川合大祐『スロー・リバー』の数句を川柳に慣れない人が読む
佐藤弓生川合大祐さんの作品はふだん短歌に接していて、以前「問いが自己の内部で反射しているせいか、歌いぶりはやや理屈っぽい」という評を書かせていただいたことがあります(「かばん新人特集号vol.6」2015年)。
最近作では、たとえば
この意味の意味に意味などない意味を考えている塹壕の中
(「かばん」2016年11月号)と、旧約聖書の「伝道の書」みたいな哲学口調ながら、結句の〈塹壕〉はやはり閉鎖の感覚をあらわしていると思われます。いつ攻撃があるかわからないという危機感も。
ところが川柳句集『スロー・リバー』にはその感覚がありませんでした。
中八がそんなに憎いかさあ殺せ中学八年生まで留年したらそりゃあ疎まれるでしょう。じゃなくて。〈そんなに憎いか〉の八音のことか。
冒頭からメタ語り態勢です。自分語りではありません。
自分語りはよくもあしくも短歌の領分であるとあらためて認識しました。
ふし/めな/らも/うき/ざま/れて/蟻の/はら〈蟻〉の漢字一字がなければ「節目ならもう刻まれて蟻の腹」と読むのはむずかしいでしょう。そして、この句を家人に見せたら「蟻ってそんなたくさんには分かれてないでしょ?」と言いました。
でもこれはたぶん、分裂の感覚です。蟻を見つめているうちに知覚のなかでどんどん節が増えてゆくという。
図書館が燃え崩れゆく『失われ
こうやって宇宙をひとつ閉じてゆく」こういう句を読んでも、というか見ても、閉鎖の感覚はありません。前者は出口が、後者は入り口があいています。
ただ、あいているということは、堅牢ではないということです。なにかのはずみに、ばらばらになりそうな危うさがひそんでいます。
以上は「T.猫のゆりかご」の章から。これ、カート・ヴォネガットのSF小説のタイトルでしたね。自明すぎて誰も言わないかもですが。
すると風刺の章ということでよいでしょうか。メタ語りだし。
次の章題は「U.まだ人間じゃない」。
フィリップ・K・ディックの同名小説は未読ですが、二次元や特撮のキャラクターがたくさん出てくるから「人間じゃない」のか。
二億年後の夕焼けに立つのび太
ウルトラの制限時間越えて滝一般人が二億年後に存在し、超人は三分で退場という対比をしてみると、その逆よりもなぜかせつない。
このせつなさ、感傷は、短歌に近しいものかもしれません。
永劫が7〜11時だったころいまセブンイレブンが営業時間を創業期の7〜11時に戻すと言い出したら公式アカウント炎上まちがいなしです。
夜11時がはるかに遠い「深夜」だったころ、作者も読者も若かったはずですが、24時間営業になって以来みんな大人になれたのかと考えはじめると……沈黙。
最後の章は「V.幼年期の終わり」。
アーサー・C・クラークの小説、旧訳の『〜終り』のラストが忘れがたく、新訳の『〜終わり』も読まずにいられませんでした。人類の知性とか上位概念とか、気が遠くなるSFで。
この章の句も気が遠くなることを扱っているでしょうか。
牧場に両親だけが残される変なことを言っているようには見えません。
見えませんが、〈両親だけ〉ということは、その子はどうしたのかということになります。死んだとも出ていったとも書かれていないため、異次元に消えてしまったような説明のつかなさ、不気味感があります。
わかりにくい「見せ消ち」手法なのかも。
世界からサランラップが剝がせないいやな感じです。日常よく体験するあのうっとうしさが、世界レベルというのは。
〈世界〉という概念語は詩歌では安易に使ってはいけないムードがありますが、ここぞと決めてきました。
文学としての川柳の専門家は「V」の章にもっとも深みを見いだすのではと、門外漢はかってに想像しています。「T」は理に落ちるところがあるし「U」はサブカルチャー寄りだし。
でも「V」の最後の一句は、その想像を覆すわけではありませんが、越えます。
この抒情的な句は、その下に見えない七七がつづいているから最後が読点なのです。きっと。
だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、【ゲスト・佐藤弓生(さとうゆみお)・プロフィール】
歌人。短歌誌「かばん」会員。
著作に歌集『薄い街』『モーヴ色のあめふる』などのほか、
掌編集『うたう百物語』、共著『怪談短歌入門』などがある。