うまい棒緩衝材にちょうどいい 松橋帆波
げんじつはキウイの種に負けている なかはられいこ
川柳スープレックスでとりあげられている句から任意に引いた。
どちらの句も、実に「一発芸」的ではないだろうか。
たとえばこれらの句は、「かいーの」とか「アメマ!」とか(Ⓒ間寛平)、「そんなの関係ねぇ!」とか(Ⓒ小島よしお)、それぞれ、急に文脈を無視して挿入される違和感によって、笑いを生み出すタイプのギャグである。
短歌が「漫才」的、つまり対話なのにたいして、川柳は「一発芸」的。何の脈絡もなく発せられる昨今の「一発芸」とたしかに通じそうだ。そう、昨今。ドリフターズの、わりと律儀にコントの文脈の中で意味性をもっていたギャグ──なんだバカヤロ、どうもすんずれいしました、ひっくしょん!、怒っちゃやーよ、だいじょぶだ、しょうゆラー油アイラブユー──などとはちょっと違う、昨今の「一発芸」だ。理由や経緯なんてすっ飛ばして唐突に「緩衝材にちょうどいい」「キウイの種に負けている」と断言するあたり、バカボンパパの〈これでいいのだ〉にも通じるかもしれない(ちがうか)。
ところで、さきほど「問と答の合わせ鏡」論について話したけれど、もともと川柳は、前句附から附句を独立させた文芸なので、問答の構造を基本にして発展してきた文芸だ。たとえば、「母おやハもつたいないがだましよい」という句は、〈母親は?〉という問いに「だましよい」と答える問答構造の基本形として有名だが、この句じたいも「気をつけにけり気をつけにけり」という前句(問)に付けられた附句(答)だった。問答の構造、言いかえれば問答体。近年は、かたちの上では〈AはBである〉という問答体の構文をとりながらも、非問・非答としかいいようがない川柳も出てきている。だが、松橋帆波の上掲句がきっちりと「緩衝材」という「答」を出しているように、いまでも問答体は強い磁場としてある。
こうしてみてみると、短歌と川柳は問答体という点でいかにも似通った文芸にみえる。たしかに「問と答の合わせ鏡」の〈問と答〉の要素で、短歌と川柳は共通しているのだ。でも、はたして〈合わせ鏡〉の働きが川柳にあるのだろうか、という疑問が生じてくる。〈合わせ鏡〉の働き、つまり「答えるということが、すなわちさらに深い『問』の断崖に目覚める」という再帰的な働きが川柳に似合うのだろうか。
短歌は57577の31音と長い詩型である。だから、上の句と下の句を駆使して〈主体〉と〈客体〉を対句的に描写することができる。
退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり
三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや
志垣の歌は上の句が〈主観句〉で下の句が〈客観句〉、山中の歌は上の句が〈客観句〉で下の句が〈主観句〉となっている。そしてこの主・客が、「問」と「答」の「合わせ鏡」として呼応しつづけ、「答」が出たあとにふたたび「問」へと戻る再帰性を生じさせる。
それにたいして、
うまい棒緩衝材にちょうどいい
という松橋の川柳は、短歌での〈主観句〉だけで勝負している。ここに客観句との対話性はない。「うまい棒」「緩衝材」「ちょうどいい」のすべてが発話者の主観に回収できる。迷いがない。おなじ問答体をもった短歌と川柳であるが、短歌は主観と客観のズレを調整していく〈迷い〉の問答であり、川柳は主観と客観を調整しない〈断言〉の問答である。したがって川柳では、短歌のように問と答を合わせ鏡のように往復する必要性は基本的にない。言い切って終了。だから「一発芸」的なのである。まちがっても「緩衝材」という答えを受けて「うまい棒」をふたたび問いかえし、未来へ自己を企投しつづけていく、ということにはならない。それが川柳のむかしからの特徴であり、特長なのだから。
曾呂利は川柳の「完結」性に言及している。わたしの話と重なるところかと思う。
なんぼでもあるぞと滝の水は落ち 前田伍健
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
川柳と俳句の違いとして、しばしば引用、比較される両句。
やはりどちらかと言うと俳句は「ツッコミ待ち」の気配があり、川柳は「ツッコミ」が必要なく、それ自身で完結し、ツッコミまで自分で引き受けているような、そんな感触がある。
ここまで、川柳では基本的に「問」と「答」を合わせ鏡のように往復する必要がない、という結論を出してみた。そう、基本的には。そのように留保したのには、もう一方の川柳、なかはらの句にどこかしら「合わせ鏡」の働きが感じられたからだ。
げんじつはキウイの種に負けている
なかはらの句は、【問】「げんじつを負かすのは?」 【答】「キウイの種」という問答体になっているが、「キウイの種」は答えでありながらどうも答えになりきれてない。この句をはじめて読んだときのことを思い出せば、確かに(あ、)とわたしの中で共鳴したのだが、句の意味が割り切れて共感に至ったわけではない(共鳴と共感はちょっと違う)。「げんじつがキウイの種に負けるって?ん?ん?」という状態だ。
そんな状態の中、「げんじつ」という平仮名書き、ここにすごく興味をかきたてられた。これは、不透明で、手触りがなくて、とらえどころがなくて、問いとして立てることすらできないような「げんじつ」のあらわれではないのか。そんな手触りのない「げんじつ」ならば、小さいながらも確かな手触りをもつ「キウイの種」に負けてしまうだろう。このように考えを巡らせたとき、「キウイの種」で「げんじつ」を問いかえす「合わせ鏡」の働きは認められるのではないか。言いかえれば、手触り感のない「げんじつ」(問)を、確かな手触りをもつ「キウイの種」(答)と対比させることによって、あいまいな「げんじつ」に手触りを回復させたいという「問と答の合わせ鏡」作用があるように思えるのだ。
「れいこです・・・キウイの種にも負けとるとです・・・れいこです」という「一発芸」的なレベル、あるいは「自分のげんじつ、キウイの種に負けてますやん!」という「セルフツッコミ」的なレベル、そのどちらにも当てはまる「げんじつはキウイの種に負けている」。しなしながら、この句の発話者はもう一人の自分を相方に見立てて対話をしているのではないか。どこかそんな感じがする。
曾呂利亭雑記の記事をきっかけに松橋帆波となかはられいこの川柳を、問答体や合わせ鏡の観点から考えてきた。松橋帆波は問答体の完結性を活かし、なかはらは問答体を未完性のレベルで用いている。どちらも現代川柳の主要スタイルだ。しかし、問答体・合わせ鏡の働き・完結性・未完性といったものは、おそらく現代の短歌、俳句、川柳、連句などの短詩型全般、いや表現物全般に共通するものかと思う。この記事を書くきっかけとなった「詩型と笑いと」において曾呂利は、「ただ、川柳にせよ俳句にせよ、現在の『広がり』は、とてもそんな原理原則どおりにはいかないのですが」と結んでいる。わたしも同感である。それでいて、そんな現代川柳の広々とした「げんじつ」に、じぶんを見失ってしまいそうになる。だからこそ、わたしは、山のように積まれた「うまい棒」に今日も明日もダイビングしつづけることだろう。
(おわり)
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