巨大蟻から逃げる地下道 島 一木『十四字詩作品集U』
(川柳雑誌「風」発行所 編・新葉館出版)の島一木
(しま・いちぼく)「そよかぜ」より。
川柳には定型が二つある。ひとつは、おなじみの五七五。そしてもうひとつは七七。
七七のほうは「十四字詩」とか「短句」などと呼ばれ、既成の五七五川柳とは別分野のように扱われることもあるのだけど、べつに十四字詩の協会があるとかそういうわけでもない。実際、十四字詩はおもに川柳人によってつくられている。まあ、むかしの前句附では、五七五のほかに七七を付けるばあいもあったのだが、いまでは七七がつけられることは殆どないといっていいだろう。だから、七七は川柳のもうひとつの定型として機能し、川柳分野に所属している。
ちなみに十四字詩は、あきらかに人手不足、若手不足だ。開拓精神がある若手は是非とも挑戦されたし。十四字詩については小池正博著『蕩尽の文芸──川柳と連句』
(まろうど社)の第五章がわかりやすい。また、わたしも以前、十四字詩について記事を書いたので、興味をお持ちの方は以下も参考にしてください。
川柳雑誌「風」95号と瀧正治掲出句。近年はマンガやアニメの「進撃の巨人」が話題になったり、あるいは映画「ジャックと天空の巨人」が2013年に公開されたり、あと、わたし個人の中では今ごろになってジャイアント馬場がブームだったりと、何かと巨人が取り上げられることがある。でも、ここでは巨大蟻ですよ。何だろう、動物の巨大なのって、わたしの中では1933年公開の映画「キングコング」とか、1965年公開の「フランケンシュタイン対地底怪獣」などに出てきた大ダコとか、1975年公開の「ジョーズ」とか・・・いやジョーズは違うな、とにかく、そういうむかしの特撮のイメージがある。
掲出句も特撮映画を観るような迫力があるのではないだろうか。「地下へ逃げ込む」ではなく「逃げる地下道」としたことで立場の逆転感が出ているし、「地下道」に逃げ込んだことで「巨大蟻」の大きさまで想定できる(「地下へ逃げ込む」ではいまいち蟻の大きさが想像できない)。まあしかし、蟻ってあんなにちいさいのに噛まれたりするとすごく痛いのだから、「巨大蟻」に噛まれたらヒトなんていう柔な生き物はたやすく切断されてしまうだろうな。
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ところで、このまえ発行された「川柳サイド」の第2号でわたしは、五七五や七七という川柳の既成定型以外にも挑戦してみた。三四、三三三、五七、七五五などのフォルムだ。それをしてみて自覚したことがある。それは、短くするのなら七七までで、それ以上短縮させたばあい非常なる苦労をしいられるということだ。三四だと、上三は二音の語+助詞ということになる。これだと二音の言葉を探すことで労力の殆どをつかってしまい、しかもその労力のわりに納得のいく作品ができないのだった。
けれども、その経験を経たことで、五七五・七七という定型がなぜ伝統になったのかが自覚できた気はする。
伝統や慣習などというと、戦後はブーワードとして用いられてきた面がある。わたしはソ連邦が崩壊し、戦後思想の夢が壊れたあとに学生になったこともあり、伝統というものに必ずしも悪いイメージはなかった。それどころか、いったい自分は何者だろうという、学生らしい実存的問題も芽生えてきたものだから、伝統なるものを探ってみたいと思うようになった。
そこで、戦後思潮に大きな変化が生じて解禁された感のあるエドマンド・バークの思想とか、それ以外にもトマス・エリオット、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、フリードリヒ・ハイエクなんかを読んでは、伝統について考える日々をおくった。で、それらの思想にふれての結論をいうと、伝統とは最初から保持されているものではなく、〈再帰的〉にたち現われるものだということだった。〈再帰的〉にたち現れ、自分の生を成り立たせている過去の人びとの営みの総体を示唆してくれる感覚である。一例をあげると、いまこうして〈自由〉に思考することができるのは、自分に先行する言語があるから──わけても連綿と更新されてきた日本語があるからだと気づくようなことである。
今回も川柳の定型──五七五と七七以外のフォルムに挑戦することで、わたしの中でそれらが〈再帰的〉にたち現れたしだいである。