2022年03月02日

四三について

先日おこなった七七句会で気づいたことがあります。それはご投句いただいた全41句のうち、下七が四三調で終わる作品が16句あったということです。四三で終わるとは、たとえば今即興ででっちあげると「角を力ませ 待ってる豆腐」という句があるとします。この下七の「まってる/とうふ」は四三で終わっているということになります。また特選・準特選句にはなかったものの、入選句には四三調で終わる作品が多く見られました。いずれも納得の素敵な入選句です。


川柳の七七句(短句)や連句の世界では、この四三調が忌避される傾向があります。最初にそのことを知ったときは驚きましたよ。七七句をつくりはじめた時分、四三で終わる句を量産していたし、リズムに抵抗感をおぼえたこともなかったからです。はじめて四三の忌避を知ったのは、七七句を理論的に理解したい思い、いろいろな評論を読んだときだったと思います。

連句の世界の四三忌避は門外漢なので何ともいえません。でも川柳七七句における四三調忌避については、本当に試作や議論を重ねた末にできた「お約束」なのか、いぶかしく思っています。だから今回の七七句会のように、不特定多数に開かれた場では、四三の良し悪しは選者や投句者各人の判断に任せればいいと思っています。いやもっと言えば、そのお約束じたいをリセットしてもよいかも知れませんね。

余談ですが、その世界に入ってから初めて知るお約束ってありますよね。たとえば、わたしが作歌を始めた時分のこと。それは今野寿美さんの短歌教室でした。そのときは短歌のことをほとんど知らなかったんで、短歌のお約束を逸した連作を出したことがあります。どういうことかと言うと、自分の気持ちを詠んだ通常の歌のほかに、他者の気持ちを詠んだ歌までつくってしまったのでした。だって小説はそうじゃないですか。たとえ私小説であっても、すべての登場人物は基本的に作者の自作自演ですよね。だもんで、当然短歌もそういうものだと考えていたんでしょうね。まあ当然のことながら、短歌は一人称の文芸なんですよ、と今野さんからやさしく説明していただいた憶えがあります。

話を戻します。外部の人たちに四三調の忌避が通じないことを示す例が、じつは連句の本に載っていました。『連句―そこが知りたい!─』(2003年、おうふう)の70ページにこんなエピソードが書かれているのです。1998年11月5日に宇宙飛行士の向井千秋さんがディスカバリーから発した「宙がえり 何度もできる 無重力」に対して、短歌の下の句を募集したことがあったそうなんです。14万5千点近くの応募があったらしいのですが、国内の入賞作品100点のうち50点が四三調だったということです。たとえば「ほしのピアノで おはなのおうた」という感じです。

さて、前述の本によると、北村季吟は『誹諧埋木』でこう書いているそうです。

耳にもたゝず、きゝよろしきやうにしたて侍るべし。すべて三四をよきにさだめ、四三をあしきに定めたり。二五と五二とは其の句によるべきにやとぞ。

確かに声に出して読むと三四で終わったほうが終止感はあるんです。それは、よくある二音一拍四拍子論でならすぐに説明ができます。

○○/○・/○○/○○
○○/○○/○○/○・

でも、今回は個人的感覚でいってみようと思います。だって理屈と実践は別ですもの。

たとえば、拙句に〈まだ一筆で描ける赤ちゃん〉(まだひとふでで・かけるあかちゃん)というのがあります。これは最後の「あかちゃん」の4音が収まりよく、完結感があると思います。これを「まだひとふでで・あかごはかける」と改作するとどうでしょう。最後の「かける」の3音に少々尻切れトンボっぽさが生じ、散文の断片ようにも感じられるかも知れません。ただし〈まだ一筆で描ける赤子〉(まだひとふでで・えがけるあかご)と名詞で終えたらどうでしょう? 「あかごはかける」よりは完結感が出ていると思うし、個人的には違和感をおぼえません。だとすれば、音数というよりも動詞(用言)と名詞(体言)の問題なのではないか。まして四三調の忌避というお約束を知らず、しかも黙読で「まだ一筆で描ける赤子」を見たらどう感じるでしょうか? わたしならたぶん気にならないと思うんですね。現代は朗詠よりも黙読が優位の時代です。この黙読ということも四三に違和感をいだかなくなった要因だと思うのですが、いかがでしょうか。

もうひとつ、標語の〈飲んだら乗るな乗るなら飲むな〉はどうでしょう。このばあい、人口に膾炙したフレーズなので、四三止めに違和感をいだく人は少ないのではないでしょうか。ただ。それを抜きにしても、読み方次第で違和感などすぐになくなります。仮にCMのナレーションか何かでわたしがこのフレーズを読むとしたら、次のようにします。

のんだらのるな! のるならのむな!

赤字部分は一定を保ちつつゆっくりと溜めるように読み、半音ほどの間(・の部分)を取ったら、最後の青字部分で歯切れよくスパっと言い切るように読むことでしょう。試しにみなさんもそんな風に読んでみてください。ちなみに、この標語は動詞で終わっています。先ほど言ったことと矛盾するようですが、用言止めだから完結感がなくなる、ということではないのでしょうね。これは詩句と標語の違いなのでしょうか。それとも内容が用言止めに合っているのでしょうか。間の取り方や気息の調子も個々人で違いますし、フレーズ内の母音と子音のバランスも関係してくるでしょう。でも、今回はそこまで踏み込むことはしません。以下に山頭火の用言止めの句を引くことで、今後の思索ために種を蒔いておこうと思います。

こころすなほに御飯がふいた  種田山頭火『草木塔』
草の青さよはだしでもどる  〃

ネットの記事なのでごくごく簡単な考察でした。四三調の忌避をすこしでも相対化できていればいいのですが。強調しておきたいのは、四三調の良し悪しは一句ごとの事情に応じて判断されるべきであること、四三調の忌避というのはそれを知らない人には通用しないということです。

それと「週刊川柳時評」の「『川柳スパイラル』大阪句会 (付)短句の四三について」の後半部でも四三調や韻律の研究書について書かれているので、是非参考にしてみてください。

posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月24日

3と5の不思議 短歌はドリフ?

最近、あるテレビ番組で3つのフレーズを重ねたギャグについて分析していた。

じゅんでーす、長作でーす、三波春夫でございます(レツゴー三匹)
わりーね、わりーね、ワリーネ・デートリッヒ(小松政夫)
どーして、どーしてなの、おせーて(小松政夫)
ウェルカム、腕噛む、どこ噛むねん(村上ショージ)
あのさ、僕さ、あどっこいさ(チャーリー浜)
しまった、しまった、島倉千代子(島木譲二)
だめよ、だめよ、だめなのよ(島田一の介)
ラーメン、つけ麺、僕イケメン(狩野英孝)
1ドル、2ドル、くいコンドル(堀内健)


リアルタイムで知らないギャグや吉本新喜劇のローカルなギャグがあるものの、どれも聞いたことがある。これが3つのフレーズを重ねた効果なのか。あと番組では出てこなかったけど、ダチョウ倶楽部・上島竜兵の熱湯風呂「押すなよ、押すなよ、絶対に押すなよ!」も三段で言うことが多い。おなじく「くるりんぱ!」も「くる、りん、ぱっ!」という三段のリズムを感じる。ピコ太郎の例の曲でも「アッポーペン、パイナッポーペン、ペンパイナッポーアッポーペン」となっている。もしかしたら三段重ねってグローバルに通用するものなのか。

その番組では三段重ねのギャグについて、三代続く国語学者の金田一秀穂氏が「掛詞」と「リズム」の面から説明していた。確かに駄洒落だけだと心許ないけど、三段のリズムによってギャグへ昇華させている気がする。

あと金田一氏はこうも言っていた。文字を知らない人が大勢いた時代は、何かを記憶するために七五調にしたのだと。七五調は詩や歌といってもいい。この「調子」が記憶装置になるんだそうな。「一富士 二鷹 三茄子」「巨人 大鵬 卵焼き」「笑う 門には 福来たる」「鳴くよ ウグイス 平安京」というようにね。だからギャグも三段重ねにすると憶えやすく、ついついマネしたくなるということだった。

川柳でも掛詞を使ったり韻を踏んだりすることはある。ただギャグとは違うので三段重ねのフレーズにすることは少ない。とはいえ、通常の川柳は3つのパートからなっているので、上五と中七で伏線を敷いておき、下五にドン! と読み手をつかむ表現を置くことはある。

マルクスもハシカも済んださあ銭だ  石原青竜刀

「マルクス」「ハシカ」という伏線があるからこそ最後の「銭」が効いてくる。これを「さあ銭だマルクス・ハシカはもう済んだ」としたらどうか。感じ方は人それぞれだろうけど、わたしはインパクトが弱くなった気がする。

サラリーマン川柳なんかはより一層、駄洒落とリズムを駆使したものが多いんじゃなかろうか。

「空気読め!!」 それより部下の 気持ち読め!!  のりちゃん

第21回の一等作品。

ところで、短歌は5つのパートからなっているけど、5の効果ってあるのだろうか。それでふと思い出すのはザ・ドリフターズだ。短歌ってドリフの団体芸に通じるものがありはしないだろうか。「8時だヨ!全員集合」を見たことのある人ならわかると思うのだけど、ドリフは最初にいかりや長介が出てきて仕切り、そのあと高木ブー→仲本工事→加藤茶と登場してきてボケの度合いが強くなり、最後に志村けんで超ド級のボケがくる。短歌に当てはめるとこんな感じか。

初句(長介)→二句(ブー)→三句(工事)→四句(茶)→結句(志村)

ドリフは台本通りにコントを進めることで有名だけど、加藤茶だけはアドリブを入れてくると言われている。そういえば短歌の世界では、四句目は八音でも許容されがちだ。と、無理やりこじつけてみたけれど、そのうち「短歌はドリフ」というテーマで歌論を書いてみようかしら。
posted by 飯島章友 at 21:00| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月25日

言葉と肉体

三島由紀夫が『太陽と鉄』にこんなことを書いている。

 つらつら自分の幼時を思いめぐらすと、私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまでさかのぼる。世のつねの人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであろうに、私にとっては、まず言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は云うまでもなく、すでに言葉にむしばまれていた。
 まず白木の柱があり、それから白蟻が来てこれを蝕む。しかるに私の場合は、まず白蟻がおり、やがて半ば蝕まれた白木の柱が徐々に姿を現わしたのであった。
(『三島由紀夫スポーツ論集』・岩波文庫より)

 川柳も前句付が発祥という歴史に鑑みると、まず言葉がある。言い換えれば、まず白蟻がいる。だから、肉体という現実的感覚を川柳に付与するときにはもう、それは半ば蝕まれている。いや、その「現実的」じたいも言葉によって呼び覚まされたのであれば、最初から言葉に侵食されている。

三島が15歳のときの自分を批評した短編『詩を書く少年』には、「まず言葉が訪れ」たかのような主人公が描かれている。

自分のまだ経験しない事柄ことがらを歌うについて、少年は何のやましさをも感じなかった。彼には芸術とはそういうものだとはじめから確信しているようなところがあった。未経験を少しも嘆かなかった。事実彼のまだ体験しない世界の現実と彼の内的世界との間には、対立も緊張も見られなかったので、いて自分の内的世界の優位を信じる必要もなく、る不条理な確信によって、彼がこの世にいまだに体験していない感情は一つもないと考えることさえできた。なぜかというと、彼の心のような鋭敏な感受性にとっては、この世のあらゆる感情の原形が、ある場合は単に予感としてであっても、とらえられ復習されていて、爾余じよの体験はみなこれらの感情の元素の適当な組合せによって、成立すると考えられたからであった。感情の元素とは? 彼は独断的に定義づけた。「それが言葉なんだ」
(『花ざかりの森・憂国――自選短編集――』・新潮文庫より』)

感情の元素の組合せ=言葉の組合せ次第で、未経験なことであっても経験したかのように成立させられる。少年にとっての言葉は、しち面倒臭い経験=肉体という手続きを踏むことなしに現実を構築できるものだった。しかし、そんな少年も最後、「僕もいつか詩を書かないようになるかもしれない」と変化の兆しをみせ、物語は終わる。

言葉が先に訪れた三島由紀夫自身も、彼の死までの道程を見るに、けっして言葉に安住してはいなかった。いや、三島ほど言葉と肉体の相克を乗り越えようとしなくとも、詩歌の創作者は多かれ少なかれ、「詩を書かないようになる」予感を持ちつづけるものではないだろうか。それなしに惰性で何十年も創作をつづけられる人を、わたしは想像できない。
posted by 飯島章友 at 23:58| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月03日

ホゲ〜と言葉の力

学生の頃、部活の仲間2、3人とくっちゃべっていたときだ。脈絡は定かでないのだが、わたしはこんな問いかけをした。「ジャイアンの歌声って何でホゲ〜なんだろう」と。

人気漫画とはいえ、たとえば『らんま1/2』や『幽☆遊☆白書』のばあい、相手が知っているかどうか探ってからでないと会話ができない。しかし、『ドラえもん』『ルパン三世』『サザエさん』のキャラは誰もが知っているので、雑談にはもってこいだ。

わたしとしては、それほど深い意味もなくホゲ〜を問うてみたのだが、これが意外に盛り上がった。3人が5人に、5人が8人に、8人が13人へと話し手が増えていき、その後も部活内では何日間かホゲ〜の話で盛り上がった。ホゲ〜には人を無関心にさせない何かがある。

人間の歌声を「ホゲ〜」と描き文字にする。ジャイアンリサイタルに大文字で付されたホゲ〜〜を見ていると、音こそ聞こえないものの、ジャイアンの歌声の破壊力、拷問性、独善感が存分に伝わってくる。と同時に、それをうな垂れながら聞いているのび太らの被虐、忍苦、絶望感も痛いほど伝わってくる。

ところが、いざアニメーションのほうでジャイアンの歌声を聞いてみるとどうだろう。マンガ版ほど度外れな破壊力が感じられないのだ。エコーをかけてその破壊力を表現しようとしているものの、特にどうということはない。まあ、視聴者に実害が出たら大問題だし、再現できるわけはない。だがそういう事情を差し引いても、視覚的な擬音が物理的な歌声よりも破壊力があるのは驚きである。

音と言葉。音楽と文学。一見すると音のほうが刺激や印象が強いように思われるけど、あながちそうとは言い切れないのだろう。「言葉の力」を見くびることはできない。

ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む  川合大祐
posted by 飯島章友 at 23:00| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月14日

矢崎藍著『平成つけ句交差点』

『平成つけ句交差点――あなたの77、私の575』 (矢崎藍著/筑摩書房/1996年)

この本は連句人・矢崎藍さんによる「つけ句」の本です。つけ句、つまり前句が五七五なら附句として七七を、前句が七七なら附句として五七五を作るものです。要するに前句附ですね。

各章とも、一つの前句に複数の人がつけた句が掲載されています。例えばこんな感じです。何句か引用させていただきます。

 好きですといわれてみたい夏の宵  孔美子

 彼の化身か蚊がチクリ刺す  柴田美和
 衰え知らぬ湯上がりの肌  上野喜美
 花火が映る君のマジな  平下真紀子
 桃の葉蔭はかげをひとつ蛍が  森みち
 昼間の熱を秘めた川石  上條千史
 オイとチョットで半世紀過ぎ  藤子
 ハタリと変わるデジタル時計  榊原由美

本書は連句の枠内でのつけ句なので、前句とセットでなければよさが分からない句と、川柳のように一句立てで読める句があります。「ハタリと変わるデジタル時計」は上手いと思うのですが、前句が前提された句ですね。

また情緒が連句っぽく感じられる句もあれば、川柳っぽく感じられる句もあるように思います。「昼間の熱を秘めた川石」は、この中でいちばん気に入っている句なのですが、多数派の柳人が作る短句(七七句)とは趣がちがう気がします。

川柳が文芸の一分野として独立するきっかけとなったのは前句附興行です。こうしてつけ句専門の本を読むと、一句立てで鑑賞する「川柳文芸」が成立した理由を実感できるのです。と同時に、短句も十分独立できる句型だと実感できるのであります。
posted by 飯島章友 at 23:40| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする