2021年10月24日

所謂現代川柳を考える/飯島章友

◆はじめに
『はじめまして現代川柳』(小池正博 編著、書肆侃侃房、2020年)が発行されて以降、それまでにまして「現代川柳」という言葉が使われるようになった気がします。でも現代川柳って何? ただの川柳とどう違うの? という問いを持つ方もいらっしゃると思います。わたしも長年その言葉が気になっていました。そこで今回、2年前、『川柳杜人』に寄稿した飯島章友の「所謂現代川柳を考える」をアップすることにします。ネット上で読むと「何コイツ? 偉そう」と自分でも感じちゃいます。でも、専門誌に載せる小論ってのはこういうもんなんです。こりゃもう、どうしようもないんですよ! なので、そのへんの事情を斟酌してお読みくださいませ。

──ここより本文──

一、現代川柳の現代とは何か
 私は2009(平成21)年から川柳を作りはじめた。同じ年だと思うが、現在の川柳がどんな表現をしているのかを知りたくて、川柳アンソロジーを数冊購入した。その中でも特に読み込み、現在も活用しつづけているのは、『現代川柳鑑賞事典』(田口麦彦 編著/三省堂/2004年)と『現代川柳の精鋭たち 28人集─21世紀へ』(樋口由紀子・大井恒行 編集協力/北宋社/2000年)だ。
 ところで、当時この二冊を読んでみて、あれ? と思うことがあった。というのも、前者には250名の作家が収録されているものの、表現のレベルにばらつきがあり、短歌であれば、新聞歌壇や商業誌の読者投稿欄に載っているような事実報告調の作品も散見されたからだ。おそらく同書における現代川柳とは、今日書かれている川柳全般、という意味合いだろう。それに対して後者に収録されていた川柳は、これまでの私が見たことのない表現も多数あり、得体の知れない不気味さと妖しい魅力を兼ね備えていた。同書における現代川柳には、何か特別なニュアンスが込められているように思えた。
 私は川柳をはじめる前から短歌を書いていたのだが、歌壇でも「現代短歌」なる言葉を目にする。しかしそれはほぼ、今日書かれている短歌全般、という意味合いでしかない。短歌と川柳とでは、「現代」へ込めるニュアンスに振り幅の違いがあるようだ。私が興味あるのは、『現代川柳の精鋭たち』のような作品を指す所謂「現代川柳」である。それは、今日書かれている川柳全般、という以上にどんな意味合いをもっているのだろうか。
 『現代川柳の精鋭たち』で解説を担当している俳人の堀本吟が次のように書いている。

 さて、いかがであろうか? 日常や私性の切り口が、ただこれだけのメンバーにあっても、それぞれじつに陰影の濃淡。喩の導入、喩の排除。私性への執着、私性の解体の気配。真面目さの徹底、滑稽の強調。社会への批評眼、無作為の作為。こういう模索の過程全体を「現代川柳の現在」、と呼ぶべきだ。

 確かに同書に参加している柳人──杜人の加藤久子、佐藤みさ子、広瀬ちえみも含む28名──の方法論を見ると、「模索の過程」を感じさせる。要するに、一般世間がイメージする川柳に比べ言語操作にウェートが置かれており、まるでかつての前衛短歌やニューウェーブ短歌にも似た前進性と熱量の高さを感じさせる。
 そういえば、「現代的」「近代的」という意味の英語はModernだが、これは単なる時代区分を超えた特別な観念がまとわり付いている。西部邁著『昔、言葉は思想であった──語源からみた現代』(時事通信出版局/2009年)で「モダン」のパートを参照してみよう。

 モダンは「モード」(流行の様式、mode)に、さらには「モデル」(模範の形式、model)ということを意味しております。他方、近代というのは「最近の時代」ということにすぎないのです。もちろん、いつの時代にも「流行の模型」というのがありますので、モードにもモデルにも、それをことさらに取り上げるについては、「最新の」ものであるという意味が伏在してはおります。しかし、それらの言葉の主たる意味はあくまで「形式」といったほうにあるのです。忘れてならないのは、「最新流行の模型様式」を重んじること、それがモダンだということです。
 なぜそれが「重んじられる」のでしょうか。そこには、もちろん、最新様式が「良いものである」という「ドグマ」(独断、dogma)があります。「新しいのは良いことだ」というのは文字通りのドグマです。というのも、ドグマとは、元々は、「良いように思われること」ということだからです。換言すると、モダンという言葉それ自体に進歩主義の意味合が込められていることになります。

 モダン、つまり近代や現代には「進歩主義の意味合が込められ」るのだ。これは「現代アート」や「現代思想」を想起すればじつに分かりやすい。してみると、現代川柳という言葉にも、現代に書かれている進歩的な川柳、といった意味合いが込められてくるのではないか。もっとも、いまどき進歩的というと逆に陳腐だったり、戦後の進歩的文化人のドグマを想起したりする向きもあるだろう。なので、ここでは現代川柳をひとまず、「現代に書かれている前進的な川柳」と定義しておこう。

二、現代川柳に込められたそもそもの意味合い
 1962(昭和37)年に刊行された河野春三著『現代川柳への理解』(天馬発行所)では、「現代川柳」という呼称が使われるようになった経緯が次のように述べられている。

 現代川柳という名で呼ばれる私達の川柳の歴史はさほど古いものではない。意識的に現代川柳≠ニいう名を標榜する雑誌が表われたのは昭和三十年以後のことで、それまでは、たとえそういう名が用いられていたとしても、それは伝統川柳に対して、はっきりと革新性・前衛性を示すためにつけられたものとはいい難い。
 昭和三十一年に創刊された天馬≠フ第2号の座談会でこのことに触れているが、その呼称を意識的に進歩的な川柳の普遍的なものとすることを提唱したのはその時であり、のちに現代川柳作家連盟が生まれるに及んで、この呼び名は一般に普及すると共に、その意義が伝統川柳と一線を引くところに見出されるようになつたといえよう。

 ここで現代川柳に込められた意味合いとしてポイントになるのは、「伝統川柳に対して、はっきりと革新性・前衛性を示す」「その(現代川柳の)呼称を意識的に進歩的な川柳の普遍的なものとする」「その(現代川柳の)意義が伝統川柳と一線を引くところに見出される」といったところだろう(上記のかっこ内は筆者)。これらをまとめて簡潔にいうと、「伝統川柳と一線を引いた進歩的な川柳」となるだろうから、河野春三も西部邁と同様、現代に「進歩主義」のニュアンスを込めているようだ。
 伝統川柳と一線を引く。なるほど。ただ私自身は、所謂伝統川柳が本当に伝統的かどうかに疑念を抱いている。というのも、江戸時代全般の川柳を見てみると、音の響き、省略、文句取り(本歌取り)、縁語・掛詞、句跨り、見立てなどにおいて、近現代の伝統川柳が否定してきた技術がたくさん見出されるからだ(「川柳スープレックス」内の「喫茶江戸川柳」を参照)。これには、イヤ伝統というのは三要素からなる初代川柳点の伝統だ、という弁明があるかもしれない。それなら分からないでもない。しかし、もしそうであれば、川柳二百ウン十年といわれる歴史は成り立たない。初代川柳時代を偏重するとき、川柳とその後の狂句を別分野と見るのが一般的だからである。してみると伝統川柳とは、せいぜい阪井久良伎からの伝統となる。したがって、明治にはじまった時事川柳や私性川柳、そして遅くとも大正末期にはじまった詩性川柳と比べてみても、歴史の長さはさほど変わらないのではないだろうか。
 ついでにいえば、伝統とは、過去から運ばれ来った成果を現在において(慎重に漸進的に)更新し、その成果を未来へつなげていく歴史的継続性である。だから初代川柳点や六大家のスタイルを変えないように受け継ぎたいばあい、伝統というよりも伝習といったほうがいいのではないか。
 話を戻そう。現代川柳に込められていたそもそもの意味合いが分かったところで、次に現代川柳の立場を春三がどう定義したかも、『現代川柳への理解』から引いておこう。

一、現代人としての意識に目覚め、現代人の手で、現代人の感覚によつて川柳を作つて行くこと。
一、川柳を非詩の立場でなく、短詩ジャンルの一分野として確立して行くこと。
一、根底に批判精神をもつこと。
一、内容の自由性を要求すること。
一、日記川柳・報告川柳・綴り方川柳の名で呼ばれるトリヴイアリズムを排撃すること。
一、必ずしも5・7・5の一定のリズムでなしに、自分の内部要求に即応した短詩のリズムを見出してゆくこと。
一、作句の上にイメージを尊重すること。
要するに、一番重要なことは現代人としての意識、感覚による現代川柳でなければ意義がないということである。

 抽象的な条件が並んでいるが、『現代川柳への理解』には、これらをより掘り下げた春三の主張が書かれている。が、いまここでは、現代川柳の立場を春三がどう考えていたか、その雰囲気だけでも伝われば十分だと思う。
 引用の最後の部分からも分かるように、どうやら最初の「一、現代人としての意識に目覚め、現代人の手で、現代人の感覚によつて川柳を作つて行くこと」が、現代川柳にとっていちばん大事なことのようだ。
 河野春三の考える現代川柳観を要約すればこうなるだろうか。現代川柳とは、「伝統川柳と一線を引き、現代人としての意識や感覚をもって作る進歩的な川柳」。
 いま「現代川柳」の冠をつけた柳誌は、時実新子系の『現代川柳』(渡辺美輪)、『現代川柳かもめ舎』(川瀬晶子)、片柳哲郎の創刊した「現代川柳 新思潮」が改題された『現代川柳 琳琅』(杉山夕祈)があり、また最近まであった柳誌としては『現代川柳 隗』(山崎蒼平)、『現代川柳点鐘』(墨作二郎)がある。時実新子、片柳哲郎、山崎蒼平、墨作二郎はいずれも、河野春三や中村冨二の時代に現代川柳の真っただ中で活動した。そんな柳人たちや教え子たちが、ただの川柳ではなく「現代川柳」と名乗るからには、春三の現代川柳観と通底するものを何ほどか込めているのかもしれない。

三、現代川柳という言葉を使う理由
 私自身は、川柳を語るとき通常、「川柳は〜」と言っている。川柳は川柳であって、短歌でも俳句でも連句でも都々逸でも五行歌でもないから当然だ。しかし、まれに「現代川柳は〜」ということもある。現代川柳と呼ぶ代わりに「言葉派の川柳」だの「詩性川柳」だのということもある。
 私に限らず、ある程度キャリアを積んだ柳人であれば、便宜的に現代川柳・伝統川柳などと区分けすることがあるのではなかろうか。2019(令和元)年5月5日に行われた「川柳スパイラル」東京句会で、選者をした津田暹が披講の際、すこし伝統寄りですが、といったことを前置きしていた。ご本人に訊ねたわけではないのだが、スパイラル誌の作風を現代川柳的と見なしたからかもしれない。
 では、なぜ私は、意識的にせよ無意識的にせよ、「現代川柳」などと呼ぶことがあるのか。
 ひとつめ、これは河野春三と被るかもしれない。一般に現在の伝統川柳は、世間に流布している平均的な価値観で作句されることが多く、ネタバレした推理小説を読むのに似た印象をもつ。そのため、ネタバレ川柳と創作としての川柳──新味があり、前進的で、表現の模索を感じる川柳──とを区別する意図で「現代川柳」と呼ぶことがあるのだ。あるいはこうもいえる。内容が現実的だろうが非現実的だろうが、文体が平明だろうが非平明だろうが、平板な内容から半歩でも抜け出た川柳が標準になってほしい、という願いを込め、敢えて「現代川柳」と呼ぶことがある。このばあい、川柳を短歌・俳句と同等に考えているからこそ、歌人・俳人レベルで標準を設定しているわけだ。
 なお先ほど、ことさら「現在の伝統川柳」と限定したのは、昔の伝統系柳人の作品は面白いからである。川上三太郎、岸本水府、麻生路郎、大山竹二、岩井三窓、橘高薫風などの川柳には好きな句が多い。
 ふたつめ、これは河野春三ら昭和の現代川柳家からの慣習だと思うが、現在でも前進的な川柳を「現代川柳」と呼ぶことが多く、そのため使い勝手がいいのである。たとえばだ。Twitterに投稿されているツイート(つぶやき)を検索できるサービスが幾つかあって、試みにそこで「現代川柳」を検索してみる。すると、川柳スパイラルとか時実新子系の作風を指して「現代川柳」といっている人たちがいる。しかも、川柳界の外部の人までがそうだ。これは現代川柳という言葉を使うことで、春三がいうところの日記川柳・報告川柳を対象外にし、前進的な川柳や私性の川柳を指示しようとしているのではないだろうか。どうも雰囲気からするとそうである。
 現代川柳という言葉は、今日書かれている川柳全般、という意味で使われるのが第一義に違いない。が、けっしてそれだけでもない。河野春三の現代川柳観は、時代の変化で濃度こそ変わっているものの、現在でも有効だと思う。

四、現代川柳はいつまでつづく
 昭和30年以降、現代川柳という言葉が使われつづける理由は、ここまで見てきたように、川柳界独特の事情があるようだ。つまり既成川柳の多くが、世間に流布している平均的な価値観や平板な表現で書かれてしまっているため、それに飽き足らぬ柳人が「現代川柳」というのだ。
 いっぽう、現在の歌壇で、前進的な意味での「現代短歌」という使われ方がほとんどないのは、あまりその必要性がないからだと思われる。たとえば、私はこれまで短歌の入門書を五、六冊読んできた。それらに共通するのは、(表現こそ違うが)通俗から抜け出しなさい、というアドバイスだった。穂村弘著『短歌という爆弾─今すぐ歌人になりたいあなたのために─』(小学館/2000年)も同様だ。要約してみよう。
 穂村によると、専門歌人の短歌には「共感」と「驚異」という、読み手を感動させる二つの要素がある。共感は、初心者がまず目指すべきところなのだが、いかんせん彼らの表現には驚異がない。その結果、目指していた共感性からも遠のいてしまうというのだ。また穂村は、驚異がない歌を「コップのように上から下までズンドウの円筒形」だと喩え、驚異のある歌は「砂時計のようにクビレをもったかたち」だと喩える。具体的には次のとおり。

 ふるさとの訛なつかし
 停車場の人ごみの中に
 そを聴きにゆく  石川啄木

 この場合は、「そを聴きにゆく」という読者の意表をつく能動性が、クビレとして機能して、この一首を支えている。ここからクビレを奪った次のかたちと比較してみよう。

 停車場の人ごみの中に
 ふと聴きし
 わがふるさとの訛なつかし 改作例

 光景としてはこちらの方が普通なのだが、原作の切迫感が消えて、なつかしさの度合いがずっと弱くなっていることに気づくだろう。
(筆者註:引用歌のルビは省いた)

 現在の川柳に、クビレを奪った後者の歌と同レベルの作品がないと言い切れるだろうか。当然、私の川柳も含めて。
 できるなら「現代川柳」なる言葉は、今日書かれている川柳全般、という意味だけで使われるようになってほしい。だからこそ、これからも真剣に川柳で遊んでいくつもりだ。

※初出『川柳杜人』2019年夏・262号。なお数字の表記や当時と異なる結社名など、多少の加筆修正をしました。
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2021年03月04日

【現代川柳にアクセスしよう】現代川柳発見/飯島章友

◆はじめに
 この文章は2018(平成30)年8月1日発行「川柳スパイラル」第3号の特集〈現代川柳にアクセスしよう〉へ寄稿したものです。この3年間に変化したことも多いので加筆修正をしてあります。
 『はじめまして現代川柳』や『金曜日の川柳』が発売されたことで川柳に関心をもつ方が増えたと思います。そこで、これから川柳を知っていきたい、川柳と関わっていきたいという方々の参考になるよう、この記事をアップすることにしました。
 現在、2020年からのコロナ禍によって社会の状況が変わり、句会が休会になっていたり、句会のやり方が執筆時と違っていたりするケースもあります。しかし、いずれ騒動が終息すれば元に戻っていくとわたしは考えています。

──ここより本文──

 本稿ではまず川柳グループについて筆者の知っていること、考えていることを述べ、そのあと現代川柳に関わる文献、ウェブサイト、出版社、書店をリストにしてみたい。

◆川柳グループに入るメリット
 現在の川柳は、インターネットの句会やSNSで容易に同好の士を見つけられる。だが、よりディープな創作の世界に身を置きたいと思うこともあるだろう。そんなとき、結社や同人誌といった「川柳グループ」が気になってくる。
 川柳グループに入るメリットとは何か。筆者が考えるにそれは五つある。

 @川柳誌という自分の作品を発表する場ができる
 A作品の選句や鑑賞文を通じて評価を受けられる
 B句会、勉強会、吟行などの参加資格が得られる
 C句会などを通じて直に作品を批評してもらえる
 D川柳の読みを誌の鑑賞欄や句会から吸収できる

 ちなみに、川柳グループに入らなくても参加できることなのでここには入れなかったが、川柳グループには年に一度大会を開催するところもある。川柳の大会は開放的で、別のグループの柳人も気軽に参加してくる。他流派の柳人と句会で競い合うことができる上、二次会では直に社交ができるため、とても刺激的なのだ。

◆川柳グループを選ぶ際の基準
 次にどのような基準で川柳グループを選べばいいのか、筆者の考えを述べてみたい。大切なのは次の三つだ。

 @自分の好きな柳人が所属していること
 A鑑賞文や川柳評論が充実していること
 B通える距離で句会が開かれていること

 どういったことなのか少し説明しよう。
 @について。自分に適した川柳グループを選ぶにあたって最も手堅いのは、自分の好きな柳人が所属しているところを選ぶことだ。なぜなら自分の好きな柳人がいるということは、自分の好みの作風が受け入れられると期待できるからだ。また自分の好きな柳人と同じ場に属することで創作意欲は格段に上がるだろうし、近くからその柳人の技術やセンスを吸収することもできるのだ。
 Aについて。川柳グループは単に作品発表の場というだけではなく、「読み」の能力を涵養する場でもある。その意味で誌面に鑑賞文や評論が充実しているかどうかは重要なチェックポイントだ。それゆえ見本誌は事前に取り寄せてみたい。加えて、句会できちんと相互批評が行われているかどうかも確認したい。入会前に句会へ出ることができるのならば是非とも参加してみてほしい。
 Bについて。川柳グループにおいて柳誌の次に大事なのが「句会」である。フェース・トゥ・フェースで仲間とコミュニケーションをもつことは、座の文芸といわれる川柳の醍醐味だ。自分の作品が選者によって披講され、呼名するときの快感が忘れられずに川柳を続ける人も少なくない。そのような訳で、通える距離で句会が行われているかどうかはなるべく確認しておきたい。

◆各種川柳文献の紹介
【川柳アンソロジー】
 アンソロジーでは通常、柳人が所属する川柳グループがプロフィール欄に記載されている。アンソロジーで好みの柳人を見つけたら、その人のいるグループのウェブサイトを閲覧したり見本誌を取り寄せたりしてほしい。
 なお古い川柳アンソロジーは柳人の情報が古いばあいや、物故者、終刊した柳誌情報が掲載されているばあいもある。あらかじめ留意しておきたい。

『はじめまして現代川柳』(2020年、小池正博 編著、書肆侃侃房、1800円+税)
 戦前の新興柳人から次世代の柳人まで35名の代表的な76句と、小池正博氏による作品・作家の解説、そして現代川柳小史が収録されている。いわゆる〈現代川柳〉のアンソロジーとしては決定版といえるだろう。
『金曜日の川柳』(2020年、樋口由紀子 編著、左右社、1600円+税)
 「ウラハイ=裏『週刊俳句』」(http://hw02.blogspot.com)に連載してきた「金曜日の川柳」へ加筆修正を行い書籍化した一冊。時代や流派に偏らず選ばれた333句が収録されている。大勢の柳人とその作品を樋口氏の鑑賞文とともに知ることができる。
『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』全三巻(2016年、一巻編:黒瀬珂瀾、二巻編:佐藤文香、三巻編:なかはられいこ、ゆまに書房、1500円+税)
 一作品ごとに選者の解説と作者のプロフィールを記載。短歌・俳句との合同アンソロジーなので留意のこと。
『三省堂新現代川柳必携』(2014年、田口麦彦 編著、三省堂、1800円+税)
 現在活躍中の柳人の川柳をテーマ別に分類し、5000句以上を収録。三省堂の川柳事典はA6判でコンパクト。気軽に持ち運べる。
『三省堂現代女流川柳鑑賞事典』(2006年、田口麦彦 編著、三省堂、1800円+税)
 126名の女性柳人について一句鑑賞、略歴、作家自選20句、作家のメッセージを掲載。
『三省堂現代川柳鑑賞事典』(2004年、田口麦彦 編著、三省堂、1800円+税)
 250名の柳人について一句鑑賞、略歴、代表句10句を掲載。
『新世紀の現代川柳20人集』(2001年、山崎蒼平・野沢省悟 編集協力、北宋社、2500円+税)
 20名の柳人の作品100句とプロフィール、メッセージ、そして山崎蒼平・荻原裕幸両氏の解説が収録されている。先に刊行された『現代川柳の精鋭たち』の二冊目的な位置づけだが、参加柳人の全体的な作風は『精鋭』とだいぶ趣きが違う。2021年3月現在、Amazonや日本の古本屋(https://www.kosho.or.jp)で中古品が手に入る。
『現代川柳の精鋭たち28人集―21世紀へ』(2000年、樋口由紀子・大井恒行 編集協力、北宋社、2500円+税)
 28名の柳人の作品100句とプロフィール、メッセージ、そして荻原裕幸・堀本吟両氏の解説が収録されている。2021年3月現在、Amazonや日本の古本屋で中古品が手に入る。『はじめまして現代川柳』や『金曜日の川柳』が出版される前はこの本が現代川柳アンソロジーの中心だった。

 また手前味噌のようではあるが、筆者を含めた複数の柳人で「川柳スープレックス」というブログを運営している。その中の「今月の作品」欄では、旬の作家の新作八句およびプロフィールを掲載させていただいている。こちらもアンソロジーとして読むことができる(http://senryusuplex.seesaa.net/category/24262134-1.html)。

【句集シリーズ】
 ここでは作家別の句集シリーズを紹介する。シリーズに誰の句集が入っているかは各自インターネットで調べてほしい。

「セレクション柳人」(邑書林、1300円+税、邑書林のオンラインショップはhttp://youshorinshop.com/?mode=cate&cbid=1890002&csid=0)
  ほとんどがSOLD OUTとなりつつあるので、目当てがあれば早めに入手したほうが良い。
「川柳作家ベストコレクション」(新葉館出版、1200円+税、オンラインショップはhttps://www.shinyokan.jp/netstore/products/list?category_id=33)
 『はじめまして現代川柳』の柳人とは趣きが異なる作風が多いので、サイトで紹介されている例句を参考にすると良い。

【川柳評論集】
『川柳×薔薇』(2011年、樋口由紀子 著、ふらんす堂、1600円+税)
 樋口由紀子氏が「MANO」「バックストローク」「豈」などに寄稿した川柳論、句集評、作家論、一句鑑賞が収録されている。このように書くと堅そうな本に思えるかもしれないが、エッセイに近い文体のものも多く、とても読みやすい。
『蕩尽の文芸 川柳と連句』(2009年、小池正博 著、まろうど社、2500円+税)
 「連句と川柳」「川柳論」「川柳作家論」「書評・エッセイ」「『十四字』の可能性」について小論がいくつも収録されている。短詩型文学全体を俯瞰する姿勢が貫かれており、本書を読む前と後とでは何かが変わるはずだ。『川柳×薔薇』同様に必携の評論集だと思う。
『セレクション柳論』(2009年、小池正博・樋口由紀子 編、邑書林、1600円+税)
 第1章「現代川柳の肖像」、第2章「川柳性と川柳の言葉」、第3章「感性と思考」に19名の柳論が収録されている。同書以降、これだけの人数の柳論集は出ていないと思う。邑書林ではSOLD OUTだが、2020年3月現在Amazonでは新品と中古品が売られている。

◆便利な川柳ウェブサイトの紹介
週刊「川柳時評」(https://daenizumi.blogspot.com)
 小池正博氏が運営。川柳時評をほぼ毎週更新する難業を2010年から続けている驚異的なブログ。川柳界の直近の出来事をはじめ、川柳にたいする深い考察や他分野の情報まで話題が多岐にわたっている。川柳関係者は必見。
おかじょうき川柳社(http://www.okajoki.com)
 青森を拠点にしている「おかじょうき川柳社」のホームページ。「杉野十佐一賞」「川柳データベース」「川柳いんふぉ」などコンテンツが充実しているので、現代川柳を志向する人なら月一度は訪れて情報収集したいところだ。
毎週web句会(https://weekly-web-kukai.com)
 柳人の森山文基氏が運営する川柳ウェブサイト。「川柳ブログリンク」の欄は、全国の川柳ブログやホームページが県ごとに纏められている。同じく「WEB句会リンク」の欄は、ウェブで参加できる句会や、ラジオ・テレビの川柳コーナーで、結果がウェブサイトで確認できるものが纏められている。「川柳本アーカイブ」では現在入手困難な柳誌や句集がデジタル化されており、たいへん貴重な場である。
月刊 ★ ねじまき(https://nezimakiku.exblog.jp)
 なかはられいこ氏、丸山進氏、八上桐子氏、瀧村小奈生氏らが参加する名古屋の「ねじまき句会」公式サイト。句会結果報告を中心に各柳誌のレポートもアップされている。
そらとぶうさぎ(https://soratokito.exblog.jp)
 柳人なかはられいこ氏のブログ。川上三太郎『孤独地蔵』、定金冬二『無双』、中村冨二『千句集』を読むことができ、たいへん貴重だ。
〈あほうどり〉(http://blog.livedoor.jp/ssm51)
 「フェニックス川柳会」代表で「ねじまき句会」メンバーでもある丸山進氏のブログ。更新頻度が高く、各地の川柳誌の紹介や大会報告の記事などもよく投稿されているため、川柳界の動きを知る上で参考になる。
s/c(https://sctanshi.wordpress.com)
 現代川柳を中心とした短詩ウェブサイト。短詩作品・一句鑑賞・評論などのコンテンツがある。2010年から湊圭史氏が運営。川柳スープレックスはここを大いに参考にした。
現代川柳bot(https://twitter.com/tadayou575)
 現代川柳の作品が一定間隔で自動ツイートされている。川柳にはアンソロジーが少ないだけに有用なbotだ。
川柳bot(https://twitter.com/senryubot_)
 現代川柳botとはまた違う作品が多数自動ツイートされている。
海馬@現代川柳(https://twitter.com/umiumasenryu)
 2021年1月にスタートしたばかり。こちらも川柳作品がツイートされている。
全日本川柳協会(http://www.nissenkyou.or.jp)
 サイト内の「川柳MAP」では、全国の川柳グループの情報が地域別に掲載されている。ただし協会に加盟しているグループだけが載っていると思われるので、これがすべてではないことを分かった上で参考にしたい。
川柳人協会(https://www.senryujk.com)
 サイト内の「所属吟社一覧」では、協会に加盟している川柳グループの例会開催曜日・時間、例会場所、連絡先が纏められている。ただし、ほとんどが関東のグループだ。

◆川柳が中心の出版社の紹介
あざみエージェント(http://azamiagent.com)
新葉館出版(https://shinyokan.jp)

◆柳誌・川柳句集が置いてある書店
葉ね文庫(http://hanebunko.com)
 大阪の「中崎町」駅近くにある。短詩型文学に関わっている人のあいだではとても有名な書店。作り手と読み手の交流の場ともなっている。

 以上、みなさんが現代川柳を発見するための一助となれば幸いである。
posted by 飯島章友 at 22:00| Comment(0) | 柳論アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月28日

言葉の手触り──現在の言語表現としての川柳   湊圭史 

 川柳の現在はどこにあるか? この問いには二通りの答えかたができる。ひとつには現在書かれている川柳を参照することによって。そしてもうひとつは川柳にいま可能なのはどのような表現かを示すことによって。ここではその二通りを同時に果たすために、短詩型の他ジャンルからの主に二〇〇〇年代の表現と現在の川柳作品とを比べてみたい。

 短詩型の現在を考える場合、まず視野に入れておきたいのは、第二次大戦後のパラダイムから表現の質を大きく変質させた「短歌ニューウェーブ」の存在である。

 「この道はまみのためにつくられたんだ」(神様、まみを、終わらせて)パチン   穂村弘
 つきの光に花梨が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて   岡井隆
 一斉に都庁のガラス砕け散れ、つまりその、あれだ、天使の翅が舞ふイメージで   黒瀬珂瀾

右3首のうち、短歌史上での「短歌ニューウェーブ」作品は穂村の歌だけだが、重要なのは、穂村の句に見られる口語や虚構性の扱い、言葉への冷めた視線がより若い世代の黒瀬らに留まらず、先行世代の岡井にも及んでいることだ。同様の言葉の質を感じさせる俳句をあげると、

 梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど  外山一機
 美しい僕が咥えている死鼠   中村安伸
 白鳥定食いつまでも聲かがやくよ   田島健一

外山、中村、田島の句は従来の枠組みでは「前衛」あるいはその末裔として扱われるだろう。しかし実際には、戦後の「前衛」や「革新」の根本にある言語表現が社会的現実と結びつき、さらにはその革新にもつながるというヴィジョンからはほど遠い。古いタイプ(しかし、自分が今でも新しい「前衛」だと思い込んでいる人種)には単なる言葉遊びと断罪されるところだが、社会的現実とは結びつかない言葉やイメージの手触りこそがこれらの表現が見逃せない理由なのだ。
 川柳においてこの方向で成功しているのは、なかはられいこである。その意味で、なかはらの『脱衣場のアリス』(〇一年)は川柳界にとって決定的な句集だろう。

 他人じゃないよ夢で何度も殺したよ   なかはられいこ
 ウォシュレットぷらいどなんてもういいの
 朝焼けのすかいらーくで気体になるの
 よろしくね これが廃線これが楡

各章の前につけられた短いメッセージ(「からだとこころ、こころとからだ。うそをつくのはいつでもこころ。」「「またね」と手を振って彼女は消えた。雨の匂いがした。」など)も含めて、本の作りからも短歌ニューウェーブの同時代を生きている言葉が伝わる。この句集に続いて同様の本が次々と出なかったことが現在の川柳が他ジャンルより遅れてみえる決定的な理由ではないか。

 だが今からなかはらの真似をしても、すでに過去の(バブル経済期の)亡霊に見えてしまうだろう。大事なのは、こうした表現が示した転回により、従来のものと似てはいるが根本的に位相が異なる表現が表れてきたのを認識することだ。

 好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ   東直子
 寂しいと言い私を蔦にせよ
   神野紗希
 みづうみのみなとのなつのみじかけれ   田中裕明

右の三作品は、従来の視点では、それぞれの方法で「抒情」を目指した表現とみられるだろう。また、

 それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
   笹井宏之
 原子心母ユニットバスで血を流す   田中亜美
 きつねのかみそり迷子になつてゐないふり   太田うさぎ

これらは二〇世紀のシュルレアリスム(超現実主義)と共通した手法を用いている。抒情にしろ、シュルレアリスムにしろ、主観に重きを置き、客観世界ではとらえられない確実性を感情やイメージの中に捉える方向性である。注目したいのは、右にあげた諸作品にはそうした確実さ、言うなれば「真実」への執着が見られないことだ。この点で、これらと先ほど短歌ニューウェーブ的表現としてあげた作品群とは同様の基盤に立っていることが分かる。つまり、社会的現実にしろ、内面的現実にしろ、そうした絶対的基準を喪失した代わりに言葉の自由度を得て、言語作品としての一回性に賭ける表現なのだ。
 川柳において同様の変化をみるためには、従来のシュルレアリスム的表現、例えば、

 縊死の木か猫かしばらくわからない   石部明
 ローソクは鷲を生んでいきました   青田煙眉
 顔のスイッチを入れる 夜を消すのを忘れていた   普川素床

と、一見シュルレアリスム風の小池正博の句、

 贋札を渡すメルヘンのふりをして   小池正博
 島二つどちらを姉と呼ぼうかな
 ジュール・ヴェルヌの髭と呼ばれる海老の足

とを比べてみればよい。前者が意外な飛躍によって一般的現実を離れた現実を指向しているのに対し、小池の句では言葉が一つの方向を目指すようには働いておらず、むしろ、つかみがたい言葉の動きそのものが作品の眼目なのだ。これはどちらの表現が上とかいう問題ではない。ただ言語表現が現在置かれた状況から、従来のシュルレアリスム的表現が力を失くしつつあるとは言えると思う。

 短詩型における別の傾向を考えるとすれば、右のような現実や真実などから離れた表現に対して、逆に、性急に現実とのコンタクトを求めるような方向も見てとることができる。

 たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔   飯田有子
 駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに   中澤系

飯田、中澤の歌は、ここまでストレートに言われては反論ができない、と思わせると同時に、なぜ短歌にしたのかが疑問でもある。現実を捉えたというより、現実に追いつめられた歌の姿だろう。川柳で同様の肌触りを感じるのは、飯田良祐の次のような句だろうか。
 
 ビニール袋の中のカサカサの勃起   飯田良祐
 迂回路にキュウピイさんの行きだおれ

なかはらの句集と同様、現在の社会のシンドさをとらえた飯田の表現も例外的だ。川柳は一般的なイメージとは逆に、時流を掴むのが不得手かもしれない。
 また、シュルレアリスム的なイメージの連結とは違う「省略」による真実の暗示の手法も現在的だろう。

 アザラシのタマちゃんどこかにいるのだがぜんぜん報道しなくなったね   奥村晃作
 ひだまりを手袋がすり抜けてゆく   鴇田智哉

これらの作品は、発話主体の意図が見えないのが気味が悪く、強い印象を残す。この省略の技法は川柳の得意とするところで、実際、次のような例句をあげることが可能だ。

 滑り台怒ったまんま降りて来る   金築雨学
 家を出るときに時計が鳴っていた
 ストローの折れるところを握りしめ   徳永政二
 よくわかりました静かに閉める窓

 こうして書きだすと、一句一句では、川柳は他ジャンルに匹敵する表現レベルと現在性を十分に見せているようだ。そうした達成が点にしかならず、線(系列)や面(ムーブメント)として見えてこないところに現在の川柳ジャンルの難しさがあるように思われる。


(初出は2012年11月25日発行「川柳カード」創刊号 掲載にあたっては著者の許可をいただいております)
posted by 飯島章友 at 00:30| Comment(0) | 柳論アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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