2020年09月20日

千春『てとてと』を読む きょううれしかったこと 柳本々々

「入ってもいいですか」「いいですよー」ちつ  千春『てとてと』

たとえばこの句がちつが会話してる句とかんがえてみる。性にかかわることかもしれない。性にかかわることかもしれないのに、「いいですよー」とちつは元気だ。なんでちつは元気だったんだろう。「いいですよ」とか「いいです」じゃだめだったんだろうか。

どうして、「ちつ」は「いいですよー」と元気に返事したのか?

わたしは、「ちつ」はうれしかったんじゃないかとおもう。

入れても、じゃなくて、入っても、だった。あいては全身のきもちで話してくれていた。いいですか、とていねい語だった。ちゃんとおうかがいをたててくれた。「入ってもいいですか」には、わたしはあなたと会話をしたいんです、という意思がある。それが、ちつには、うれしかったんじゃないだろうか。

わたしは、この句は、性の句ではないとおもう。あなたと会話できたことがうれしかったという、うれしさの句なんじゃないかとおもう。だから、「いいですよー」と、ことばがつい伸びた。ー、って、うれしい、ってことだとおもう。いつも。いま、辞書で、「ー」を調べたら、うれしいときにつかうでしょあなたも? と書いてあった。


posted by 柳本々々 at 18:35| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月04日

千春『てとてと』を読む 2

ぬくい神様/八上桐子

   手もとから産声あげるその文字は今の私になってゆきます

 千春さんにとっての書くことを表す一首だと思う。
 千春さんの川柳、短歌、詩は、一見やさしそうでいて手強い。大胆に自己をひらいてくれているのに、わかった気になれない。絶妙のわからなさ加減に引き込まれてゆく。

   トイレットペーパーの怯える命
   ずっとここにいたい泥の匂いだね
   こんばんは潮騒は足りていますか?
 
 カラカラ怯えるトイレットペーパー。安心する泥の匂い。夜に必要な潮騒。ことばとなって現れた感性そのものが独特。句集全体を通して、作為や虚飾はあまり感じられず、実感ベースで書かれていると思う。誤解を恐れずに言うと、ふしぎちゃん系だ。
気づいたら、トイレットペーパーをやんわり手繰っていた。弱い生き物に接するみたいに。千春さんを通して、モノ、ことに触れなおすことで、世界が更新されている。

   私は私が一番大事、脱ごう
   ひくいところでくちびるをなめる
   雪を練りはじめている私が産まれる

 自分を大事にするために、生身をさらけ出す。私を語ろうとする、ひくいところ。雪を練って産まれる私。自己愛と自己否定にゆれる、モノローグ的作品も多い。私からはぐれないように、私を確かめるために、私を受け止めるために、湧き起こってきた感情を素直に書きとめているようにも感じる。

   例えば、女の自分に慣れてきた
   時間になる母にも樹にもなれない
   初恋の人はみずうみ生理中

 60年代に時実新子から広がった私の思い、女の思いを書く川柳。旧来の性役割を前提とした社会通念に反発しながらも、女であることからは解放されなかった。千春さんの女は、その延長線上とは別の角度から表現されている。新子から60年。性別に対する違和など新しいジェンダー観が、ついに川柳にも登場した。その点でも注目していきたい。
 
   神様が泣き出したので背を撫でる
   神様は玄関先でぐーぐー満ちる
 
読み終えて表紙に納得。やわらかくてじんわりぬくくて、油断ならない、猫のような句集である。
posted by 川合大祐 at 08:50| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月30日

千春『てとてと』を読む 1

てとてとを読む/樹萄らき

 千春さんの実家で飼っている猫の名が「てと」である。表紙の「てと」はたまらなく良い表情。
 彼女の特徴として、よく樹々と会話する句がでてくる。大樹や葉っぱと会話したり、もたれかかったり、頭を撫でてもらったり、撫でてあげたり、それがとても自然で違和感なく感じるのは彼女の本性だからなのだろうか。植物的というのは気持ちのいいものだなとよく思った。
  週末に「お疲れさま」という樹々に「ほんとう」という素直な私
 彼女の作品はいつも等身大だと思う。「素直な私」も彼女だから、受け手も素直に読める気がする。
 ときどき言葉が飛びすぎて追いつけないこともあるが、それはそれで今の彼女なのだと思う。いつか、自分がそのレベルになったらわかるだろうと思いたい。
  不登校とうもろこしの葉が繁る
 彼女が不登校になったことがあるのかどうか知らないが、心は不登校になったことがあるかも知れない。とうもろこしの背の高さ、畑の中でしゃがむ彼女、葉のざらざら感と濃い緑色、そしてその中の蒸し暑さを肌に感じる。一人だけれど独りではなくて、今はとうもろこしが寄り添ってくれているのだ。この優しさは彼女だけのものだ。
  見逃した着物の裾が智恵子抄
 有名な本を題材にしても、彼女が句にすると彼女の世界となる。智恵子抄なのに、彼女が今着ている着物の裾に違和感があって足元を確認している姿がもう智恵子抄ではなくて、彼女になっているのだ。智恵子抄と彼女の共通点がそこにあるように感じる。ふわっと香ってくるのは智恵子抄の本の中の智恵子さんなのか、彼女の香りなのか、狐につままれた感じがいい。
 日常の中から生まれたのもいい。飾らないから本当にそうなんだろうなと思わせてくれる。
  手もとから産声あげるその文字は今の私になってゆきます
 今日の出来事を書いているのに、書いた先から今のことになっている時間の遡り感がいい。そして
  これでいいんじゃないのか日記を燃やす
 彼女はやはり孤独を持っている。自分が居なくなったあとに、身内や知人、見知らぬ人に自分の胸の内は読まれたくないから、書き終わった日記はその都度燃やしてしまう。キャンプで焚き火を見つめている感じで燃やされていく日記、表紙が分厚いからなかなか簡単には燃えない時間、この消滅感が実に気持ち良いのだ。
  ストーブが無いと私は毛が生える
 もちろん彼女は猫ではないので毛も生えていなければ髭も尻尾もない。しかし寒いと長座布団を二枚重ねてフリースの膝掛けを敷いて、そこに猫のように丸まって寒さをしのぐ彼女の姿が浮かぶ。この作業の方が手間がかかるだろう。
「ストーブつければいいじゃん」
「面倒臭い」
 なんて夫婦の会話が聞こえそうだ。あくまでじっとして動かない彼女と、しかたないなぁ、スイッチ押せばいいだけじゃんという顔でストーブをつける夫のまったりとした感が心地良い。
  大変な交通事故というテレビあなたと私ケンカのさなか
 これはもう誰にでもある日常で、彼女夫婦だけのことではないのだが、こうして短歌になると改めて、ああ家もそうだわぁ、と共感する。そして
  ひくいところでくちびるをなめる
 してやったりとチロッと唇を舐める彼女の顔は女だ。自分が何をすれば彼がどう動いてくれるのか分かった上で、ちゃっかり実行し、優しい彼を見つめる。
 彼女の言葉の使い方は独特で、けれどもそのチョイスがすんなりと彼女から出ていることは、普段の彼女を見ていると納得する。
  八百屋が売っている二物衝撃
 別に八百屋に2メートル大のキティちゃんが売っているわけではない。すべて八百屋にあるべき野菜や果物が売っているだけなのだが、彼女にはこの商品達の会話が聞こえるのだ。頭の片方で今日のメニューを考えている間、もう片方では野菜達の会話やらケンカやらが聞こえている。いったんは忘れるのだが、川柳を考えている時にその時のことがふと甦ったに違いない。大根と苺の意見の衝突はさぞ面白かっただろう。
  神様は玄関先でぐーぐー満ちる
 そして彼女によると、神様は玄関先でぐーぐー「満ちる」のだ。何だか宮崎駿作品を連想させる。
  スパゲティがサァーと浮世絵を描く
 更に、夕食に作ったスパゲティを皿に盛り、ミートソースをかけた瞬間、それはもうミートソースではなく浮世絵と化する。「サァー」っという表現、スパゲティのクルクル感と色を乗せるようなミートソースのタッグはもう浮世絵なのだ。だからフォークではなく割り箸を使うことになる。食べるごとに絵は変わっていく。乙な夕食だ。

 以前、らきさんの名前を使った句を書いてもいい?と聞かれ、簡単に「うん、いいよ」と承諾した。そして本にまで載ってしまった。
  あと少しあともう少しで樹萄らき
 彼女の「あたし感」って何だろう?いつか聞いてみたいような、聞かない方がいいようなふらふらした気分だ。
 鑑賞をと言われ、白羽の矢を立ててもらえたことが有難くて書いたが、いやはややはり人様の句について書くのは難しいとつくづく思う。こんな浅い鑑賞でごめんね、と紙面上で謝ってしまう。
 最後に、彼女のこの本に詩も載せている。好きな一つを挙げておく。
「顔」です。
 お粗末でございました。
posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(4) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

川合大祐『スロー・リバー』を読む 5

そこにあるもの ないもの あったもの 『スローリバー』の「   」

ながや宏高


川合大祐さんの川柳句集『スローリバー』は空白がとても気になる。1章の「猫のゆりかご」は特にそうだ。言葉で書かれていること以外の膨大な領域をつねに意識させられてしまい、なんというか途方もない気持ちになるのだ。

 の文字が消えないだろう消しゴムで

例えばこの句、一字下げによる空白がブラックホールのように思えてくる。どんな言葉も当てはめられるような気もするし、逆になにも当てはめられないような気もするのだ。正解は作者だけが知っているといったものではなく、空白そのものを表現しようとした結果このようになったのではないかと思うのだ。

目に見えぬものを書いたが文字がある
字余りになって言えない愛している


言葉にしてしまった途端、言葉にできたという心地よさと共に虚しさが去来するのは、言葉にしようがない膨大な領域を知っているからだ。伝えたいことは文字ではなく空白の中にあって、でもその空白をそのまま伝えることはできない、そんな虚しさがどうしようもなく迫ってくる。

図書館が燃え崩れゆく『失われ
」あるものだ過去の手前に未来とは「


こちらは断片的なメモ、切れ端のような言葉づかいだ。
見た目で文脈から切り離されてしまっているだけで、書かれてある文字だけで意味が完結している言葉など本当は存在しない。その言葉が書かれた背景、過去、未来にずっと連続しているなにかがあるのだ。〈 」 〉で始まり、〈 「 〉で終わることによって否応なく前後の文脈を意識させられて、前後に広がっていく空白部分に、意味を読み解こうとする気持ちごと吸い込まれていきそうになる。



【ゲスト・ながや宏高・プロフィール】 
歌人集団かばんの会 会員



posted by 飯島章友 at 23:00| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月27日

川合大祐『スロー・リバー』を読む 4

川合大祐『スロー・リバー』の数句を川柳に慣れない人が読む

佐藤弓生


川合大祐さんの作品はふだん短歌に接していて、以前「問いが自己の内部で反射しているせいか、歌いぶりはやや理屈っぽい」という評を書かせていただいたことがあります(「かばん新人特集号vol.6」2015年)。
最近作では、たとえば

  この意味の意味に意味などない意味を考えている塹壕の中
  (「かばん」2016年11月号)


と、旧約聖書の「伝道の書」みたいな哲学口調ながら、結句の〈塹壕〉はやはり閉鎖の感覚をあらわしていると思われます。いつ攻撃があるかわからないという危機感も。
ところが川柳句集『スロー・リバー』にはその感覚がありませんでした。

  中八がそんなに憎いかさあ殺せ

中学八年生まで留年したらそりゃあ疎まれるでしょう。じゃなくて。〈そんなに憎いか〉の八音のことか。
冒頭からメタ語り態勢です。自分語りではありません。
自分語りはよくもあしくも短歌の領分であるとあらためて認識しました。

  ふし/めな/らも/うき/ざま/れて/蟻の/はら

〈蟻〉の漢字一字がなければ「節目ならもう刻まれて蟻の腹」と読むのはむずかしいでしょう。そして、この句を家人に見せたら「蟻ってそんなたくさんには分かれてないでしょ?」と言いました。
でもこれはたぶん、分裂の感覚です。蟻を見つめているうちに知覚のなかでどんどん節が増えてゆくという。

  図書館が燃え崩れゆく『失われ
  こうやって宇宙をひとつ閉じてゆく」


こういう句を読んでも、というか見ても、閉鎖の感覚はありません。前者は出口が、後者は入り口があいています。
ただ、あいているということは、堅牢ではないということです。なにかのはずみに、ばらばらになりそうな危うさがひそんでいます。

以上は「T.猫のゆりかご」の章から。これ、カート・ヴォネガットのSF小説のタイトルでしたね。自明すぎて誰も言わないかもですが。
すると風刺の章ということでよいでしょうか。メタ語りだし。

次の章題は「U.まだ人間じゃない」。
フィリップ・K・ディックの同名小説は未読ですが、二次元や特撮のキャラクターがたくさん出てくるから「人間じゃない」のか。

  二億年後の夕焼けに立つのび太
  ウルトラの制限時間越えて滝


一般人が二億年後に存在し、超人は三分で退場という対比をしてみると、その逆よりもなぜかせつない。
このせつなさ、感傷は、短歌に近しいものかもしれません。

  永劫が7〜11時だったころ

いまセブンイレブンが営業時間を創業期の7〜11時に戻すと言い出したら公式アカウント炎上まちがいなしです。
夜11時がはるかに遠い「深夜」だったころ、作者も読者も若かったはずですが、24時間営業になって以来みんな大人になれたのかと考えはじめると……沈黙。

最後の章は「V.幼年期の終わり」。
アーサー・C・クラークの小説、旧訳の『〜終り』のラストが忘れがたく、新訳の『〜終わり』も読まずにいられませんでした。人類の知性とか上位概念とか、気が遠くなるSFで。
この章の句も気が遠くなることを扱っているでしょうか。

  牧場に両親だけが残される

変なことを言っているようには見えません。
見えませんが、〈両親だけ〉ということは、その子はどうしたのかということになります。死んだとも出ていったとも書かれていないため、異次元に消えてしまったような説明のつかなさ、不気味感があります。
わかりにくい「見せ消ち」手法なのかも。

  世界からサランラップが剝がせない

いやな感じです。日常よく体験するあのうっとうしさが、世界レベルというのは。
〈世界〉という概念語は詩歌では安易に使ってはいけないムードがありますが、ここぞと決めてきました。

文学としての川柳の専門家は「V」の章にもっとも深みを見いだすのではと、門外漢はかってに想像しています。「T」は理に落ちるところがあるし「U」はサブカルチャー寄りだし。
でも「V」の最後の一句は、その想像を覆すわけではありませんが、越えます。
この抒情的な句は、その下に見えない七七がつづいているから最後が読点なのです。きっと。

  だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、



【ゲスト・佐藤弓生(さとうゆみお)・プロフィール】
歌人。短歌誌「かばん」会員。
著作に歌集『薄い街』『モーヴ色のあめふる』などのほか、
掌編集『うたう百物語』、共著『怪談短歌入門』などがある。



posted by 飯島章友 at 21:00| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする