2016年12月16日

【生き抜く川柳 ⌘ 川合大祐『スロー・リバー』を読む 3】

第5回 生きよという命令

小津夜景


ブローティガンの作品はつねに無類の《貧しさ》と共にありました。彼は奇妙に病んだ人々の世界を、かぐわしい想像力と才迸る言葉によってキラキラと嘉しました。彼の作品に出て来る人々は孤独です。そして孤独な人々はだれしも素敵なのでした。

東京の初夏にブローティガン 生きよ   川合大祐

はじめて目にした時、ああ、わたしが書きたかったのはこれだ!と思ったほど気に入った句です。

以前わたしは『スロー・リバー』初読の感想を次のように書いたことがあります。

《休日の朝の、ささやかな幸福。さらっと正気なことを書けば、川合大祐にとってのSFとは、他には何ももたず、ただ己の想像力だけを武器にして孤独を生き抜いた時代に固く握りしめていた、今も手に残る銃弾のようなものであるにちがいない、と思う。》(筆者ブログ「これがSFの花道だ」)

このように書いたときわたしの脳裏にあったのは実はブローティガンのことでした。想像力を武器にこの世界を生き抜くブローティガンのキュートな人生を見て、どれだけの読者が勇気づけられたことでしょう。それと同じ感覚を、わたしは『スロー・リバー』の佇まいに覚えたのです。

けれども、結局、ブローティガンはその生涯を最後まで生き抜くことはありませんでした。

この句の「生きよ」はブローティガンに対する、そして作者自身に対する(またこの句を読んだわたしに対する)命令です。

作者(かつわたしは)はブローティガンを埋葬します。ブローティガンに「生きよ」とくりかえし命令しながら。

そういうわけで作者は(かつわたしは)ブローティガンに「生きよ」と念じつつ埋葬するために、今日も一日を生き抜くのでした。

ところで、ブローティガンという人は「じょぴ」にとてもよく似ていると思いませんか? わたしは心の底からそう思います。

《かれは1976年5月にはじめて日本にやってきた。1ヶ月半あまりの滞在のあいだ、かれは日記をつけるように詩を書いていった(中略)この詩集の作品は、その6月30日までの滞在のあいだにブローティガンが日本で何をしたか、何を見たか、何を感じたかを記録している。こんなふうに詩を書いてゆけるというのは、かれがこんなふうに詩を書いてゆく以外にきりぬけるすべのなかった深い孤独の中にあったということでもある。》(ブローティガン『東京日記』訳者あとがき)



ゲスト・小津夜景・プロフィール
句集『フラワーズ・カンフー』。日記はこちら




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2016年12月15日

【生き抜く川柳 ⌘ 川合大祐『スロー・リバー』を読む 3】

第4回 貧しさ、その愛と弔い

小津夜景


さて「生き抜く」ことに執着する川合大祐の川柳は、たえず死への言及をやめません。

今日もまたじょぴを墓場に埋めてやる  川合大祐

この句の人物は、とても変わった星に住んでいます。彼は埋葬人として「じょぴ」という、なにかよくわからないものを埋め続けているのでした。

毎日「じょぴ」は死にます。そのたびに彼は「じょぴ」を埋めてやります。このどことなく恥ずかしくみすぼらしい名を負う「じょぴ」を彼が埋めてやることに、いったい何の意味があるのでしょうか?

わかりません。

唯一わかるのは「じょぴ」が、ただ彼によって弔われる為に存在するということ。

その意味で彼と「じょぴ」とは相即不離の間柄なのでした。

「人でなしばかりの国で椅子になる」の「椅子」がそうであったように、この句の「じょぴ」も意味秩序の転倒や異化ではなく、ただ「じょぴ」という音が抱える《貧しさ》に胸を衝かれることがおそらく作者の狙いです。またそれは《貧しさ》と相即不離の自分自身を思い知ることでもありましょう。

《貧しさ》を手厚く埋葬する(それは愛の身ぶりでもあります)ために毎日を生き抜くこと──もしかすると「ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む」における珍妙な音もまた、この世界の《貧しさ》との愛憎この上ない格闘を含意していたのかもしれません。

(次回につづく)

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2016年12月14日

【生き抜く川柳 ⌘ 川合大祐『スロー・リバー』を読む 3】

第3回 わたしは椅子になりたい

小津夜景


川合大祐の川柳の美点は、破天荒な作品ばかりにもかかわらず、反権威の姿をしたナルシシズムや功名心が感じられないこと。その自意識への執着のなさは奇蹟的です。

人でなしばかりの国で椅子になる  川合大祐

この句においても、無機物萌えによってモノを人格化したり、あるいはその逆に無機物を介して個我を浄化したりといった《密かな自己愛を巡る物語》とは一線を画したところで「椅子=自分」の図式が提示されます。

「椅子=自分」は世界を異化し、それによって新たな意味秩序を編成するための装置ではありません。この辺りの雰囲気は『スロー・リバー』全体を通して眺めないと掴みにくいのですが、そもそも『スロー・リバー』は異化や秩序といったものに無関心なのです。ついでに言えば表現とか説得力とかいったものにも。

ならば作者は何に興味があるのか。

たぶんそれは「生き抜く」ことです。

人でなしばかりの国で椅子になる──決死の選択です。だって人は決して椅子になれないから。にもかかわらず、人でなしの国で生きのびるには人でなし以下のモノに成り下がるしかない時がある。自意識を少しでも抱えていたままでは、到底切り抜けられない局面というのがある。モノには成仏がない。救いがない。思考も感覚もない。しかし成仏も救済も思考も感覚も投げ捨てた圧倒的な《貧しさ》だけが、世界から自分を守る盾となる瞬間が──いや、これ以上繰り返すのはやめましょう。さしあたり今は。

最後に。この句を読んだ時まっさきに思い出したのは楳図かずお『漂流教室』の、主人公の少年が椅子になるシーンでした。生きることの不条理と恐怖を、とてつもない想像力で乗り越えるあの少年の。

(次回につづく)

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2016年12月13日

【生き抜く川柳 ⌘ 川合大祐『スロー・リバー』を読む 3】

第2回 フュージョン感覚

小津夜景


『スロー・リバー』の巻頭を飾るのは次の句です。

ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む  川合大祐

ぐびゃら岳で、じゅじゅべき壁に、びゅびゅ挑んでいる、といったシーン。「ぐびゃら」も「じゅじゅ」も歩いたり掴んだりしにくそうな、一筋縄ではゆかない質感です。「びゅびゅ」についてはふだん「風がびゅうびゅう吹く」などと言うだけあってなんらかの身を切るような状況を連想させますが、どちらかというとわたしはこの語に超人的びゅーんを感じとりたい派です。石ノ森章太郎に「超神ビビューン」なんてのもありましたし、余計に。

そんなわけでこの句、実はかなり《山岳文芸度》が高い。ありえない困難に立ち向かうさまが涙(と笑い)を誘います。

それはそうと「この句の『ぐびゃら』『じゅじゅ』『びゅびゅ』はオノマトペかハナモゲラか?」といった素敵な問いを飯島章友さんが立てているようです。わたしはこれ、オノマトペとハナモゲラのダブルミーニングになっていると思いました(ハナモゲラには意味がないので「ミーニング」と呼ぶのも変なのですが)。どの言葉も出自はオノマトペっぽい。つまり音になんらかの質感の喚起力がある。しかしながら意味に回収できるほどの具体性はない。このおおざっぱなフュージョン感覚が、雑種性の強いSFっぽくていいんですよ。

(次回につづく)

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2016年12月12日

【生き抜く川柳 ⌘ 川合大祐『スロー・リバー』を読む 3】 

第1回 砂金をさがして

小津夜景


さいきん川合大祐『スロー・リバー』を読み直している。あとがきで少しだけ触れられているが、この本の選句は柳本々々が中心となって行われた。で、わたしはその作業の手順を少しだけ聞いているせいか、読めば読むほど《柳本セレクトショップ》の色彩が強烈だ、と思う。

柳本さんの選句には明確な批評と攻めの姿勢とがある。さもなくば、こんな選句はなかなかできない。仮にじぶんが選句を依頼されたとしたら、たとえば

白鳥を解き放つため汁でいる  川合大祐
巨大像ナゾナゾのまま祈り出す
画ではなく体のほうのピカソ裂く  
肉片のバーバパパなり花筏


あたりはきっと句集に入れたと思う。あと時と場合によっては

最強がとなり町へと逃げて来る   
麺類と人類が遭う歴史秘話


なども入れてしまったかもしれない。また実は私小説風川柳を多く詠んできたらしい川合さんには、

飛べない日くらいは翼出しておく  
愛されてしまったあとの傷薬


といった雰囲気の句も少なくない。

けれども、もしも今挙げたような安定感のある句、すなわち言い方をかえれば意味構成が無難で、世間とのかみ合いが良く、読者が何か言うのに便利な句ばかりが目につくような体裁だったら、『スロー・リバー』はここまで"もの珍しい"句集にはならなかったにちがいない。柳本さんは、川合さんという人間の表皮ではなく、その割れ目やすきまに挟まっている砂金をごっそりさらったのだ。ふつうの人は澱や塵とみなしてしまいがちな、かけがえのない輝きを求めて。

(次回につづく)

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