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安福望さんが『アパートメント』で連載された絵と短歌とエッセイをめぐる連載のタイトルが「犬と短歌」だったんです。
犬を飼っている友人がいて、その友人が安福さんのエッセイを読んで、胸があたたかくなったり切なくなったり犬をめぐってまるではじめて飼った頃を思い出したようにいろんなきもちを体験したといっていたんですが、私もかつて犬を飼っていたので安福さんのエッセイを読んでいてそんなきもちになったんです。
もちろん、私は安福さんの飼っている犬のマルに会ったことはないけれど、でも私もスズキサンという犬を飼っていた。それは友人もおなじことだとおもうんです。
でもこのとき注意したいのが、安福さんがつけた連載タイトルが「マルと短歌」や「犬の短歌」ではなく、「犬と短歌」だったことです。
そのとき私たちはそれしかありえなかったタイトルとしての「犬と短歌」という具体性としてある場所にむきあっているし、むかっているし、ある初めての場所にめぐりあっていると思うんです。
「犬と短歌」というめいめいがかかえもたざるをえない〈具体〉に。
そのとき、ふっと、おもったのは、具体っていえば、たいていひとはモノを思い浮かべて唯物的になったり、あたかもそれが具体物としてのひとつしかないかのように個別的・唯一的になったりします。
でも実は、〈具体〉こそが、普遍の道に通じているんじゃないかな、とおもったりするんです。
わたしたちは言語的にへこたれて、具体のことばを隠そうとすることがある。
あたかも知っているそぶりを言語的にしてしまうことが、ある。
でもある意味、それはじぶんがどこかに通じていくはずの〈具体〉を隠そうとする言語行為でもあるはずです。
だから、私は、ことばの具体と向き合う勇気が、ひつようなのではないか、とおもうことがあるのです。
ことばにどっぷりつかればつかるほどです。
普川さんの句もそうです。
なんまいかんも繰り返されてる「おやすみなさい」なのに、わたしははじめて〈具体〉を通して、はじめての「オヤスミ」にであってしまった気がするのです。はじめての夜にも。
これは「犬と短歌」にならえば、「夜とオヤスミ」です。
けれども、その〈具体〉を通して、はじめてひとは〈はじめて〉にであうことがある。
そうした〈具体〉は〈勇気〉につながっている。
おそらく安福さんは、画材としての〈具体〉が〈絵〉として昇華する瞬間に毎日たちあっているはずです。
だからこそ、なんどでも〈具体〉とむきあっている。それはマルもそうだし、画材もそうだとおもいます。
マルは○としての記号だけれども、散歩するとちゅういっしょに歩くマルは記号ではなく、いつもはじめてであうマルです。線を引き、色を塗ることによって、たちあがってくる絵もそうだとおもいます。
そこにはことばではたちあげることのできないような〈具体〉がある。
そのときわたしたちは、なんども見知っていたはずのものなのに、〈はじめて〉にであうのです。
はじめては、はじめての場所にあるのではなく、具体にたちかることにある。
それが安福さんと素床さんの句からわたしが教えてもらった〈はじめての勇気〉です。