何だこれは、と驚く。
そして何だこれは、と考える。
立ち止まる。
たとえば次のような句であれば、立ち止まりもしなかっただろう。
(改悪例) おっぱいがいっぱいあってセカイ系
これでは「普通」の「川柳」である。
しかし、意味は何となく、通りやすい。
これで見えてくるのは、掲出句が「ノイズ」で出来た句だと言うこと。
「季語は、ノイズだと思うんです」
この前お会いしたとき、柳本さんは言った。
「ノイズって、他者の言葉じゃないですか」
それがとても面白い言葉だと思って、その言葉にヒントを得てこの文章を書いている。
「おっぱい」というのは、他者のモノだと思う。
中城ふみ子『乳房喪失』のように、乳房をわがものとして引き受ける表現もあるが
(しかしそれも「喪失」を経てなのだが、その点については、いつか)、
それはあくまで「乳房」だからだ。
「おっぱい」はあくまで自分の外部、どこまで行っても他者のモノなのだ。
(母のおっぱい、妹のおっぱい、アイドルのおっぱい、アニメのあの子のおっぱい……)
他者のファルス、などと書けばラカンっぽいが、詳しくないので書けない。
話を戻せば、「おっぱい」はノイズなのだ。
それが、さらに「 × n二乗」だという。
「おっぱいがいっぱい」ではない。
(しかし、こんなにおっぱいおっぱい書いたのは久しぶりだ)
計算式というのも、いわゆる「文芸」からすればノイズだ。
柳本さんの言葉を借りれば、「ノイズは、他者の言葉」ということになる。
「セカイ系」について、私は表面的な知識しか持たないが、「世界」と「私」が直に接続されてしまう、そういう現象だと理解している。
そこに「他者」はあるのだろうか。
そこにノイズはあるのだろうか。
逆に言えば、そこには他者しかないのかもしれず、ノイズしかないのかもしれない。
そんな「世界」を表現するのに、掲出句は(セカイ系)と、()でそっとくくった。
おっぱい × n二乗(セカイ系)
このフォルムには、これでしか有り得ない、必然性がある。
掲出句は、まぎれもない世界を表現した。
いや、世界をつくった、のかもしれない。
川柳は世界だ。
世界は川柳だ。
そのノイズを引き受けること。
この句は、ひりひりするほど、リアルだ。
〈ノイズ〉という観点から読み解いていただいて、わたしもこないだお話させていただいたように、むかしから〈ノイズ〉にとても興味があるので、読ませていただいてとても勉強になりました。
川合さんも書いていらっしゃいますが、〈ノイズ〉って既存の文法や理解のつねに〈外部〉にあるんですよね。
たとえば、テレビにノイズが走ったらそれはテレビの〈外部〉になる。ゴーストとしての貞子かもしれないし。
でも既存の理解のなかに貞子が回収されてしまったら、こんどは貞子にとってのノイズのようなものが生まれるかもしれない。
だから、ノイズってつねに他者とか外部ってなんだろうってかんがえる試みになるのかなあと川合さんの書いてくださったものやこないだお話させていただいたことなどからかんがえていました。〈おっぱい〉もすぐに男性的枠組みに回収されそうになりながらも、それでも回収しきれない〈ノイズ〉でありつづけるかもしれないなあ、とも。
ありがとうございました!
いえいえ。私のほうこそもともとさんに勉強させてもらっています。
ただ、他者や外部には、つねに意識的でありたいですね。
本当は、もっともともとさんの句の魅力について語りたかったのですが、拙い評でもうしわけないです。
これからもよろしく!
つまり絶対的にノイズがない。
セカイ系ってジャーゴンなんで、
他者や外部を消してしまうと思う。
安全な計算式を崩す野生のウイルス的おっぱいは成長という良識的な観念とは無縁。
子供は減っていき、
おっぱいはやばい速度で増えていく。
おっぱいの変容。
おっぱいの可塑性。
おっぱいの集合美。
今おっぱいをシェアしてる僕達。
霊界のおっぱいには性差がないらしい。
おっぱいは触媒、
未知との繋がり、
無意識の拡大、
アーメンとオッパイの非意味的な響き。
未来まで滅びないおっぱいを作るためには親鸞の還相の視点が大事。
しかしおっぱいは有限なんだ。
おっぱいがあるのは偶然なんだ。
取り返しのつかない外傷的なおっぱいに突き動かされる人間の愚かさ。
おっぱいなど存在しないと叫びたくなる。
ああ、近代人の理性には確かに多数の穴がある。
かつておっぱいは土竜だった。