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スヌーピーにライナスというもうふをひきずって歩くシニカルな男の子がいるんですが、かれの場合、おそらくもうふアディクションというか、もうふ中毒、もうふ依存だとおもうんですね。
あなたがいないと生きられない、という状態を、もうふにそのままたくして・ひきずって生きている。
でもこの句は、それを読み替えているところに、川柳としての生きていこうとするたくましさがあります。
ライナスがもうふをひきずって歩くことを、「行進」といいかえ、「もうふ」を「海」といいかえた。
ひきずる、というもうふへとうしろへと→に引かれるベクトルは、行進によってまえへまえへともうふの逆ベクトルとして←として直進することになり、かつそれでいて依存の対象の「もうふ」が「海」になったことで、もうふというモノへのフェティシズム(からの共依存)はうしなわれ、「海」というモノに還元しえない無限の領域がひらかれていくことになる。海には、依存も執着もできない。それはモノではないし、つねに変数状態にあり、境界づけられない場所だからです。
もうふとちがってじぶんをやさしく抱擁するだけのための場所でもない。ときにそれはシリアスでハードな場所であり、命さえ奪う死の場所です。
そんなふうにこの江口さんの川柳は、ライナスを、そしてすべてのライナスとしてのわたしたちを、読み替えてゆく。
川柳は、既存の文化をよみかえることがある。
そしてその読み換えのさきに、生きていく勇気がうまれることもある。
可能性はつきない。可能性がつきない場所だけが、海だと呼ばれる。