今日取り上げるのはセレクション柳人8『田中博造集』(邑書林、2005年)です。
略歴によると1961年頃に川柳とであい、石田柊馬・岩村憲治と生涯の親友になったそうです。「川柳ノート」「川柳平安」に参加し、1978年に北川絢一朗・坂根寛哉らと「川柳新京都」を設立。80年代には仕事が忙しくなり徐々に川柳から遠ざかったようですが、2000年以降は「川柳黎明」「北の句会」「バックストローク」に参加。京都川柳作家協会理事に就くなど、再び精力的に活動するようになったようです(2005年までの情報)。
それでは以下、作品を見てみましょう。
家出した詩人が地図を買っている
寺山修司の『家出のすすめ』を読んだ後に見ると心身の力みが取れる川柳かもしれませんね。この川柳、個人的には溜飲が下がる思いがしました。表現者って独立独行のポーズを取りがちでしょう。でもね、地図くらい買ったってカッコ悪くはないと思うんです。地(作品の基になる文脈)があるからこそ図(表現)も生まれてくるわけで。だけど表現者って自作が「地」に拠っていることを隠蔽しがちじゃないですか?
こころかくすに嫌なかたちのロッカーだ
このロッカーはところどころ凹んでるんじゃないかな、と想ったのは、わたしがヤンチャな生徒の多い中学や高校にいたからかも知れません。片手で相手の胸倉を持ち上げてロッカーにビシャーン! と叩きつける光景なんて日常茶飯事でした。ところで、2時間サスペンスを見ていると、物的証拠を見つけるために被疑者のロッカーを調べるシーンがよく出てきます。それだけロッカーは「こころをかくす」ための場所なんでしょうね。だからロッカーには他者の加害による痕跡などあってはいけないんです。ロッカーと言えば有名な短歌があります。
「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒にさとす「ロッカーは蹴るな」
「もの言へぬロッカー蹴るな鬱屈を晴らしたければ人を蹴りなさい」
「もの言へぬロッカー蹴るな鬱屈を晴らしたければ人を蹴りなさい」
奥村晃作『都市空間』
ロッカーは大切に使わないといけないけど、ここまでくると狂気ですね。
甘柑の酸味にちかい子の寝息
甘柑というのは調べたけれどよく分かりませんでした。柑橘類なんでしょうね。林檎や花梨などの仁果類は若さの喩になることが多い気がするけど、柑橘類は小さな子につながりやすいのですかね。あの粒々感が。そういえばこんな短歌もあります。
あたらしきいのちみごもる妻とゐて青き蜜柑をむけばかぐはし 杜澤光一郎『黙唱』
こちらは自分・妻・あたらしきいのちの全てを含んだ感慨なんでしょう。
首都の名が長くて革命が見えぬ
この句を見て、そういえば……と思い出したのがバンコクの正式名称。
クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット
革命が起こったときに王宮を守れるよう、それはそれは長い城壁を築いたかのような正式名称。
釣ってきた魚のことばまで食べる
「魚のことばまで食べる」というと、魚の身だけでなくその思念までも食べるかのようなイメージが湧いてきます。「死にかけの鯵と目があう鯵はいまおぼえただろうわたしの顔を」(東直子『東直子集』)という短歌がありますが、この主人公もこの後、魚の最期の思念まで食べることになるのでしょうか。
鳥獣虫魚のことばきこゆる真夜なれば青人草と呼びてさびしき 前登志夫『縄文紀』
鳥獣虫魚のことばを聞く、といえば前登志夫が思い出されます。この短歌で「青人草」なる言葉を初めておぼえました。
結界から細き小用しにかえる
生理現象だから仕方がないという。伝奇小説などではまず描かれないところです。スーパーヒーローが敵と戦うときだって、建造物は壊れるし、巻き添えを食っちゃう人がいる。でも詳しくは描かれない。
鏡から花粉まみれの父帰る 石部明『遊魔系』
こちらは小用でなく花粉。短詩型のおもしろさは一つの作品を見て別の作品を思い出せるところにありますよね。
豆腐喰う とうふささえるものを喰う
川柳は「穿ち」を大切にするものだと思いますが、それならばこういう川柳を書いてほしいし、わたしも書いてみたい。そう思わされる句です。わたしのいう穿ちとは、人間の目を曇らせている通俗的な認識に穴をあけて真を明るみにすることです。
眼裏といういちばん遠いところ
鳥は目を瞑って空を閉じました
八上桐子『hibi』
句集に収録される前から大好きだった作品です。ともに真実を穿ちながらも幻想的で、とても素敵な句だと思いませんか?
馬奔る 馬の姿を抜けるまで
句集中もっとも好きな川柳で思わず、かっこいい! と叫んでしまいました。三島由紀夫の『葉隠入門』に、
エネルギーには行き過ぎということはあり得ない。獅子が疾走していくときに、獅子の足下に荒野はたちまち過ぎ去って、獅子はあるいは追っていた獲物をも通り過ぎて、荒野のかなたへ走り出してしまうかもしれない。なぜならば彼が獅子だからだ。
というくだりがあったため、突き抜け感のある動物の代表はライオンだとずっと思ってきました。ライオンが肉体的な突き抜け感だとすると、掲句の馬にはたましいの突き抜け感、言いかえれば「全霊感」をおぼえます。
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ 塚本邦雄『感幻樂』
生き急ぐ馬のどのゆめも馬 摂津幸彦『摂津幸彦全句集』
この二作品の馬は読み手によっていろいろなイメージを呼び起こすと思いますが、わたしは全霊感=たましいの極限感をおぼえるのです。
なお、『田中博造集』は邑書林でまだ新品が買えます。