まず、目が行ってしまうのが「→↓←↑」なんですが、これ、格闘ゲームの技入力(スティックを右・下・左・上と動かす)を想起させますよね。
それが合っているかどうかは別として、というか、正解なんて無い。
この句に、正解なんてないからです。
「おかじょうき」誌上で、むさしさんがこれは「見る句」ではないかと指摘をされていますが、「見る」ことに正解はない。
「読む」ということも、ひとつの正解があるわけではありません。多種多様な、読んだ人の数だけ正解がある。「解釈」っていうのはそういうことですよね。
だけどそこには、どうしても「正解」ができてしまう。
読者の数だけ、解釈の数だけ正解が導き出されてしまうのが、「読む」ということだと思うのですよ。
納得のしどころができてしまう、と言えばいいのかな。
対して「見る」ことに正解はない。
「見る」こと自体には価値判断(解釈?)は含まれていないはずで、言い方を変えると、ある人が映画を「見て」、感動した時、それはその物語を「読んで」解釈しているということなのだと思います。
だから、「見る」と「読む」は対称した関係ではない。
「見る」ことは「見る」こととしか遂行できないのです。
人が何かを「見た」とき、そこには少なからず惑乱が混じってきます。解釈が出来ていないから。「こ、これは何なんだ」というおそれとおののきですね。
で、この句ですが、「→↓←↑」だけではなく、全体が「見る句」なんだと思います。
「たらちね」も「(びっくり)」も「にんげんのははは」も、解釈を拒んでいる。意味がない、って言えば簡単なんだけれど、文芸作品のいわゆる「ナンセンス」とは違う。すべてが「見る」レベルに僕たちを留まらせて、「読む」という地点に行かせない。
だから、そういう意味でこれは読みようによっては(「読みよう」?)「怖い句」なのだろうし、「見る句」なのでしょう。
見ること。惑乱すること。怖れること。
それを川柳でやってくれる人がいる。
川柳には、こんな可能性がある。
何かこう、わくわくしてきませんか。
僕は、します。
ところで→↓←↑って何の技でしたっけ、と「正解」を求めるのも、人間の哀しい性であります。