蛸を嗤うな真剣なものを嗤うな
( 重森恒雄 『 川柳新子座'95 魔術師たち』時実新子 より )
何だか痛いぐらいに「リアル」な句だ、と思った。
この「リアル」というのは、句が読み手にどこまで肉薄するか、つまりどれ程の「切実さ」を持っているか、という事に基づいているように思う。
「嗤うな」という言葉は、声高な命令などではない。先制のための警告や威嚇でもない。
これはきっとほとんど悲鳴や泣き声のような、か細く震えた、それでいて必死の訴えだろう。「笑う」ではなく「嗤う」。そこにははっきりとした嘲笑、軽蔑と憐れみの意が示されている。そうして貶められ、尚かつそれにしっかりと手向かう強さを持たぬ者が、やっとの事で発する一言。それが、「真剣なものを嗤うな」というフレーズだ。
句からこのフレーズだけを切り離してみると、その愚直なまでのストレートさ、ともすればありふれてしまう程の「正しさ」が際立って見えてくる。このフレーズだけでは、おそらく句は句として成立し得ないだろう。
であれば句を根底で支えている核は、導入部の「蛸を嗤うな」の方にあるのではないか。
蛸。暗い水底でゆらゆらと蠢く不定形。何を考えているのかよく分からない眼も、愚鈍に見せかけて時折異常に俊敏な動きも、全てが何となく不気味で、恐怖すら覚える。
そんな蛸に対して「真剣なもの」というイメージを結び付ける人は、ほとんど居ないのではないだろうか。 この句の 蛸=真剣 という図式には、大抵の人が違和感を抱くように思われる。
しかし句の中で提示されているのは、確かに 蛸=真剣 という図式なのだ。私たちから見れば、両者の間には大きな溝があるように思える。けれども作者は、突発的な勢いとも言えるような強引さで、両者を=で繋げてしまった。
私はこの強引さにこそ、句の「切実さ」の源泉があるのではないかと思う。
向けられた嘲笑、他者からの明確な悪意に必死で立ち向かおうとする作者には、通常の 蛸≠真剣 の世界など見えていない。何とかして抗いたい、その思いだけに支配されて、何も考えず、何も考えられず、 思いが頂点に達した時、おそらくはほとんど無意識下で唇から零れ落ちた言葉、それが 蛸=真剣 の図式を持ったこの句だ。
何の脈絡も意味も汲み取れない、熱病に浮かされた者の譫言のように、それは聞こえるだろう。
けれどもこの彼岸の「蛸」から此岸の「真剣」への歪で瞬間的な跳躍、そこには弱い者が見せたただただ純粋な必死さ、ひたむきさだけがある。それがこの句の溢れ出るような「切実さ」となって、「真剣なものを嗤うな」というともすれば上滑りしてしまいそうなフレーズに、確かな重さと一種の説得力を与えているように思われる。
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