2020年01月31日
2019年09月30日
2016年08月23日
有馬湯女/八上桐子(川柳)×升田学(針金アート)
葉ね文庫・開店1周年プロジェクト・「葉ねのかべ」第四弾、
有馬湯女/八上桐子(川柳)×升田学(針金アート)(葉ね文庫)のトークイベントへ行ってきました。
「葉ねのかべ」とは葉ね文庫の壁面を活用して詩歌人の作品発表の場としていただこう、というプロジェクトです。(葉ね文庫ブログより)
ちなみに
第一弾は高塚謙太郎さんの詩と、はらだ有彩さんの絵によるコラボレーション作品
第二弾は憑依系俳人石原ユキオさんの俳句の展示
第三弾は虫武一俊さんの短歌と三宅愛子さんの写真のコラボレーション作品
今回は、八上桐子さんが、「もし、句集をだすときにこんな装丁ならなんてすてきだろう」と想いを寄せておられた、針金画家・升田学さんにメールを送り、コラボが実現。
升田学さんの「有馬湯女」は、針金1本で構成される絵画的な作品「ヒトスジ」のひとつです。
葉ね文庫のかべに展示された「有馬湯女」のうつくしさに、しばし見惚れました。
下の写真は、升田学さんが撮影されたもの。
升田学さんのサイト、アートーンのリンクを貼る了解をいただいた際、送ってくださいました。

左側にニシメタ?色の布が映っています。
これは八上さんが腰紐を有馬温泉の金の湯にそめられたもの。
その腰紐にさらさらさらっと、これもうつくしい字でエンドレス川柳(下句が、次の句の上句になり。20句目の下句は、1句目の上句になっています)がしたためられています。
八上さんは、「有馬湯女」とのコラボにあたり、有馬温泉に泊まって創作にとりかかられたとのこと。腰紐の色はもっと濃かったのですが、温泉成分で表面がざらざらしていたので洗い、すこし淡くなったそうです。
さて、当日は八上桐子さんの朗読もありました。
有馬湯女20句、しっとり湯気がたちこめているよう。
ね、雨もお湯の匂いがするでしょうあふれる水も息継ぎを惜しんで呼べば鳥の頚ちいさい橋を渡るとき縦に伸縮する時間いつもとおくで鳴く一羽石とひとつの影になる紐をいっぽん結ばれて吊るされて谷深くふかく眼の水ののぞく水にわかに人のざわめきがタンサン坂のはるか上カラスの羽の落ちてゆく湯水も傷の口ひらきからっぽのビン並ばせるうつくしくかつ退屈になぞられている耳の縁おやすみすすすすべり込む列車乾いた舌だった橋も坂も湯も ね、雨も
ね、雨もお湯の匂いがするでしょう/するでしょうあふれる水も息継ぎを/息継ぎを惜しんで呼べば鳥の頚/鳥の頚ちいさい橋を渡るとき・・・・・・とつらなってゆきます。
いいですね。雨、お湯の匂い、鳥の頸、橋、時間、石とひとつの影になる、紐、眼の水の、カラスの羽(有馬湯女の頭に載っているのはカラスだそう。いままでみたなかで一等うつくしいカラスでした)、からっぽのビン、うつくしく退屈に、おやすみすすすすべりこむ。
ぜひ声に出して読んでいただきたいです。
おもしろいお話・ゾクゾク(続々)のトークイベントでした。
↓升田学さんのサイトより、葉ねのかべのイベント紹介
http://www.a-t-n.jp/topics/2016/08/_811thu1010mon.html
↓来月9月8日から10月31日迄、有馬温泉街にあるガレリーア・レティーロ・デ・オーロにて個展「私とカメと対岸の空」を開催されます。
http://www.a-t-n.jp/topics/2016/08/_98thu1031mon.html
有馬湯女/八上桐子(川柳)×升田学(針金アート)(葉ね文庫)のトークイベントへ行ってきました。
「葉ねのかべ」とは葉ね文庫の壁面を活用して詩歌人の作品発表の場としていただこう、というプロジェクトです。(葉ね文庫ブログより)
ちなみに
第一弾は高塚謙太郎さんの詩と、はらだ有彩さんの絵によるコラボレーション作品
第二弾は憑依系俳人石原ユキオさんの俳句の展示
第三弾は虫武一俊さんの短歌と三宅愛子さんの写真のコラボレーション作品
今回は、八上桐子さんが、「もし、句集をだすときにこんな装丁ならなんてすてきだろう」と想いを寄せておられた、針金画家・升田学さんにメールを送り、コラボが実現。
升田学さんの「有馬湯女」は、針金1本で構成される絵画的な作品「ヒトスジ」のひとつです。
葉ね文庫のかべに展示された「有馬湯女」のうつくしさに、しばし見惚れました。
下の写真は、升田学さんが撮影されたもの。
升田学さんのサイト、アートーンのリンクを貼る了解をいただいた際、送ってくださいました。

左側にニシメタ?色の布が映っています。
これは八上さんが腰紐を有馬温泉の金の湯にそめられたもの。
その腰紐にさらさらさらっと、これもうつくしい字でエンドレス川柳(下句が、次の句の上句になり。20句目の下句は、1句目の上句になっています)がしたためられています。
八上さんは、「有馬湯女」とのコラボにあたり、有馬温泉に泊まって創作にとりかかられたとのこと。腰紐の色はもっと濃かったのですが、温泉成分で表面がざらざらしていたので洗い、すこし淡くなったそうです。
さて、当日は八上桐子さんの朗読もありました。
有馬湯女20句、しっとり湯気がたちこめているよう。
ね、雨もお湯の匂いがするでしょうあふれる水も息継ぎを惜しんで呼べば鳥の頚ちいさい橋を渡るとき縦に伸縮する時間いつもとおくで鳴く一羽石とひとつの影になる紐をいっぽん結ばれて吊るされて谷深くふかく眼の水ののぞく水にわかに人のざわめきがタンサン坂のはるか上カラスの羽の落ちてゆく湯水も傷の口ひらきからっぽのビン並ばせるうつくしくかつ退屈になぞられている耳の縁おやすみすすすすべり込む列車乾いた舌だった橋も坂も湯も ね、雨も
ね、雨もお湯の匂いがするでしょう/するでしょうあふれる水も息継ぎを/息継ぎを惜しんで呼べば鳥の頚/鳥の頚ちいさい橋を渡るとき・・・・・・とつらなってゆきます。
いいですね。雨、お湯の匂い、鳥の頸、橋、時間、石とひとつの影になる、紐、眼の水の、カラスの羽(有馬湯女の頭に載っているのはカラスだそう。いままでみたなかで一等うつくしいカラスでした)、からっぽのビン、うつくしく退屈に、おやすみすすすすべりこむ。
ぜひ声に出して読んでいただきたいです。
おもしろいお話・ゾクゾク(続々)のトークイベントでした。
↓升田学さんのサイトより、葉ねのかべのイベント紹介
http://www.a-t-n.jp/topics/2016/08/_811thu1010mon.html
↓来月9月8日から10月31日迄、有馬温泉街にあるガレリーア・レティーロ・デ・オーロにて個展「私とカメと対岸の空」を開催されます。
http://www.a-t-n.jp/topics/2016/08/_98thu1031mon.html
2016年08月11日
「飯田良祐句集を読む集い」
過日、7月30日、
「飯田良祐句集を読む集い」(発起人 くんじろう・小池正博 / ゲスト岡野大嗣)へいってきた。
http://senryucard.net/archives/651
飯田良祐さんは伝説のひとだ。
はじめて読んだのは、高田銀次さんが作られた「飯田良祐集」。縮緬状の高級落とし紙?を麻紐で閉じた個性的な句集は、何かの拍子に溶けてしまいそうなあやうさもあり、取り扱いには緊張をともなう。
今回の集い第一部は、『実朝の首』(川柳カード叢書)を語る、である。
集いの案内には「飯田さんの句が孕んでいる、早退の帰路にガラ空きの電車から見る夕焼けのような痛み」という岡野さんのコメントがあった。アウトサイダー感に染みる美しさの痛み、というところなのだろうか。
青字は、レジュメより。
岡野さん選の句のほとんどが、わたしにはさほど印象の強くないもので、小池さん選のものは、ああ、これ!膝を打ちたくなるものだったこと。その違いが、まずおもしろかった。
【飯田良祐の10句】岡野大嗣選(数字は江口が振ったもの)
@下駄箱に死因AとBがある
Aバスルームに玄孫もいつか水死体
Bポイントを貯めて桜の枝を折る
C母の字は斜体 草餅干からびる
D吊り下げてみると大きな父である
E百葉箱 家族日誌は発火する
F当座預金に振り込めと深層水
G言い訳はしないで桶に浮く豆腐
H沸点ゼロで羽化 名前のない鳥
Iきっぱりとことわる白い白い雲
【飯田良祐の5句】小池正博選
パチンコは出ないしリルケ檻の中
ハハシネと打電 針おとすラフマニノフ
二又ソケットに父の永住権
自転車は白塗り 娼婦らの明け方
げそ天のひとり立ち滂沱の薄力粉
第一部『実朝の首』を語るは、岡野さん選の10句の読みを中心に進められた。
その岡野さんの読みがおもしろかった。
@下駄箱という空間Aバスルームという空間にフォーカスしている。
@下駄箱という空間のほこりっぽい匂いもしそうでおもしろい。ふだん目につかない死因がぺろりとそこにある。Aバスルームをあけると幻のひしゃごの死体がそこにある。死をおそれていても死はすぐそこにある。
Bポイントをためることはカルマを払う行為か。ポイントをためることで、桜をおるという悪しき行為をチャラにしているのではないか。C母が書く癖のある斜体の文字。見る人が書き手へ抱く感情によって、癖字はいやなものにもそうでないものにも変わる。草餅が干からびていることから母への感情が感じとれる。Dひょっとして、ふとん?E手掛かりとして調べてみると「家族日誌」はマストロヤンニの映画のタイトル。飯田良祐は映画をみていたのではないか。「家族日誌」という普通のことばに見える固有名詞をほうりこむのは短歌でもよくする手法。GIの句について、句集のなかにふっと弱いものやわらかいもの(豆腐・白い白い雲)に自身を投影しているような句があるところが魅力と言われた。
またH「沸点ゼロで羽化 名前のない鳥」では、あたためられずに羽化した自分か、と。
等々、岡野さんの、視界のきかない森を、言葉をたよりに歩むかのようなゆっくりとした読みは、非常に丹念なものだった。(言葉を信じて。必ず森は抜けられる)言葉がそこにあれば、真正面から意味を問う。たとえば「深層水」である。Fの深層水、岡野さんは擬人と言われた。対して小池さんが、言葉に意味やメタファーをみつけようとする読みよりも、現在の川柳では深層水に意味をおかずそのまま読むと言われた。実際、小池さんの言われる通りだと思う。わたしも深層水を記号みたいに読んで、その奥に入ることはしなかった。森で言うなら、視界がきかないなら、その状況を楽しんでいるような。森の香を嗅いでいるような、森の香からトリップして他の景色を見ようとするような、読み。
岡野さんの読みは、妙な表現だけれど、ひととしてただしい読みとでもいうんだろうか。普段の川柳の会での読みの場とは違う新鮮さがあった。そんなことを書くと、川柳の場の読みがひととしてただしくないみたいで叱られそうだけど。もちろんひととしてただしくない読みにもおもしろいことはたくさんあるけれど。
岡野さんの、ふだん接するものとは(アプローチも、かけられる時間も)違う読みはおもしろく、触発されてわたしなりの読みが引き出されていくのが楽しかった。
第二部は、くんじろうさんの司会で、飯田良祐さんの思い出や、また、作品について、参加者が発言した。
句については、石田柊馬さんが「時間」というキーワードを出された。
レジュメの句でいえば「貯めて」「干からびる」「日誌」「振り込め」「羽化」「ことわる」「パチンコは出ないし」「ひとり立ち」時間を含んでいる句が多い。時間という概念を常に意識していたという趣旨のお話が興味深かった。
また、兵頭全郎さんの作句のうえでの転機となったのが
「二等辺三角形の猫車」の句だったというのも印象的だった。
あてどない春を炒めるゆりかもめ 飯田良祐
「飯田良祐句集を読む集い」(発起人 くんじろう・小池正博 / ゲスト岡野大嗣)へいってきた。
http://senryucard.net/archives/651
飯田良祐さんは伝説のひとだ。
はじめて読んだのは、高田銀次さんが作られた「飯田良祐集」。縮緬状の高級落とし紙?を麻紐で閉じた個性的な句集は、何かの拍子に溶けてしまいそうなあやうさもあり、取り扱いには緊張をともなう。
今回の集い第一部は、『実朝の首』(川柳カード叢書)を語る、である。
集いの案内には「飯田さんの句が孕んでいる、早退の帰路にガラ空きの電車から見る夕焼けのような痛み」という岡野さんのコメントがあった。アウトサイダー感に染みる美しさの痛み、というところなのだろうか。
青字は、レジュメより。
岡野さん選の句のほとんどが、わたしにはさほど印象の強くないもので、小池さん選のものは、ああ、これ!膝を打ちたくなるものだったこと。その違いが、まずおもしろかった。
【飯田良祐の10句】岡野大嗣選(数字は江口が振ったもの)
@下駄箱に死因AとBがある
Aバスルームに玄孫もいつか水死体
Bポイントを貯めて桜の枝を折る
C母の字は斜体 草餅干からびる
D吊り下げてみると大きな父である
E百葉箱 家族日誌は発火する
F当座預金に振り込めと深層水
G言い訳はしないで桶に浮く豆腐
H沸点ゼロで羽化 名前のない鳥
Iきっぱりとことわる白い白い雲
【飯田良祐の5句】小池正博選
パチンコは出ないしリルケ檻の中
ハハシネと打電 針おとすラフマニノフ
二又ソケットに父の永住権
自転車は白塗り 娼婦らの明け方
げそ天のひとり立ち滂沱の薄力粉
第一部『実朝の首』を語るは、岡野さん選の10句の読みを中心に進められた。
その岡野さんの読みがおもしろかった。
@下駄箱という空間Aバスルームという空間にフォーカスしている。
@下駄箱という空間のほこりっぽい匂いもしそうでおもしろい。ふだん目につかない死因がぺろりとそこにある。Aバスルームをあけると幻のひしゃごの死体がそこにある。死をおそれていても死はすぐそこにある。
Bポイントをためることはカルマを払う行為か。ポイントをためることで、桜をおるという悪しき行為をチャラにしているのではないか。C母が書く癖のある斜体の文字。見る人が書き手へ抱く感情によって、癖字はいやなものにもそうでないものにも変わる。草餅が干からびていることから母への感情が感じとれる。Dひょっとして、ふとん?E手掛かりとして調べてみると「家族日誌」はマストロヤンニの映画のタイトル。飯田良祐は映画をみていたのではないか。「家族日誌」という普通のことばに見える固有名詞をほうりこむのは短歌でもよくする手法。GIの句について、句集のなかにふっと弱いものやわらかいもの(豆腐・白い白い雲)に自身を投影しているような句があるところが魅力と言われた。
またH「沸点ゼロで羽化 名前のない鳥」では、あたためられずに羽化した自分か、と。
等々、岡野さんの、視界のきかない森を、言葉をたよりに歩むかのようなゆっくりとした読みは、非常に丹念なものだった。(言葉を信じて。必ず森は抜けられる)言葉がそこにあれば、真正面から意味を問う。たとえば「深層水」である。Fの深層水、岡野さんは擬人と言われた。対して小池さんが、言葉に意味やメタファーをみつけようとする読みよりも、現在の川柳では深層水に意味をおかずそのまま読むと言われた。実際、小池さんの言われる通りだと思う。わたしも深層水を記号みたいに読んで、その奥に入ることはしなかった。森で言うなら、視界がきかないなら、その状況を楽しんでいるような。森の香を嗅いでいるような、森の香からトリップして他の景色を見ようとするような、読み。
岡野さんの読みは、妙な表現だけれど、ひととしてただしい読みとでもいうんだろうか。普段の川柳の会での読みの場とは違う新鮮さがあった。そんなことを書くと、川柳の場の読みがひととしてただしくないみたいで叱られそうだけど。もちろんひととしてただしくない読みにもおもしろいことはたくさんあるけれど。
岡野さんの、ふだん接するものとは(アプローチも、かけられる時間も)違う読みはおもしろく、触発されてわたしなりの読みが引き出されていくのが楽しかった。
第二部は、くんじろうさんの司会で、飯田良祐さんの思い出や、また、作品について、参加者が発言した。
句については、石田柊馬さんが「時間」というキーワードを出された。
レジュメの句でいえば「貯めて」「干からびる」「日誌」「振り込め」「羽化」「ことわる」「パチンコは出ないし」「ひとり立ち」時間を含んでいる句が多い。時間という概念を常に意識していたという趣旨のお話が興味深かった。
また、兵頭全郎さんの作句のうえでの転機となったのが
「二等辺三角形の猫車」の句だったというのも印象的だった。
あてどない春を炒めるゆりかもめ 飯田良祐
2016年05月27日
第2回川柳フリマの感想
5月22日(日)の川柳フリマに参加した。微力ながら「かばん関西」のブースで販売のお手伝いをしてきた。
かばん関西のブースは、もしかしたら2名くらいで担当するかも知れないと構えていたが、最終的にはわたしも含め7人前後のメンバーで販売をした。それだけの人数が協力しあって仕事をこなすのを目の当たりにし、「かばんの会」的な良さは西も東も変わらないなあ、と感じた。かばん的な良さとは〈個〉と〈集〉のバランス感覚だと思っている。孤絶もせず埋没もせず、自然体で〈個〉と〈集〉を行き来するあり方といえばいいだろうか。そんな好印象もあってか、初対面のメンバーばかりなのに、ものの10分でため口になっていた気がする。失礼しました。
わたしは文学フリマに客側としてはよく行くのだけど、売る側としての経験はまったくなかった。そんなわけでコツがいまいち分からなかったのだが、終盤あたりにはいろいろなことが分かってきた気がする。声のかけ方、商品数の目安、小銭をどのくらい用意しておくべきか、などなど。その意味でいい経験をさせていただいた。
さて、川柳フリマの良さとは何か。いろいろあると思うけど、ひとつに、普段ブログを読んだりEメールだけでやり取りをしている川柳人とじかに社交がもてることだと思う。わたしも「あざみエージェント」の冨上朝世さん、「びわこ番傘川柳会」の徳永政二さん、竹井紫乙さん、「ねじまき句会」の妹尾凛さん、「川柳マガジン」の松岡恭子さんらと初めてお目にかかった。たいへん光栄だった。
とはいえ、多くの方は電脳空間で知っているというだけで、実際のお顔は存じ上げないことも多い。なもので、おそろしくシャイなわたしは「あれ、何となく◯◯さんの気がする・・・でも違っていたらどうしよう」などと気苦労が絶えなかった。それでも、一回ご挨拶をしてみるとじつに素敵な方たちばかりで、ひじょ〜にリラックスしてお話ができた。「川柳ねじまき」のブースでは妹尾凛さん、八上桐子さんと、
「旬の樹萄らきさんの句は面白いですね」
「でもお顔を見たことはないんですよ」
「あら、わたしもです」
「いやだ、わたしもよ」
(一同笑い)
みたいなやり取りがあった。
わたしの経験からいうと、伝統川柳・詩性川柳にかかわりなく、川柳人の大半は気取ったところがない。歌人がガラスのような感じだとすれば、川柳人は藁みたいな感じ(あ、これベストを尽くして褒めています)。川柳という文芸は「座の文芸」の性質を残しているので、それも親しみやすさに関係しているのかしら。善かれ悪しかれ〈近代的な個〉にどっぷりというわけではない。社会性を身につけている感じだ。
「第1回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」にわたしは参加していないので去年との比較はできないけれど、会場には20代〜30代くらいの人もわりと来場していた。俳句や短歌に基盤をおいている方々なのかも知れないが、「川柳って意外に面白そうだよ」と口コミでひろがっていけば素敵ではないか。そこから有為な青年が参入してくるかも知れない。
最後に、川柳フリマの総括をして終わ・・・・・・と思ったが、帰りに立ち寄った「551蓬莱」の豚まん、焼売、エビ焼売を紹介して終わりにしたい。アツアツすぎて口中の皮が剝がれてしまったのだが、とてもおいしゅうございました。わたしの隣りの席には深津絵里似のおねいさんが独り、豚まんと焼売とラーメンを豪快に召し上がっていた。思わず「惚れてまうやろ〜」と叫んでしまいそうになったのである。

かばん関西のブースは、もしかしたら2名くらいで担当するかも知れないと構えていたが、最終的にはわたしも含め7人前後のメンバーで販売をした。それだけの人数が協力しあって仕事をこなすのを目の当たりにし、「かばんの会」的な良さは西も東も変わらないなあ、と感じた。かばん的な良さとは〈個〉と〈集〉のバランス感覚だと思っている。孤絶もせず埋没もせず、自然体で〈個〉と〈集〉を行き来するあり方といえばいいだろうか。そんな好印象もあってか、初対面のメンバーばかりなのに、ものの10分でため口になっていた気がする。失礼しました。
わたしは文学フリマに客側としてはよく行くのだけど、売る側としての経験はまったくなかった。そんなわけでコツがいまいち分からなかったのだが、終盤あたりにはいろいろなことが分かってきた気がする。声のかけ方、商品数の目安、小銭をどのくらい用意しておくべきか、などなど。その意味でいい経験をさせていただいた。
さて、川柳フリマの良さとは何か。いろいろあると思うけど、ひとつに、普段ブログを読んだりEメールだけでやり取りをしている川柳人とじかに社交がもてることだと思う。わたしも「あざみエージェント」の冨上朝世さん、「びわこ番傘川柳会」の徳永政二さん、竹井紫乙さん、「ねじまき句会」の妹尾凛さん、「川柳マガジン」の松岡恭子さんらと初めてお目にかかった。たいへん光栄だった。
とはいえ、多くの方は電脳空間で知っているというだけで、実際のお顔は存じ上げないことも多い。なもので、おそろしくシャイなわたしは「あれ、何となく◯◯さんの気がする・・・でも違っていたらどうしよう」などと気苦労が絶えなかった。それでも、一回ご挨拶をしてみるとじつに素敵な方たちばかりで、ひじょ〜にリラックスしてお話ができた。「川柳ねじまき」のブースでは妹尾凛さん、八上桐子さんと、
「旬の樹萄らきさんの句は面白いですね」
「でもお顔を見たことはないんですよ」
「あら、わたしもです」
「いやだ、わたしもよ」
(一同笑い)
みたいなやり取りがあった。
わたしの経験からいうと、伝統川柳・詩性川柳にかかわりなく、川柳人の大半は気取ったところがない。歌人がガラスのような感じだとすれば、川柳人は藁みたいな感じ(あ、これベストを尽くして褒めています)。川柳という文芸は「座の文芸」の性質を残しているので、それも親しみやすさに関係しているのかしら。善かれ悪しかれ〈近代的な個〉にどっぷりというわけではない。社会性を身につけている感じだ。
「第1回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」にわたしは参加していないので去年との比較はできないけれど、会場には20代〜30代くらいの人もわりと来場していた。俳句や短歌に基盤をおいている方々なのかも知れないが、「川柳って意外に面白そうだよ」と口コミでひろがっていけば素敵ではないか。そこから有為な青年が参入してくるかも知れない。
最後に、川柳フリマの総括をして終わ・・・・・・と思ったが、帰りに立ち寄った「551蓬莱」の豚まん、焼売、エビ焼売を紹介して終わりにしたい。アツアツすぎて口中の皮が剝がれてしまったのだが、とてもおいしゅうございました。わたしの隣りの席には深津絵里似のおねいさんが独り、豚まんと焼売とラーメンを豪快に召し上がっていた。思わず「惚れてまうやろ〜」と叫んでしまいそうになったのである。