2021年08月16日

湊圭伍著・現代川柳句集『そら耳のつづきを』を読む


現代川柳句集『そら耳のつづきを』
著 者:湊圭伍
発 行:2021年5月26日
発行所:書肆侃侃房

靴音から遙かに閉じゆくみずうみ

そら耳のつづきを散っていくガラス

手のひらの穴から万国旗をのぞき

きみの死をぜんぶ説明してあげる

くちびるを捲って遠い火事をみせ

帝王を折檻にゆくはらたいら

拍手した手がふっくらと焼き上がる

火葬場の火からウナギの話題へと

寝返りを打つと渚がちかくなる

意味なんてあればあったで寝てしまう


湊圭伍さんの第一句集『そら耳のつづきを』が出ました。わたしと湊さんは、2009年から柳誌「バックストローク」に投句を開始しました。その後「川柳カード」を経て、現在も「川柳スパイラル」で一緒なのですから、言ってみれば「同じ釜の飯を食ってきた」間柄です。

とは言え、当時の湊さんは俳句や現代詩を通過してきたからかも知れませんが、五七五(前後)の長さで表現する力量がわたしよりもありました。ずっと短歌をやってきたわたしではありますが、川柳は下の句のない短歌みたいなもの。その短さには正直、困惑するばかりだったのです。東京2020オリンピックのあとだからでもないのですが、当時のわたしをレスリングになぞらえるなら、上半身も下半身も自由に攻撃してよいフリースタイル・レスリングだけやってきた人が、下半身を攻撃してはいけないグレコローマン・レスリングを始めたようなものなのです。

五七五に四苦八苦していた当時のわたし。他方、湊さんは、2010年3月7日の週刊俳句【川柳「バックストローク」まるごとプロデュース】(バックストローク30号)、2011年4月9日の「第4回BSおかやま川柳大会」での選者(バックストローク35号)、同年9月17日の「バックストロークin名古屋シンポジウム」でのパネラー(バックストローク36号)、短詩サイト「s/c」での「川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞」など、新人ながらその句作センスと批評力にみあった役目が与えられ、みごとその期待にこたえていたのでした。こうして文章で記すだけだと何とも簡単ですが、リアルタイムで見た者からするとまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。現代川柳界に出現した新星でありました。

湊さんのご活躍は本人の力もさることながら、当時の川柳環境にも後押しされたのかも知れません。句集の「あとがき」を読んでそう思いました。彼が所属していた「バックストローク」や「川柳結社ふらすこてん」の主要メンバーは、石部明・石田柊馬・くんじろう・筒井祥文・樋口由紀子・小池正博・きゅういち・吉澤久良・兵頭全郎の各氏を見てもわかるように西日本の柳人たちでした。当時の湊さんは近畿在住。こうした気鋭の柳人たちとじかに交流し、刺激を受けることで、川柳の実践知をみるみる吸収していったのであろうことは想像に難くありません。

一方のわたしは東京者であり、バックストロークに似た作風のグループが関東になかった関係で、しばらくは一人で句作をする環境でした。でもやがて、当時こちらにいた江口ちかるさんと出会い、「かばん」に川合大祐さん・千春さん・柳本々々さんが入会してきたことで、徐々に環境が変化していきます。さらにこのブログを通じて全国の柳人の皆さんとの交流も増え、いまでは日々刺激を受けつづける毎日です。

いまこの文章は、昔話を楽しむような感覚で書いています。湊さんとわたしがバックストロークに投句を始めてから12年。その月日の流れを想うと、彼の第一句集が出たことは本当に感慨深い。

意味なんてあればあったで寝てしまう
この句、じつは暗唱できるくらい気に入っているのですが、以前読んだ川柳評論に書いてあった警句かな、くらいに思っていました。それが今回『そら耳のつづきを』を読んで、そっか湊さんの川柳だったんだ! と嬉しくなりました。〈中八がそんなに憎いかさあ殺せ〉(川合大祐)と同じくらい示唆に富んでいると思います。ホント、みんなにこの句を暗唱してもらいたいです。

火葬場の火からウナギの話題へと
このあたりは所謂「伝統川柳」的な興趣があります。でも、いまはこういう不謹慎さを含んだ伝統川柳を見る機会が少なくなりました。みんなもっと不謹慎になれ。

帝王を折檻にゆくはらたいら
こういう一見狂句風な川柳も湊さんは書きます。他にも〈おい思想だな〉というのもあり、こちらは一行詩のような風采ですね。川柳の可能性をを楽しんでいるな、とわたしも愉しくなりました。

くちびるを捲って遠い火事をみせ
最初は〈ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺〉(塚本邦雄)を思い起こしたのだけど、すぐに塚本の短歌とは趣きが全然違うことに気づきました。むしろ〈雑踏のひとり振り向き滝を吐く〉(石部明)に近くて、川柳的な茶目っ気を感じます。

そら耳のつづきを散っていくガラス
「そら耳のつづき」→「散っていくガラス」の展開が抜群に上手い! ここでの「そら耳」は絶対動かしたくありません。そら耳という過誤につづいて舞い散るガラス。今の時代・今の人間ともシンクロしている気がします。ガラスが散ることでいうと、〈一斉に都庁のガラス砕け散れ、つまりその、あれだ、天使の羽根が舞ふイメージで〉(黒瀬珂瀾)が有名ですが、湊さんの掲句も忘れられない川柳になりそうです。


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2021年03月28日

星の痛みー千春句集『てとてと』を読む 小池正博



 川合大祐の第二句集『リバー・ワールド』(書肆侃侃房)が近日中に刊行されるようだが、川合のパートナーである千春の句集を取りだして改めて読んでみた。句集を読みながら、五つのキイワードが頭に浮かんだ。

【星】

  微調整して下さい冷蔵庫の星の位置

 冷蔵庫のなかに星を入れておく。あるいは、ふと気がつくと星が保存されていた。けれども、その位置には微妙なズレがある。違和感があるのだ。

  星同士結婚したり別れたり

 擬人化されているが、星と星とが気が合って結婚することがある。けれども、実際の生活がはじまるとケンカしたり、ちょっとしたくい違いで別れたりするが、またもとに戻ることもある。

  なるべくだったら星の話にして

 本当は星の話ではないのだが、できれば星の話にしておきたい。俗世間の聞くに堪えない話は気分が悪くなるので、天上の星の話だったらいいのに。

  埋もれる罅われ星の開拓史

 水惑星ではなく罅われている星がある。それでも何とかやってきたのだが、そんな歴史もすでに風化して埋もれている。

【病気】

  こんないい病気をくれてありがとう

 病気が好きな人はいないから反語である。病気も自分の一部だから受け入れていくしかない。

  入院はしないから退院もしない

 入院したからといって、どうなるものでもない。病気は自分自身だから、入院も退院もないのだ。

  どんぐりころころ処方箋下さい

 けれども、その時々で処方箋が必要になる。ころころとちょっとだけ前に進む。

  女陰には女陰の薬あばれるな

 セックスに関わる身体用語を千春はしばしば使う。吐き出しておかなければ暴発するものがある。

  けんかするしんさつしつがきえさって

 人間関係のトラブルで、診察どころではなくなってしまう。

【ジェンダー】

  ナプキンの出番がこない月割れる

 女性の生理と身体について。

  婦人科の男がみてる黄泉の国

 男性に見られるものとしての身体について。

  例えば、女の自分に慣れてきた

 心と体のズレ。ズレがあっても「ふり」をして生きていかなければならないのが生活である。演技にも慣れてきたのだが、それが良いことなのかどうか分からない。

【動物たち】

  思い出は鯨にそってさかのぼる
  鳥去って開かずの間などありません
  こぼしたね羆ゆるしてしまったね

 動物を使った作品に秀句が多い。「猫」はここでは取り上げない。

【バス】

  バスは遅れたいとき遅れればいい

 けっきょく、そういうことなんだな。日常生活者の立場からすれば、時間通りに来ないバスは困るだろう。けれども、こういう心境で生きていくことができれば楽になるだろう。周囲の人がそれを認めてくれればいいのだが。
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2021年03月02日

『てとてと』千春 を読む   竹井紫乙


 二月、千春さんから「『てとてと』の批評文を書いていただけないでしょうか?」というメールが届いた。
『てとてと』には作者の川柳、短歌、詩が掲載されており、この一冊で千春ワールドが堪能できるように構 成されている。この構成は当然作者の希望によってなされたものだろう。基本的にどの表現形式でも作品 のトーンは一貫していてムラが無い。だから読みやすいし読者は安定した心持ちで最後まで読み進めること ができる。ということは裏返せば川柳だけの、あるいは短歌だけの構成にしても良かったのではないだろう か、ということも考えられる。表現形式が様々に構成されていることを否定するものではない。単純にいず れの表現形式においても書かれていることの内容が具体的に同じであるから、読み終えた時に全体の構成 に対する疑問がわいた。これについては「あとがき」にも作者本人が<川柳、短歌、詩が私にとってなんであ るのか、答えは、これからゆっくり感じていきたいと思います。>と書いている通りで、形式の使い分けにつ いては作者が自然な流れで行っていることであって、意識的な行為ではないらしいことが窺える。興味深い 点は答えを出してみたいとか、考えてみたい、ではなく<感じていきたい>と書いていること。このスタンスが 千春さんの、ものを書く姿勢そのものなのではないかと思われる。
 川柳の長い歴史の中に作家性の欠如という事実があり、それは川柳の器の大きさでもあるから、悪い面ば かりではない。その器に誰でも入れるという利点がある。長く川柳を書いている先輩方の中には句集を出す 必要はない、という考えの方が多い。自費出版にはお金がかかり、ほとんどの場合、売り物ではなく配りもの としての扱いになる、という以外にそもそも残す必要がない、という考えが根強くある。私は句集を三冊作 っているけれど、この「残さなくていい」という考えは理解できる。人として生きて、生活していくうちに身の 内から溢れてこぼれ落ちてしまうものを表現したい気持ちはあっても、わざわざ形作って残すことはない。そ れは句を書く行為とはまた別のことだから。ということなのだろう。この考え方はさほどおかしなものだとは 思えない。川柳の器は大きいから。
 千春さんは自分の作品集を作りたいと思った。私と違い、千春さんの場合はジャンルの問題は、問題では なかった。そのことは『てとてと』を読めばわかる。とにかく本を作りたかったのだ、という情熱が伝わってく るけれど、どの表現形式をどのように選択し、なにを表現しているかという問題は、千春さんが「書くことが 好きで、本にまとめてみたかった人」から「作家」になる段階で厳しく問われてくる問題であると思う。時折、 「川柳とはなにか」、或いは「現代川柳とはなにか」という話題を目にするけれど、それは同時に「どうして川 柳という形式を選んだのか」ということを書き手が外部から問われることを意味する、ということでもある。 千春さんはどのように答えるだろうか。
 最後に『てとてと』から川柳を二句。
  
  「入ってもいいですか」「いいですよー」ちつ

 とても平和な世界観だ。社会を構成する最も小さな単位は二名で、血縁関係の無い者同士で生活を営ん でゆくこと。これまでの家の中のルールも習慣も違う人間が二人。お互いの価値観を尊重することができな ければ心穏やかに暮らせない。お互いの体の扱いには注意が必要で、肉体関係はひとつ間違えると暴力に 変化する。その繊細さを見事に川柳に仕上げている。

  夏休み永遠が待つ鳥のふん

 鳥の糞には植物の種が混じっている。あちらこちらに種を運ぶから、鳥の糞は植物にとっては子孫を残す 為の大切なツールだ。そこには永遠があり、未来がある。長い長い夏休みのようなゆるい明るさがある。句の 書き方はまるで子供の作文のようなあどけない趣を持っていて、そこがまた「永遠」に響いている。
posted by 川合大祐 at 07:31| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月13日

千春『てとてと』を読む 5

川柳とウンコ/飯島章友


夏休み永遠が待つ鳥のふん

「夏休み/永遠が待つ/鳥のふん」と3つのパートからなる句としても捉えられるが、「夏休み/永遠が待つ鳥のふん」と読んでみた。「永遠が待つ鳥のふん」とは何だろう。わたしのばあい、鳥による種子散布を思い出した。鳥が果実などを食べたあと、消化されなかった種子は糞をつうじて散布される。その種子が果実を実らせれば、また鳥が来て種子散布をしてくれる。すなわち「鳥のふん」には「永遠」という可能性が宿っており、「永遠が待」っている。

「夏休み」と「永遠」。この二つはよくタッグをよく組む。〈永遠の夏休み〉なんて歌や本のタイトルでいかにもありそうではないか。けれど掲句は「夏休み/永遠が待つ鳥のふん」として、安易な馴れ合いをつくらない。加えて、最後に永遠を「鳥のふん」で入念にコーティングし、夏休み+永遠がかもし出すキラキラしさをきちんと回避している。土俵際で見事にふんばった句と言えるだろう。


いやけれどいつかウンコになってゆく

たとえば松茸となめ茸には動かしがたい価値の優劣こそあるが、食ってしまえば一緒だ。また、高校時代に偏差値が30台だった飯島章友と財務省のエリート官僚の価値だって、怪物に食われれば胃のなかでは一緒だ。そういう警句として読める。だが川柳では、教訓めいた内容は「道句」(みちく)として好まれない。ならばこのように教訓性をウンコでコーティングするしかないのである。

掲句は本作品集の中でもとりたてて佳句というわけではない。されど、ああこれが川柳だ、と強く感じさせてくれた。根性のねじ曲がったわたしの印象論ではあるのだけど、短歌や俳句の書き手はあまりこういう表現をしない。いやこういう表現を選択しない人が短歌や俳句へ行くのかも知れない。掲句の方向を突き詰めていくことで将来、定金冬二の「一老人 交尾の姿勢ならできる」のような川柳を生み出せたなら、柳人として最高に幸せだと思う。


水をやるあけっぱなしの国語辞書

ウンコの句が続いたからというわけではないが、最後はウンコなしの川柳を。「国語辞書」という〈花壇〉に毎日水をやる。やがて収録されている個々の言葉たちが発芽して成長し、花を咲かせるのだが、そこに思いがけない花の取合せが生じて、句や詩や歌をなすことがあると思う。

『MANO』17号の樋口由紀子「飯島晴子と川柳」からの孫引きだが、俳人の飯島晴子がこんなことを書いているそうだ。「言葉が現れるとき」という評論だ。

眼前にある実物をよくよく目で見て、これは赤いとか、丸いとか、ああリンゴであるとか、とにかくなるべく実物に添って心をはたらかしてしらべる。そして、知ったこと、感じたことを他人に伝えるために、自分の内部ではなく、公の集会場の備えてある言葉の一覧表、とでもいうような種類の言葉の中から言葉を選んで使う、というやり方である。対象となる事物が、観念や情感に代っても事情は同じである。私にとってこれ以外の言葉のとらえ方があろうとは思ってもみなかった。
(中略)
それが俳句をつくる作業のなかで、言葉を扱っていていつからともなく、言葉というもののはたらきの不思議に気がついた、言葉の偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを体験した。

掲句も「公の集会場の備えてある言葉の一覧表」=「国語辞書」の言葉たちが発芽して花を咲かせ、「言葉の偶然の組合せから、言葉の伝える意味以外の思いがけないもの」=「句・詩・歌」が生まれることを願っているかのように、わたしには思えた。

『てとてと』のご注文は千春さんのTWITTERから。
千春TWITTER
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2020年10月17日

千春『てとてと』読む 4

 千春の恋と生と死と
    愛と性と詩と そして猫と/くんじろう



 いつだったか、離婚して十数年経った頃に私、くんじろうの長女が尋ねてきた。彼女の瞳は虚で焦点が定まっていない。「少し寝かせて」とふらふらと二階に上がり猫二匹と一緒にぐっすり二時間ほども寝ただろうか。
 「ありがとう」と言ってそれ以外何も言わず帰っていった。そういうことが二、三度あってから、今度は次男から電話。「近頃、お姉ちゃんがお父さんところへ行ってないか?」と。「ああ、時々」と答えると「実は姉ちゃん病気やねん、心の病気や」・・・・・・言葉が出なかった。 
 その頃、川合大祐さんのブログをたまたま拝見した時、ご自分もパートナーの千春さんも「心の病気に向き合っている」云々の事を吐露されていて、思わず娘の病気について、メールをお送りしてしまった。以前からお付き合いはあったのだが、その事がきっかけで更に親しくお付き合いを続けて頂いて今に至っている。
 ある日、千春さんから「作品集を出すので表紙絵を描いて欲しい」とご連絡を頂いた。「喜んでお受けします」ということで「ついては作品集のゲラがあればお見せください」とお願いして、その時はじめて千春さんの作品に触れることになった。
 作品集が発刊され、しばらくして、「川柳スープレックス」に「てとてとの鑑賞文を」とのご依頼を受け、これも喜んでお受けした。お受けしたのであるが、本当に困ってしまった。
 「てとてと」の内容は、それこそ一筋縄の「読み」では鑑賞など出来ない。まず、端緒が見つからない。作品集を幾度か読み直し、更にその混迷は広がる。その混迷の末に、自分の娘の事から始めなければ進まないと思い立った。その事を触れずに千春さんの内面にはたどり着けないと思ったからに他ならない。
 この鑑賞がどういう結果になるか、私自身にも全く先が読めないが、私の感じるまま、思いのままに綴ってゆきたいと思う。以下の文章では敬称略とさせていただく。


  「恋」あるいは「失恋」

     初恋

  女の子なのに
  女の子を好きになった
  ああいい友達だな
  パスタの食器を置いた
  その瞬間
  これは友情ではない
  恋だ

  彼女は
  あの男子格好いいねと
  よく言っていた
  私は初恋と同時に
  失恋をした
  傷をえぐるように
  一緒に習字教室へ通った
  私が男子ならば

  中学卒業と同時に
  別々になり
  でも手紙のやりとり
  数年後
  告白をした
  「あ、そう」
  拒否もせず。
  それだけ。

  年賀状と
  時々のメールのやりとり
  彼女は今、婚活をしている

  十三歳の初恋を忘れない


      ※

  友達に会わないための嘘をつく
         君はほんとは初恋だから


  どきどきと実加子の眠る寺に行く
        同性愛の仲間と共に


      ※

 千春は十三歳で恋をした。そして同時に失恋もしたという。しかし、中学卒業数年後に告白をした。と、いうことは、十三歳の失恋を少なくとも四、五年、あるいはそれ以上の年数、告白もせずじっと「恋」ではなく「失恋」の想いに耐えていたということか。

 短歌に「会わないための嘘をつく」とある。恋の想いが燃え上がるのを一番恐れていたのは千春自身なのだ。「どきどきと実加子」の墓に行く同性愛の友達と。実加子は初恋の相手ではないのか。「同性愛の仲間」たちとの関係も微妙な距離感であるが。

 ここに千春の原点がありそうだ。十三歳での初恋と失恋。実加子の存在。そして「同性愛」への気づき。同性を好きになること自体罪でもなんでもない。ただ千春の悲しみは、初恋の相手に理解されなかったこと、数年後告白をした後も「あ、そう」と取りつく島もない。彼女は「婚活」という最後の言葉で決定的な別れを告げる。
 詩の中の
「拒否もせず。」の「ず。」
「それだけ。」の「け。」
この「。」がとても悲しくて哀れである。


     顔

  あなたが句を書く時
  別人の顔になる
  あなたが野球を見る時
  別人の顔になる 
  あなたがパソコンをいじる時
  別人の顔になる

  
  ぱんって手を叩く

  「あれ、どうしたの千春ちゃん」

  あなたは私のための顔になる


       ※

  赤ちゃんの頃のあなたを知る桜
        私はちょっと嫉妬している

  秋の月浴びてふたりは歩き出す
      燃えないゴミと燃えるゴミ出し

  降りだした雨の匂いで思い出す
        あなたの心嗅ぎわけたとき

  丁寧によろしくというお義母さん
         大祐君は返品しません


       ※

 千春は大祐の事を、主人とかうちの亭主とか、そんな呼び方をしない。よく使うのは「大祐くん」か、「私のパートナー」うん、パートナーが一番よく聞くかも知れない。
 あれっ?彼女は同性愛のはずでは?確かに結婚しているはずだ。結婚という形を保っているはずだ。しかし「顔」の詩は明らかに恋文である。「私(千春)をいつも見ていて欲しい」というラブレターだ。「ぱんと手を叩く」猫だましをしてまで自分を見ていて欲しいと願う。「桜」にまで嫉妬をしている。まことに不思議な二人の関係。決して偽装結婚なんかじゃない。お義母さんに「大祐君は返品しません」と心の呟き。確かに惚れている。しかしそれは夫婦としてであろうか。友達としてであろうか。あくまでも個人の感想ではあるが、大祐の中にある種の「母性」を千春は嗅ぎ分けているのかも知れない。


     着物

  ここ一、二年ひんぱんに
  和服を着るようになった
  窮屈な帯を締めていると
  何かを忘れられそうで
  素敵だと言われると
  何かを忘れられそうで
  ひんぱんに着るようになった

  ここ一、二年よく
  がんばってきたと
  和服を脱ぐとき
  帯を解いて
  ほっとするとき
  よくがんばってきたと
  自分にいいたくなる
  だから
  着るようになった


         ※

  姪っ子をみんなで囲み笑う日の
       猫の気持ちはきっとさびしい

  階段は静かに下りて千春ちゃん
         職場の壁に三ヵ所貼られ


         ※

 女の子を好きになった千春は「私が男の子だったら」と独白したが、この詩に触れると、やはり千春は「女の子」であって「女の子」として「女の子」に恋をしたのではないかとも思う。
 着物を着るには、帯の他に帯締めを含めて何本かの紐が必要となる。彼女のSNSでは、着付けをお習いになってご自分で着ることができるご様子である。私の母は水商売をしていたのでよく和服で出かけていた。その様子は手に取るように想像できる。
 着物を着るという行為は、自分の体を緊縛する作業だとも言える。それは見方を変えると自傷行為にも似ている。着付け慣れると、どこをキツく締めてどこを緩めるのかコツが掴める様ではあるが、私の母は帯をキツく締め上げるのが好みであった。
 千春自身に自傷行為にも似た行為だとの「気づき」があったのかどうかは定かではないが、帯を解いた時の開放感は想像に難くない。「女の子」というより「女性」としての喜びもまた、この詩には漂っている。


     こころ

  トイレ掃除の仕事をしていて
  さみしそうだと思った一輪挿しに
  花を活けてみた
  
  「えっ買っているんですか」
  すごく驚いた人がいた
 
  その人はもう居ないけれど
  その人の笑顔を思い出して
  今日も花を活けてみる


        ※

  ぼわっとした光つつまれ親友の
         出産前後ほんとにきれい

  手で雪のうさぎをつくる南天の
          燃える瞳の安産でした

  嵐の日産まれてきてもいいけれど
        出棺の日は晴れるといいね

  産まれた日親の離婚も雪の日で
        白は何かを知らせてくれる

  父と別れ店を始めた母の手は
        パンの匂いがしみつき温む


        ※

 「トイレの神様」そんな歌があったが、昭和以前から、嫁は「便所掃除」を進んでこなした。「便所を綺麗にしておくと安産になる」という言い伝えがあったから。
 千春はあくまでも「仕事」としてのトイレ掃除を詩にしているのだが、無償の「花」を活ける事によって、気づいてか気づかないかは別として「安産」あるいは「妊娠」という言葉がちらつく。この心情は後の短歌にも繋がる。

 五首のうち一首、二首目は親友の出産を心から喜んでいる気持ちが表現されているが、三首目からは少し様相が変わってくる。
 千春自身の産まれた日と両親の離婚の日も「雪の日」だという。これはおそらく心象風景であろう。それは、彼女がこれから体験していく自らの人生の暗示でもあろう。
 その人生は不幸であるのか幸福であるのか、 
 その答えは出ていない。だって一生とは言えないほどの、まだほんの人生の半ばを過ぎたばかりなのだから。
 その「こころ」の葛藤の中で、母の歌を詠む。彼女を育ててくれた母の手は「パンの匂い」がしみつき暖かいと懐かしむ。その「パンの匂い」は、千春の「こころ」と「からだ」の痛みの鎮静剤でもある。
(詩 短歌 おなかより)



  自愛 あるいは 自滅

  「入ってもいいですか」「いいですよー」ちつ

 ひらがなの「ちつ」は「膣」であり舌打ちの「チッ!」でもある。「入っても〜」「いいですよー」はあきらかに性交の承諾であろう。
 だが、性の悦びでは無い。愛のまぐあいでもない。あくまでも女性としての機能、器官の提供に過ぎない。肌を触れ合うことは嫌いでは無いけれど、性交そのものには嫌悪があり、「しなければ」との思いも滲み出る。それはその「嫌悪」の源に、自身の生理不順と不妊がある。コミカルに詠んではいるが、とても切実なのだ。
  
  不登校とうもろこしの葉が繁る

 「とうもろこし」は「とうもろこしの葉」に包まれて、さらにてっぺんには特有の「毛」が見える。おぼろげに男性性器を示している。
 「不登校」という三文字で当時の年齢、心の闇までも表現して、「異性」に対しての怖れが垣間見える。

  ストーブが無いと私は毛が生える

 寒くなると猫は冬毛になる。冬毛になって寒さから身を守る。「ストーブが無いと」「毛が生える」という。それは作者の身を守る冬毛なのだろうか。あるいは「毛深くなる」の意味を含めると「性転換」とも読める。真実は作者にしか解らない。否、作者さえ解らないのかも知れない。

  中待合室は猫である。わたしも診て。

「中待合室」が「猫」であって「わたし」は明らかに患者である千春。千春は「医師」に診てもらう前に「猫」の体内でじっとしている。「猫」はまた作者自身であって、そこに「医師」は介在しない。「猫」と「わたし」果たして病の正体は。

  母という蛸の壺を行ったりきたり

 「母という蛸の壺」は母の子宮であり、千春はそこを「行ったりきたり」する。作者自身は大人にもなれず軟体動物のまま母へ回帰する。「蛸の壺」で安らげるのであれば帰ればいい。そこで傷を癒してまた暗闇を浮遊すればいい。

  ナプキンの出番がこない月割れる

 生理が遅れる、来ないかも知れない。わたしは「女」であるのに。月は割れて暗黒のはらわたを見せる。原始女性は太陽だった。今ではその太陽でのみ輝く。その恐怖は人間としての「自立」さえ脅かす。「ナプキンの出番」は「自立」あるいは「行動力」であり、そして「鎖」であり「足かせ」でもある。

  女陰には女陰の薬あばれるな

 「女陰」とは作者自身、というより作者の体内に棲む「怪物」あるいは「もののけ」かも知れない。それ専用の薬があるという。それは「怪物」を鎮めるための呪文か。「あばれるな」は体内の「怪物」に。言い換えれば「自分」に対しての「呪文」でもあろう。

  いやけれどいつかウンコになってゆく

 「いやけれど」は「そう仰いますが」で「ウンコ」になってゆくのは「自然の理」である。作家は作品を吐く。いや排泄すると言ってもいい。どんなに努力したって、どんなに苦しんだって所詮「ウンコ」なのだ。千春は「ウンコ」を排す、とは詠まず「なってゆく」という。直訳すれば「そう仰いますがわたしは所詮ウンコになってゆく定めなのです」と言っている。「千春」という個体が咀嚼されて「排泄物」になってゆく。それはまさに、自分の足を食らう蛸そのものである。

  お風呂場のおしっこの吐息

 「子供」である。本来おしっこをする場所ではないところで。しかし、シャワーを浴びながら「大人」だってそういう衝動に駆られる。あるいはそれが「常識」だと言うなら、常識を破っていいじゃないか。さほどの罪でも無いとは思われるが、やはり吐息が漏れる。
 「尿意」と「お風呂場に漂う悪意」「おしっこの吐息」はおしっこをした「わたし」の吐息では無い。「おしっこそのものの吐息」であってふわっと臭いまで漂う。写生句である。

  いい結婚ってなんだろうレシートが溜まる

 作者は「結婚ってなんだろう」と問わず「いい結婚ってなんだろう」と問う。この問いは世間一般の常識に問うているのでは無い。自分の内面の「結婚」に対する価値観にである。しかし、この句を吐いた途端に、千春にはその答えが見えている。「レシート」は日常そのもの。この「レシート」は「溜まって」いるのであって家計簿などに貼って整理されているわけではなさそうだ。いつの間にか財布の中やキッチンの棚などに「溜まる」のである。整理するつもりで残してあるものが溜まるのである。それは日常の澱のようなモノであったり、二人の存在証明でもある。
 千春と大祐は、お互いにパートナーを求めている。ある目的に向かって進んでいる「戦友」なのかも知れない。「レシート」を見ながら「自分は良い妻なのか」と迷うことも無いでは無いが、パートナーは「良い妻」など求めてはいない。二人は傷つき何度も倒れながらお互いを抱き起こし、また前へ進む。ひょっとしたら「レシート」は戦士が放った銃弾の空薬莢のように床に散らばっているのかも知れない。
(川柳「ひげ」より)



  ・・・・ そして乳房
  
  初恋の人はみずうみ生理中

 千春の恋は、やはり作品に深く投影される。そして、恋人が同じ性ゆえにその思いやりの表現も生々しい。その事が川柳の質を高めている。女性はよく海に例えられる。確かに海は生命の故郷であって今地球上に存在する生物の全ては海から生まれた。「海」は「産み」と同義語だとも言える。
 「みずうみ」もまた「うみ」であるが、その世界は海に比べて限定的である。「みずうみ」には「うみ」になりきれぬ想いが隠されている。「恋人」は「みずうみ」で「生理中」だと言う。どこかはかなくて、叶えられぬ恋模様が狂おしい。

  触れた手のしろさしろさを振りほどく

 「しろさしろさ」がとても透明な表現である。漢字の「白」ではなくひらがなの「しろさ」のリフレインが痛いほど迫ってくる。その「触れた手」を振りほどく仕草がさらに痛い。この句もまた、同性への想い、別れの辛さが溢れ出ている。

  猫は浮かない

  猫は研がない

  猫はうまない

  猫は根づかない

  猫はよみがえらない

 五行詩である。これもまた川柳の「かたち」である。「猫」は水を嫌う、水に落ちると溺死するかも知れない。「猫」は爪を研ぐ前に爪を切られてしまう。「猫」は避妊手術を施され生む事は無い。「猫」はたまに宇宙へ行ったように帰らないし、誰の持ち物にもならない。「猫」は七度生まれ変わると言うが、目撃したものは誰もいない。読みながら、ふと「猫」と「千春」を入れ替えて読んでみた。あっ、そうか。やはり「猫」は千春そのものだったのだ。

  時間になる母にも樹にもなれない

 「時間になる」はどう読むべきか。「時間そのものになる」と読むのか「制限時間が来ましたよ」と読むべきか。「母」になることが出来ないまま、まして「樹」にもなれないまま、私(作者)はすでに「時の放浪者」と化している。やがて「化石の森」に同化して思考さえ止めてしまうのか。

  腐臭が漂う私の体からヒトデ

 気づかないうちに、私(作者)の中に何か得体の知れないものが蠢いている。いや、気づかないふりをしている間に、それが確信となって、腐臭となって私を恫喝する。ある時、私の中から、のそっとヒトデが這い出してきた。私はもはや空蝉の如く・・・。カフカの臭いを漂わせてシュールである。

  おっぱいに触れているとき昼の闇

 おっぱいに触れるのは作者自身。自慰行為であろう。少し汗ばんで真昼にも関わらず深い闇へと落ちてゆく。「闇」とは罪の意識なのか。「乳房」とは言わず「おっぱい」と言う。自分の乳房に触れながら、母のおっぱいを想い、やがては同性のおっぱいに憧れる。何度も言うが、そのこと自体まったく罪では無い。闇から抜け出す道具は、自分の笑い声かも知れない。

  PMSおっぱいが大きくなり洗いにくい

 PMSとは、月経前症候群のことで月経に関して周期的に体や精神に不調をきたすことをいい、月経が始まるとその症状は消えるとか。その「PMS」を上五の位置に据えて「おっぱいが大きくなり洗いにくい」と言う。さて「PMS」のせいであろうか。自分の性に対する嫌悪も含まれていて。にも関わらず、自分の性を愛おしくとも思うのだ。不思議な味わいがある句。
 
  恋人と友の区別がつかぬ風呂

 「恋人」と「友」と区別がつかないと言う。
 裸になって風呂に入っているのに。そんなことがありえるのか。最初パートナーとの風呂で「この人は恋人?それとも友?」との感慨を詠んだと理解したのだが、千春の場合はそこに同性との恋慕が加わる。それはむしろ表現の広さであって決してマイナスではない。いろんな恋があって豊かなのだ。

  こんばんは潮騒は足りていますか?

 海辺の民宿に泊まって、潮騒が聞こえて来るだけでなんとも心地よい。そんな潮騒を楽しみにしている観光者に「潮騒が足りていますか?」と聞いているのであろうか。あるいは恋人同士が砂浜を歩いていてBGMとして「足りていますか?」と余計なお世話をしているのだろうか。ひょっとして、その質問は「海」に向けて投げかけられたものかも知れない。
 鏡のように凪いだ海に何かが足りない。それは「潮騒」だったと。それを「海」そのものに問うている、と言う読みも成立するのではないかと思う。

  バス停で待っててくれた猫のてと

 「てと」は千春の愛猫の名前である。「てと」への思い入れは相当なものである。作品の中で、ある時は「猫」として登場し、またある時は「千春」と同化して登場する。バス停で自分の帰りを待ってくれていた「てと」どんなに愛おしい存在か。それが辛かった仕事帰りや病院の帰りだったとしたらなおさら。「てと」の与えてくれる癒しは「生きがい」そのものでもある。そして「バス停で待って」とは、まさに「パートナーを待つ千春」の姿でもある。
          
(川柳・しっぽより)



  「てとてと」を読んで。

 NHKのEテレで「性」についての番組があった。哺乳類、特に人間は染色体XXの女性とXYの男性の2種類だとされていたがそうでも無いらしい。極端に言うとXがひとつの女性もYが無い男性も存在すると。それも外見では分からない。男らしい人に案外Yがなかったりするとか。実はこれ奇形でも遺伝情報の異常でもなんでも無いらしい。それもずいぶん昔から存在していたとか。分類に分けるとすると(個々の個性なので分ける必要もないが)「女らしい女」「女」「男っぽい女」「女っぽい男」「男」「男っぽい男」となる。この分類を「性スペクトラム」と言うとか。文化や環境でそうなるのではなく、あくまでも遺伝情報の上であると。例えば、髭の濃い女性、体毛の無い男性。ゴツゴツとした女性、ふっくらとした男性など。外性器や内性器の形も千差万別でそれぞれ皆違う形をしていると。同性を好きになったり、自分の性に違和感を持つ事は異常ではない。性同一性障害と呼ばれるが、それが果たして障害なのか?将来自由に性が選べる時代がくるかも。
 さらにショッキングな話は、やがてY染色体は消滅する、と言う話。元々X染色体とY染色体は同じ長さであったものが今現在Y染色体はX染色体の半分の長さしかないとか。傷つきやすいY染色体は子孫に受け継ぐにつれて傷つきだんだんと短くなってきたとの話であった。受胎せずに子孫を増やしていく方法を人類は手にするかも知れないし、もはや恋愛は子孫を残すための行為だけでは無い時代になっているのだ。

 同性愛、異性愛。その差は微々たるもので大切な事は誰かを恋し、愛して、大切にするという行為であって、他人を傷つけること、自分を傷つけることが一番許されない。また外見で差別したり、少数派だと言うだけで排除したりする事のいかに知性のない所業か。人類、いや生命体は多様性がある事によって地球上で生き残っているのだと、そろそろ解っていい頃なのだが。

 千春は自分の性の有り様について、自分の心の病について、作品を通して馬鹿正直なほどに告白し、自分に対峙した。その結果、その作品のほとんどに既視感の全くない自分の世界だけを表現した。しかし、共感を否定した訳ではない。やはり誰かに、読者に、その想いが伝わる事を切に願っている。
 千春もまたひとりでは存在しないのだ。

  千春ちゃん今日をいっぱい浴びなさい

 千春本人の句である。
posted by 飯島章友 at 23:45| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする