2022年04月12日

川柳雑誌「風」124号

今号は第36回十四字詩誌上大会の結果が掲載されています。

井手ゆう子選 課題「咲く」
特選
ゆうるりと咲くうぶなデコルテ  斉藤和子

星野睦悟朗選 課題「道草」
特選
イノコズチ着けそっとただいま  山田純一

次の十四字詩誌上大会の締め切りは8月末日(消印有効)。投句料無料(発表誌は1000円)、用紙は自由、はがきも可。渡辺梢選「一番」、齊藤由紀子選「希望」で各題2句。投句は佐藤美文さんのところまで。

次に前号鑑賞は木本朱夏さん。飯島章友の部分のみ引用。

ハバネロを食べると脱皮くり返す  飯島章友
なぜ人は辛い物が好きなのか。溶岩流のように熱い熱い食べ物は食道を焼き尽くすのではあるまいか、と他人事ながら心配する。ハバネロはメキシコはユカタン半島発祥の唐辛子。唐辛子の辛さを示す数値をスコヴィル値というそうだが、ハバネロは10万から35万スコヴィル。国産の普通の唐辛子で4万から5万スコヴィル。どうだハバネロの威力を思い知ったか、という想像を超える辛さのようだ。ハンパない辛さのあまり悶絶し、「脱皮をくり返す」という表現には脱帽しかない。

【会員作品】
セーターを干す背中へと梅薫る  竹尾佳代子
ふるさとの雪も乗せてる貨車の屋根  林マサ子
五線譜に蝶が待ってる花畑  石川柳翁
慎太郎からノーの大事さ  渡辺梢
温暖化とは言えぬ大雪  津田暹
啓蟄過ぎて幼児わらわら  飯島章友
一票の差でラクダ倒れる  〃
指名料とるネコカフェの猫  〃
何となく十八禁のラフランス  〃
図書館は指紋が寝息たてる場所  〃
竹島がまぶたをあける日本晴  〃
マスコミが報じぬ場所に日照り雨  〃
桟敷から観ても大きいヘビー級  〃
地下書庫はタイムマシンで行くところ  〃


posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月11日

『なしのたわむれ』と狂歌

このブログに何度も文章をご寄稿いただいた小津夜景さんがヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の須藤岳史さんと本を刊行されました。『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』(素粒社)です。お二人の往復書簡の体裁になっています。

注目したのは小津さんが与謝野晶子に「狂歌」の遺伝子を見出していたところです。小津さんのブログでは本の出るだいぶ前、そのことについて書かれていたと思いますが、それを読むまでは晶子と狂歌の関係性など、はずかしながら考えてもみませんでした。『みだれ髪』って新しさとか奔放な情熱とかが指摘されがちです。でも、狂歌的な理知の面はあまり指摘されることがないような。晶子は政治思想や社会思想でも進歩的な面ばかり強調されますが、じつはそう都合のいい人でもなかったんです。歌においても同じなのでしょうね。

狂歌といえば、先行する和歌の文句取りやもじりなどがいろいろあります。狂歌の代表的な作家である大田南畝の作品にも、百人一首の歌や歌人を題材にしたこんなものが。

わが庵は都の辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治 
いかほどの洗濯なればかぐ山で衣ほすてふ持統天皇


1首目は宇治の「う」を卯になずらえて十二支をぜんぶ盛り込むという趣向。2首目は「どれだけ洗濯物が沢山あんねん!」という漫才的なツッコミ。雅な世界を俗に下ろして面白がるところに、百人一首への親しみが感じとれます。

与謝野晶子の歌に話を戻すと、小津さんは第20信「みえないたくらみ」で、晶子の歌を類似する狂歌(や狂歌的な歌)と並べて鑑賞しています。その中から1セット引いてみます。

ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里  頭光つむりのひかる
ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清瀧きよたき夜の明けやすき  与謝野晶子


頭光は狂歌四天王の一人。小津さんの言葉でいうと、晶子の歌は「ラップ的手法で攻めたそのクールさ」が魅力。♪ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 水の清滝 夜の明けやすき HEY HO! みたいな。

ところで狂歌というジャンル、何と! 明治になっても衣替えをして人気を博していたんです。詩文学の歴史に興味があるならご存じの方も多いでしょうか。その人気は石川啄木の文章からも窺い知れます。啄木が明治42年4月11日の「ローマ字日記」にこんなことを書いているんです。

例のごとく 題を出して 歌をつくる。みんなで 十三人だ。選のすんだのは 九時ごろだったろう。予は この頃 まじめに歌などを作る気になれないから、あい変らず へなぶってやった。そのふたつみつ。(筆者注:原文はローマ字表記)

「題を出して歌をつくる」とは、与謝野鉄幹・晶子夫妻の家で催されていた徹夜の題詠歌会のこと。このへなぶるという言葉がポイントです。当時、読売新聞では「へなぶり」という名称の明治新狂歌が人気を博していました。へなぶってやった、とはそこから来ている言い回しだと思われます。ちなみに日記には、二つ三つと言いながら歌が9首書かれています。その中から啄木のへなぶり歌を2首引いてみましょう。こちらも原文はローマ字表記です。

ククと鳴る鳴革なりかわ入れし靴はけば蛙を踏むに似て気味わろし
君が眼は万年筆の仕掛けにや絶えず涙を流していたもふ


まあ、これが狂歌かといわれれば少し趣が違う気がします。啄木は、真面目に歌などつくる気になれないからへなぶった、と書いていました。だから、不真面目だったり戯れ言だったりする歌、という意味合いでへなぶるを使ったのかも知れませんね。この後の日記には、歌会をばっくれたことが書かれています。なにはともあれ狂歌を踏まえた歌をつくっていた晶子の歌会で、啄木がへなぶり歌なんて書いていたとは愉快ではありませんか。

「へなぶり」の創始者のことにも触れておきます。それは田能村秋皐たのむらしゅうこう、筆名を朴念仁や朴山人という読売の記者です。最初は川柳欄の選者をしていましたが、明治38年2月24日に読売新聞紙上に朴念仁の「へなぶり」欄が新設されると読者投稿もされるようになり、大人気となったのでした。

ただ、前言を翻すようで恐縮ですが、朴念仁に先行する人物がいたんです。それは根岸派歌人だった阪井久良伎。久良伎は「へなづち」と称して狂歌体の短歌を新聞「日本」に掲載していました。

阪井久良伎。川柳をしている人ならば井上剣花坊と共に川柳中興の祖として知っている大人物。でも、最初は歌人として創作活動をしていたんですね。久良伎のへなづちが盛んだったのは明治33年から35年といいます。新狂歌をブームにしたのは朴念仁でしたが、そのきっかけを作ったのは久良伎だったわけです。柳人が時流に乗るのが下手なのは、今も昔も変わらないようですね。でも、だからこそ川柳界は居心地がいい。

面白いのは、へなづちもへなぶりも共に鉄幹・晶子の「明星」を標的にしていたことです。次の歌は最初がへなづち、次がへなぶりです。

絵にも見よ誰れ腰巻に紅き否む趣あるかな鰒びとる蜑
恋ごろも菫々菜すみれの押し葉もてあそび式部三人牛店ぎうやを出づる


浪漫風の明星調は新狂歌からすれば格好のターゲットだったのかも知れません。それにしても可哀想な晶子。

へなづちやへなぶりについてさらにお知りになりたい方のため、わたしの所有している本を書き留めておきますね。

・尾藤三柳評論集 川柳神髄(尾藤三柳著、新葉館出版、2009年)
・石川啄木・一九〇九年(木股知史著、沖積舎、2011年)
・川柳探求(前田雀郎著、有光書房、1958年)  ※へなづち・へなぶりの名前の由来の推定についてのみ
国立国会図書館デジタルコレクションで『へなづち集』や『へなぶり』を閲覧できます

2022年04月03日

妹尾凛『Ring』を読む

妹尾凛『Ring』(水仁舎、2020年)

柳誌やネット句会でお見かけする妹尾凛さんの句集を読み返してみました。お会いしたのは川柳フリマのときの1回だけです。

作品から受けるわたしの印象をいうと、妹尾さんの良さは他者からの影響を意図的に受けないようにしているところなんじゃないかしら。ごじぶんの世界を大切にしている方と言いかえてもいいです。これは川柳から受けた印象なんで思い込みかもしれませんが、とにかくそういうデリケートさを感じます。

近代以降というのは、いろいろな価値観に接したほうがいい、という考えが主流だと思います。それには特に反対しないし、わたしじしん川柳でも多様なスタイルと接するようにしています。でも、いろいろな価値観と接することで各共同体なり個々人なりの濃度が薄まってしまう面があるとしたら、それはオモシロいんでしょうか? そんなことを考えることがあります。何かを守るために閉めることってあるんじゃないのかな。

何はともあれ、句集の中でわたしが共振・共鳴した川柳を。

雨の日をむすぶ一枚のふろしき

バックストローク時代の畑美樹さんの世界につうじるような発想です(いや畑さんは今もかもしれない)。

ひらがなの蝶々 日に一本のバス

不即不離の取合せ。上下が互いの雰囲気を補完しあったり、書かれている意味を超えた情感を付与しあったり。

図書館はモーツアルトで浮くらしい

モーツアルトを牛や野菜に聴かせるってのはよくありますよね。それがここでは読書に合うとかではなく、図書館じたいが浮いちゃうってんだからオモシロい。拙句に〈客がみなふわふわ浮かぶブックカフェ〉というのがあります。本の集まる場所って浮遊感があるのだろうか。

たまごを割った瞬間はことばたち

これは見つけの句ですね。たしかに割った瞬間というのはことばでいっぱいだ。

もしもしというときの月の浮力

既成の川柳を想定してでっち上げると〈もしもしと1オクターブ高い声〉あたりで一句やっつけちゃいそう。だけど、それだとありきたり。
切れをつくらず流れるようにテキストが進んでいくなかで「月の浮力」へと捩れる。システムとしての「切れ」を契機に飛躍するのではなく、テキストの流れの中で捩れるのが川柳っぽさだと思います。誤解なきようことわっておくと、俳句にそういう文体がないということではありません。

枝先の風が濃くなるレイチャールズ

建て直す前の母の実家には、母のきょうだいたちが共有するレコードが置いてありました。エルヴィス・プレスリー、コニー・フランシス、ビーチ・ボーイズ、ビートルズ、そしてレイ・チャールズ。あのレコード、今どうなっているんだろう。わたしのイトコの誰かが保管していてくれればいいのだけど。
枝先の風が強まるではなく「枝先の風が濃くなる」。思わず意識を留められてしまう表現です。レイ・チャールズのゆびさきの感覚や歌っているときのソウルにつながる表現のようにも思えます。
枝先の風が強まるだったら『What'd I Say』がピッタリ。50年代〜60年代半ばまでのロックンローラーやロカビリアンであれば大半がカバーしているのでは? たとえシングルで出していなくてもライブで歌っているはず。そんなゴキゲンなリズム&ブルースなのです。
それに対して「枝先の風が濃くなる」のほうは『Georgia on My Mind』が合っているように思います。作者は曲のことなど想定せず、純粋にレイ・チャールズからの発想だったのかもしれませんが。

句集は以下から購入できます。

1003オンラインストアー
posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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