柳誌やネット句会でお見かけする妹尾凛さんの句集を読み返してみました。お会いしたのは川柳フリマのときの1回だけです。
作品から受けるわたしの印象をいうと、妹尾さんの良さは他者からの影響を意図的に受けないようにしているところなんじゃないかしら。ごじぶんの世界を大切にしている方と言いかえてもいいです。これは川柳から受けた印象なんで思い込みかもしれませんが、とにかくそういうデリケートさを感じます。
近代以降というのは、いろいろな価値観に接したほうがいい、という考えが主流だと思います。それには特に反対しないし、わたしじしん川柳でも多様なスタイルと接するようにしています。でも、いろいろな価値観と接することで各共同体なり個々人なりの濃度が薄まってしまう面があるとしたら、それはオモシロいんでしょうか? そんなことを考えることがあります。何かを守るために閉めることってあるんじゃないのかな。
何はともあれ、句集の中でわたしが共振・共鳴した川柳を。
雨の日をむすぶ一枚のふろしき
バックストローク時代の畑美樹さんの世界につうじるような発想です(いや畑さんは今もかもしれない)。
ひらがなの蝶々 日に一本のバス
不即不離の取合せ。上下が互いの雰囲気を補完しあったり、書かれている意味を超えた情感を付与しあったり。
図書館はモーツアルトで浮くらしい
モーツアルトを牛や野菜に聴かせるってのはよくありますよね。それがここでは読書に合うとかではなく、図書館じたいが浮いちゃうってんだからオモシロい。拙句に〈客がみなふわふわ浮かぶブックカフェ〉というのがあります。本の集まる場所って浮遊感があるのだろうか。
たまごを割った瞬間はことばたち
これは見つけの句ですね。たしかに割った瞬間というのはことばでいっぱいだ。
もしもしというときの月の浮力
既成の川柳を想定してでっち上げると〈もしもしと1オクターブ高い声〉あたりで一句やっつけちゃいそう。だけど、それだとありきたり。
切れをつくらず流れるようにテキストが進んでいくなかで「月の浮力」へと捩れる。システムとしての「切れ」を契機に飛躍するのではなく、テキストの流れの中で捩れるのが川柳っぽさだと思います。誤解なきようことわっておくと、俳句にそういう文体がないということではありません。
枝先の風が濃くなるレイチャールズ
建て直す前の母の実家には、母のきょうだいたちが共有するレコードが置いてありました。エルヴィス・プレスリー、コニー・フランシス、ビーチ・ボーイズ、ビートルズ、そしてレイ・チャールズ。あのレコード、今どうなっているんだろう。わたしのイトコの誰かが保管していてくれればいいのだけど。
枝先の風が強まるではなく「枝先の風が濃くなる」。思わず意識を留められてしまう表現です。レイ・チャールズのゆびさきの感覚や歌っているときのソウルにつながる表現のようにも思えます。
枝先の風が強まるだったら『What'd I Say』がピッタリ。50年代〜60年代半ばまでのロックンローラーやロカビリアンであれば大半がカバーしているのでは? たとえシングルで出していなくてもライブで歌っているはず。そんなゴキゲンなリズム&ブルースなのです。
それに対して「枝先の風が濃くなる」のほうは『Georgia on My Mind』が合っているように思います。作者は曲のことなど想定せず、純粋にレイ・チャールズからの発想だったのかもしれませんが。
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