなら飲むな〉はどうでしょう。このばあい、人口に膾炙したフレーズなので、四三止めに違和感をいだく人は少ないのではないでしょうか。ただ。それを抜きにしても、読み方次第で違和感などすぐになくなります。仮にCMのナレーションか何かでわたしがこのフレーズを読むとしたら、次のようにします。
のんだら・のるな! のるなら・のむな!
赤字部分は一定を保ちつつゆっくりと溜めるように読み、半音ほどの間(・の部分)を取ったら、最後の青字部分で歯切れよくスパっと言い切るように読むことでしょう。試しにみなさんもそんな風に読んでみてください。ちなみに、この標語は動詞で終わっています。先ほど言ったことと矛盾するようですが、用言止めだから完結感がなくなる、ということではないのでしょうね。これは詩句と標語の違いなのでしょうか。それとも内容が用言止めに合っているのでしょうか。間の取り方や気息の調子も個々人で違いますし、フレーズ内の母音と子音のバランスも関係してくるでしょう。でも、今回はそこまで踏み込むことはしません。以下に山頭火の用言止めの句を引くことで、今後の思索ために種を蒔いておこうと思います。
こころすなほに御飯がふいた 種田山頭火『草木塔』
草の青さよはだしでもどる 〃
ネットの記事なのでごくごく簡単な考察でした。四三調の忌避をすこしでも相対化できていればいいのですが。強調しておきたいのは、四三調の良し悪しは一句ごとの事情に応じて判断されるべきであること、四三調の忌避というのはそれを知らない人には通用しないということです。
それと「週刊川柳時評」の「
『川柳スパイラル』大阪句会 (付)短句の四三について」の後半部でも四三調や韻律の研究書について書かれているので、是非参考にしてみてください。