「スープレックス」にちなんで「プロレスラー」の句を選んでみた。
というのは半ば冗談で、半ば本気である。
半ば本気、というのは、「プロレス」というジャンルのあいまいさ、さびしさを思うからだ。
プロレスは格闘技ではない。
八百長、というのも、ショー、というのも少し違う気がする。
最近の新日本プロレスなどは、開き直って、完全なショーに徹しているようだが、まあそれは興味のない人も多いだろうから置いておく。
ただ、「プロレス」というジャンルにこだわって、格闘技とショーのあわいで、迷いつつ、闘いつづけるプロレスラーたちもいる。
彼らはあいまいで、さびしい。
そしてカッコ悪い。
そのカッコ悪さは、僕たちと共通する「あれ」だ。
もうお気づきであろう、「これは川柳なのか俳句なのか」という「あれ」だ。
掲出句、確かに川柳句集に入っている。
僕は俳句には素人以下の知識しかないのだが、この句は、俳句になってしまうのか、川柳として成立しているか、どうなのか。
俳句には「季語」と「切れ」が条件とされる。
ここで考えなければならないのは、「朝顔の昨日」だろう。
朝顔、は秋の季語である。(異論もあるようだが)。
しかし季語と同じ言葉があるからと言って、それが季語の役割を果たしているかどうかは断定できない。
「朝顔の昨日」は、「朝顔や昨日」のように「切れ」てはおらず、その点で川柳的と言えるだろう。
朝顔の昨日。
何というか、川柳の手ざわりを感じる言葉づかいだ。
またしかし、「朝顔の昨日」と「プロレスラー死せり」の間には意味の切断・飛躍があり、「切れ」であり、俳句的と言えないこともない。
だがしかし、しかし……。
やめよう。
定義などやめよう。
迷おう。
「これは川柳であるのか、俳句であるのか」
そうやって迷うことが、迷うジャンルが、迷いそのものが、川柳だと言ってしまえばどうだろう。
その迷いは、僕らが棺桶まで引き摺っていけばいい。
昨年、俳人の西原天気さんにお目にかかったとき、正確には覚えていないのだが、
「最近、三十音字以上の俳句を作った」
と仰っていた。
僕が驚いて「それは、何をもって俳句としているわけですか?」と尋ねると、西原さんは少し考えて、
「スタンス、だな」
と仰った。
自分が俳句だと思って作れば、それが俳句なんだ。
そう語る姿はとても、カッコよかった。
ただ、僕が目指すものは、そういうカッコよさではないな、とおぼろげに思った。
話は脱線する。
昨日の世界の話をする。
ジャイアント馬場、というプロレスラーがいた。
もう知らない世代も多いかと思うが、カッコいい、とはとても思えないプロレスラーだった。
「ショーマンだ」「動きがのろい」「腕が細い」と、散々馬鹿にされていた。
それでも、彼は多くの人に愛されていた。
ある時、「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます」というキャッチコピーを打ったりしていた。
彼がプロレスを独占できたかどうか、僕にはわからない。
ただ、僕は彼を愛した。
彼の「プロレスラー」でしかない、さびしい、カッコ悪いたたずまいが、たまらなく好きだった。
ジャイアント馬場、享年六十一歳。
死ぬまで、現役のプロレスラーだった。
たぶん、そういうことだろうと、思う。