2022年04月11日

『なしのたわむれ』と狂歌

このブログに何度も文章をご寄稿いただいた小津夜景さんがヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の須藤岳史さんと本を刊行されました。『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』(素粒社)です。お二人の往復書簡の体裁になっています。

注目したのは小津さんが与謝野晶子に「狂歌」の遺伝子を見出していたところです。小津さんのブログでは本の出るだいぶ前、そのことについて書かれていたと思いますが、それを読むまでは晶子と狂歌の関係性など、はずかしながら考えてもみませんでした。『みだれ髪』って新しさとか奔放な情熱とかが指摘されがちです。でも、狂歌的な理知の面はあまり指摘されることがないような。晶子は政治思想や社会思想でも進歩的な面ばかり強調されますが、じつはそう都合のいい人でもなかったんです。歌においても同じなのでしょうね。

狂歌といえば、先行する和歌の文句取りやもじりなどがいろいろあります。狂歌の代表的な作家である大田南畝の作品にも、百人一首の歌や歌人を題材にしたこんなものが。

わが庵は都の辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治 
いかほどの洗濯なればかぐ山で衣ほすてふ持統天皇


1首目は宇治の「う」を卯になずらえて十二支をぜんぶ盛り込むという趣向。2首目は「どれだけ洗濯物が沢山あんねん!」という漫才的なツッコミ。雅な世界を俗に下ろして面白がるところに、百人一首への親しみが感じとれます。

与謝野晶子の歌に話を戻すと、小津さんは第20信「みえないたくらみ」で、晶子の歌を類似する狂歌(や狂歌的な歌)と並べて鑑賞しています。その中から1セット引いてみます。

ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里  頭光つむりのひかる
ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清瀧きよたき夜の明けやすき  与謝野晶子


頭光は狂歌四天王の一人。小津さんの言葉でいうと、晶子の歌は「ラップ的手法で攻めたそのクールさ」が魅力。♪ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 水の清滝 夜の明けやすき HEY HO! みたいな。

ところで狂歌というジャンル、何と! 明治になっても衣替えをして人気を博していたんです。詩文学の歴史に興味があるならご存じの方も多いでしょうか。その人気は石川啄木の文章からも窺い知れます。啄木が明治42年4月11日の「ローマ字日記」にこんなことを書いているんです。

例のごとく 題を出して 歌をつくる。みんなで 十三人だ。選のすんだのは 九時ごろだったろう。予は この頃 まじめに歌などを作る気になれないから、あい変らず へなぶってやった。そのふたつみつ。(筆者注:原文はローマ字表記)

「題を出して歌をつくる」とは、与謝野鉄幹・晶子夫妻の家で催されていた徹夜の題詠歌会のこと。このへなぶるという言葉がポイントです。当時、読売新聞では「へなぶり」という名称の明治新狂歌が人気を博していました。へなぶってやった、とはそこから来ている言い回しだと思われます。ちなみに日記には、二つ三つと言いながら歌が9首書かれています。その中から啄木のへなぶり歌を2首引いてみましょう。こちらも原文はローマ字表記です。

ククと鳴る鳴革なりかわ入れし靴はけば蛙を踏むに似て気味わろし
君が眼は万年筆の仕掛けにや絶えず涙を流していたもふ


まあ、これが狂歌かといわれれば少し趣が違う気がします。啄木は、真面目に歌などつくる気になれないからへなぶった、と書いていました。だから、不真面目だったり戯れ言だったりする歌、という意味合いでへなぶるを使ったのかも知れませんね。この後の日記には、歌会をばっくれたことが書かれています。なにはともあれ狂歌を踏まえた歌をつくっていた晶子の歌会で、啄木がへなぶり歌なんて書いていたとは愉快ではありませんか。

「へなぶり」の創始者のことにも触れておきます。それは田能村秋皐たのむらしゅうこう、筆名を朴念仁や朴山人という読売の記者です。最初は川柳欄の選者をしていましたが、明治38年2月24日に読売新聞紙上に朴念仁の「へなぶり」欄が新設されると読者投稿もされるようになり、大人気となったのでした。

ただ、前言を翻すようで恐縮ですが、朴念仁に先行する人物がいたんです。それは根岸派歌人だった阪井久良伎。久良伎は「へなづち」と称して狂歌体の短歌を新聞「日本」に掲載していました。

阪井久良伎。川柳をしている人ならば井上剣花坊と共に川柳中興の祖として知っている大人物。でも、最初は歌人として創作活動をしていたんですね。久良伎のへなづちが盛んだったのは明治33年から35年といいます。新狂歌をブームにしたのは朴念仁でしたが、そのきっかけを作ったのは久良伎だったわけです。柳人が時流に乗るのが下手なのは、今も昔も変わらないようですね。でも、だからこそ川柳界は居心地がいい。

面白いのは、へなづちもへなぶりも共に鉄幹・晶子の「明星」を標的にしていたことです。次の歌は最初がへなづち、次がへなぶりです。

絵にも見よ誰れ腰巻に紅き否む趣あるかな鰒びとる蜑
恋ごろも菫々菜すみれの押し葉もてあそび式部三人牛店ぎうやを出づる


浪漫風の明星調は新狂歌からすれば格好のターゲットだったのかも知れません。それにしても可哀想な晶子。

へなづちやへなぶりについてさらにお知りになりたい方のため、わたしの所有している本を書き留めておきますね。

・尾藤三柳評論集 川柳神髄(尾藤三柳著、新葉館出版、2009年)
・石川啄木・一九〇九年(木股知史著、沖積舎、2011年)
・川柳探求(前田雀郎著、有光書房、1958年)  ※へなづち・へなぶりの名前の由来の推定についてのみ
国立国会図書館デジタルコレクションで『へなづち集』や『へなぶり』を閲覧できます

2020年09月27日

夏目漱石と素晴らしき格闘家たちD

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夏目漱石と素晴らしき格闘家たちC

つづいてレスリングの連作を見てみましょう。昭和7(1932)年の6月に行われた試合が詠まれています。

   レスリングを観る
息つまるヘツドロツク、はつと思ふまにどたりといふマツトのひびきだ
じりじり、両足で締めつける物凄い静けさのなかで、誰かごくりと唾をのむ
ねぢきれさうな激しい意欲を身のうちに感じる――ゴングよ、早く鳴れ


ボクシングの連作と比べたとき、いささか分析的な文体に感じます。競技の質的な違いが文体に影響を及ぼしているのでしょうか。連作の中には日付、会場、選手名などが出てこないので、どんなレスリングの大会だったのかはわかりません。ただ、この年はロサンゼルス五輪が7月30日より行われました。レスリングには、わが国からも7名の柔道有段者が出場。その中には、のちに「日本レスリングの父」と呼ばれる八田一朗もいました。連作の試合が6月ということを考えると、一つの可能性としてですが、五輪代表選考にかかわる試合なのかも知れません。

昭和6年〜7年は、日本のアマチュアレスリングの形成期。昭和6年には、庄司彦男・八田一朗・山本千春らによって、早稲田大学レスリング部が創設されました。これが日本初のレスリング部です。6月10日には大隈講堂に「リング」を作って公開試合も行われました。しかし、まだアマレスの統一的な協会はなく、夕暮の連作が詠まれた昭和7年には複数の団体が存在していました。八田一朗と山本千春の大日本アマチュアレスリング協会、講道館のレスリング・グループ、庄司彦男の大日本レスリング協会と、三団体が鼎立していたのです。

ロス五輪へ出場する選手は、この三団体からそれぞれ選出する折衷策がとられました。しかし、結果は全選手とも敗退。この時期の日本のレスラーはまだ柔道家だったので、仕方がなかったのかも知れません。柔道とレスリングはおなじ組技系格闘技ではありますが、ルールの違いや道着の有る・無しで技術は大きく変わってしまうのです。

なお庄司彦男(庄司彦雄とも)とは、前述したプロレスラーのアド・サンテルと大正10(1921)年に他流試合をおこなった柔道家です。結果は、道着をつけた試合だったにもかかわらず時間切れ引き分け。しかも、試合内容は終始サンテルが庄司を圧倒したのでした。ここでは詳しく述べませんが、サンテルはジョージ・ボスナーという柔術を取り入れたプロレスラーのもとで「着あり」の戦い方を習得し、その後アメリカで野口清(野口潜龍軒)、伊藤徳五郎、三宅多留次、坂井大輔といった柔道・柔術の強豪と戦い、勝利していたのです。ある意味、逆・前田光世ともいえましょう。

庄司彦男には思い出があります。わたしは学生のとき国会図書館で、庄司彦雄・山本千春著『レスリング』(三省堂/昭和6年)を閲覧したことがあります。たしか日本で最初のレスリング書だったと思います。読み進めていくと、アマチュアの技術が文章とイラストで紹介されていたので、ああアマレスの本か、と思いました。ところがです。最後のほうになっていきなり、プロレスリングの世界ヘビー級王者フランク・ゴッチのトー・ホールドが解説されていたため、え? と困惑してしまいました。要するにレスリングとして、アマチュア・レスリングとプロフェッショナル・レスリングが総合的に解説されていたわけですね。

現在はアマレスとプロレスとは全くの別物になりましたが、アメリカのプロレス・オールドタイマーには、プロとアマとを包括してレスリングを語る人も少なくありません。それに英語でWrestlingを検索すると、アマレスもプロレスもヒットします。庄司の感覚もそれと近かったのではないでしょうか。

庄司はサンテルとの戦いの後、政治学を学ぶためアメリカに留学しました。そのときプロレスリングについても知識を深めたといいます。オリンピック志向の八田に対し、庄司はプロレス志向。二人の方向性には違いがあったのです。ただし、八田はプロレスリングに否定的ではありませんでした。年季が入ったプロレスマニアなら、ビル・ロビンソンの来日や鶴田友美(ジャンボ鶴田)のプロレス入りなどで、八田がどれほどプロレス界に貢献したかご存じの方も多いと思います。

 そしてこの年、ブリティッシュ・ヘビー級チャンピオンになった私に、ジャパンへ来ないかというオファーがあった。これはジョイント・プロモーションのプロモーターのひとりであったジョージ・レリスコウに、ジャパンのアマチュアレスリング協会会長のハッタ(八田一朗)から連絡があってのものだった。

『人間風車ビル・ロビンソン自伝 高円寺のレスリング・マスター』(ビル・ロビンソン著/エンターブレイン)

ロビンソンが昭和43(1968)年に初来日をしたのは国際プロレスという団体でした。その国際プロレスの社長だった吉原功は、早稲田大学レスリング部の出身であり、八田は吉原のことをずっと支援していたのです。

さてロス五輪の後、庄司と講道館はレスリングから撤退しました。その結果、八田の大日本アマチュアレスリング協会(現・日本レスリング協会)が残りました。創成期の日本のアマチュア・レスリングの歴史に興味のある方は、以下を参照してください。

・「今泉雄策の考えるレスリング」内の〈八田一朗会長以前の日本レスリング史〉
http://yusaku.jp/old/hatta-goroku18.htm
・同 〈八田一朗会長以前のレスリング史U〉
http://yusaku.jp/old/hatta-goroku21.htm

余談ですが、八田一朗は俳人でもありました。わたしが10代のころに初めて買ったアマレスの本に、講談社スポーツシリーズ『レスリング』(笹原正三 著/講談社)があるのですが、その中に、

10年の血と汗にじむ金メダル

という八田の句が紹介されており、加えて「ホトトギス」の同人であることも書かれていました。もっとも、当時は「同人」や「ホトトギス」の意味はわかりませんでしたが……。八田の家は高浜虚子の家と近く、虚子の次男である友次郎とは同級生だったそうで、高浜虚子に師事したのもよくわかります。昭和30(1955)年には句集『俳気』(花鳥堂)を出版。なお、八田の俳句についても「今泉雄策の考えるレスリング」にいくつか記事があります。

・【レスリング回想録】
http://yusaku.jp/shouwa/index.htm

ここまでわたしは夕暮の連作について、アマレスであることを前提に話を進めてきました。でも、一首目に「ヘツドロツク」という言葉が用いられています。これは一般的には、プロレスの技として認識されています。もしもですよ、この歌がプロレス志向だった庄司の団体の試合を詠んだものだとしたら……。二首目の「両足で締めつける」もプロレスのボディ・シザースと思えなくもありません。庄司がアメリカに留学した1920年代のプロレスリングでは、エド・ストラングラー・ルイスとジョー・ステッカーがヘビー級のトップレスラーでした。ルイスの必殺技はヘッド・ロック。ステッカーの必殺技はボディ・シザース。見事に符合します。いずれにせよ夕暮の連作には情報が少ないため、はっきりとしたことは何もわかりませんが、力道山が登場する二十数年も前に「ヘツドロック」が短歌に登場した事実は驚異的です。

漱石がイギリスでレスリングを観てから30年。いよいよわが国でレスリングが本格的に根付いていく様子を、前田夕暮の短歌をきっかけに概観してみました。
(つづく)

2020年09月09日

夏目漱石と素晴らしき格闘家たちC

前回の記事
夏目漱石と素晴らしき格闘家たちB

『漱石日記』を読むうちに、わたしがいつも短歌を投稿している「かばん」の関係者の名前を見つけました。それは明治42(1909)年6月3日(木)の日記。そこに「前田夕暮まえだゆうぐれ来」とあるのです。たったこれだけの記述なので、どんな用事で来たのかはわかりませんが、思いがけず歌人の前田夕暮と漱石とのあいだに交流があったことを知りました。

このころの夕暮は、明治40(1907)年と41年にパンフレット歌集『哀楽』を出し、明治43(1910)年には実質的な第一歌集『収穫』を出版。これが高い評価を受けました。この年には結婚もし、翌44年には歌誌「詩歌」を創刊。大正元(1912)年には第二歌集『陰影』を出版しました。ですから明治42年というと、夕暮が脚光を浴びる直前ということですね。

その前田夕暮が「かばん」とどう関わっているのか。簡単にお話しします。夕暮が創刊した「詩歌」は夕暮の没後、長男で歌人の前田透が引き継ぎました。が、その透が昭和59(1984)年に急逝すると、「詩歌」のメンバー数人が「歌人集団ペンギン村(現・歌人集団かばんの会)」を立ち上げ、「かばん」誌を創刊したのです。初期の会員の多くも「詩歌」の会員だったと聞きます。そのような次第で前田夕暮は、「かばん」のルーツともいうべき歌人なのであります。

さて、その夕暮と格闘技とがどう結びつくのでしょう。何と夕暮は、ボクシングとレスリングの連作を昭和7(1932)年に書いていたのです! 時間の流れにそって詠まれているので本当は連作全体を見たいところですが、そうもいきませんのでそれぞれ3首だけ引用させていただきます。

   拳闘  日比谷公会堂の一夜
ぎらぎら光る眼だ。真黒な肉塊がいきなりとびだす、ボビイ!(黒人ボビー対野口)
直突ストレートだ、空撃ミツスだ、鈎突ノツクだ、ボビイの顎が右から左から撃ちひしがれて――ゴング
撃倒された闘士のうしろから、白いタオルがひらりと投げられる


『青樫は歌ふ』(1940年/白日社)より。野口とは、ライオン野口こと野口進だと思われます。野口ボクシングジムの創始者です。有名なピストン堀口より少しだけ前の強豪です。第2代・第3代・第4代・第7代の日本ウェルター級王者を獲得しました。一方のボビーとは、フィリピンのボビー・ウィルスという選手のことだと思われます。ボクサーの戦績・戦歴を掲載している「ボクシング 選手名鑑 -戦績一覧- -戦歴一覧-」というブログがあります。そこを参照させていただいた結果、野口とボビーは昭和6(1931)年から昭和7年にかけて5回対戦しています。

・ボクシング 選手名鑑 -戦績一覧- -戦歴一覧-
http://fanblogs.jp/boxingmeikan/archive/459/0

昭和7年ですと、1月11日、4月15日、4月20日に二人は対決。いずれも野口が勝利しています。夕暮の連作には日付が記されていないのですが、手掛かりはあります。「白いタオルがひらりと投げられる」とあるので、夕暮の観た試合は野口のTKO勝ちだったことがわかるのです。先のブログによれば、野口がTKOで勝利したのは4月20日の試合なので、おそらくそれを詠んだものと推測できます。なお、初期の日本のプロボクシングに関心がある方は、「日本プロボクシング協会」内の〈ボクシングの伝来と協会の歴史〉を参照なさってください。

夕暮の作品は口語自由律の短歌です。この〈スポ根文体〉は、定型だと難しいかも知れませんね。一見すると、試合の記事の断片なり、実況の文字起こしなりに見えそうな気がします。昭和初期にプロボクシングを詠んでいたことは驚きですが、夕暮の文体も驚きなのです。夕暮は昭和に入ると、それまでの定型短歌から口語自由律に作風を一新しました。引用歌はその時期の短歌です(のちにまた定型に回帰します)。
(つづく)

2020年08月31日

夏目漱石と素晴らしき格闘家たちB

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夏目漱石と素晴らしき格闘家たちA

1901年12月11日のバーティツ大会を記事にしたフィットネス雑誌『サンドウズ・マガジン・オブ・フィジカル・カルチャー』ですが、このサンドウというのは人名なんです。彼の名はユージン・サンドウ。「近代ボディビルの父」と呼ばれる彼こそが、サンドウズ・マガジンを創刊した人物です。

サンドウは1867年にプロイセンで生まれました。虚弱だったサンドウに新鮮な空気を吸わせてあげようと、お父さんが彼を連れてイタリアを訪れたときです。古代の彫刻の逞しい肉体にサンドウはすっかり魅せられ、みずからの肉体を彫刻することに目覚めたのでした。当時の有名なトレーナーのもとで肉体を鍛え上げ、1889年にロンドンのストロングマン・コンテストで優勝。これにより彼の名声は一気に高まりました。

その後、筋肉・怪力パフォーマンスで各国をまわり、人気を博しました。殊にイギリスでのサンドウの需要は高かったといいます。その理由は、当時のイギリス労働者階級の深刻な虚弱体質にあったようですが、詳しく知りたい方は坂上康博 編著『海を渡った柔術と柔道 日本武道のダイナミズム』(青弓社)所収の岡田桂著「柔術家シャーロック・ホームズ、柔道家セオドア・ルーズベルト」をお読みになってください。

サンドウは実業家としても優れていました。たとえばトレーニングの教則本を出し、通信指導を行っていました。また運動器具の開発をしたり、おしゃれなスポーツクラブを開設したり、先にも述べたスポーツ雑誌を刊行したりと、かなり手広く事業を展開していたようです。

わが国でもサンドウのトレーニング法は紹介されました。明治33(1900)年、嘉納治五郎の私塾連合である造士会が『サンダウ体力養成法』(造士会 編/造士会)を出版したのをはじめ、サンドウに関わる本が幾冊か出ました。柔道の生みの親である嘉納治五郎もサンドウから影響を受けていたわけです。ちなみに嘉納は、明治26(1893)年の高等師範学校校長時代に、夏目漱石を英語講師として迎え入れています。人の縁とは不思議なものですね(参考:全日本柔道連盟HP内「コラム第7回:ラフカディオ・ハーンと夏目漱石」)。

1901年、サンドウは初のボディビル・コンテストをロイヤル・アルバート・ホールで開催しました。大会は大成功。そのときサンドウらとともに審査員を務めたのはコナン・ドイルです。なんと! ドイルとサンドウには交流があったのです。『コナン・ドイル シャーロック・ホームズの代理人』(ヘスキス・ピアソン・植村昌夫 訳/平凡社)にはこう書かれています。

彼はユージン・サンドウに筋肉増強法の個人指導を受けた。サンドウは象を持ち上げ大砲の弾でお手玉をしてみせた怪力男である。

ドイルはスポーツマンとして何にでも手を出したようですが、クリケットは特に上手だったようです。同じくこう書かれています。

クリケットでは打者としても投手としても一流で、由緒あるマリルボーン・クリケット・クラブの一員として何度か「ファーストクラス」の試合に出場した。ドイルは投手としてW・G・グレースのウィケットを倒してアウトにしたことを大いに誇りにしていた。

近年、日本でも筋トレブームで、「筋肉は裏切らない」なんて言葉もよく耳にしますが、ここまで見てきたように筋トレブームの先駆けは、まさにユージン・サンドウだったわけです。尤もわたしは筋トレ的な筋肉がちょっと苦手なので、このブームに乗っかってはいませんが……。なお、彼はトーマス・エジソンが発明した映写機「キネトスコープ」作品へも出演しました。こちらはネットでも観ることが出来ます。

ところでスポーツマンといえば、夏目漱石もスポーツが得意だったと聞きますよね。親友の正岡子規も大変な野球好きでしたが。『漱石先生とスポーツ』(出久根達郎/朝日新聞社)にはこう書かれています。

 そんな子規が、大学予備門時代は、ベースボールに熱中していた。わが国ベースボール草創期に、このスポーツを世にひろめた功労者の一人である。
 一方、漱石も大学時代は、器械体操の名手であった。抜群にうまかった、という同級生の証言がある。ボートも漕いでいる。東京から横浜まで力漕した、という。水泳、乗馬、庭球も行っている。野球も体験しているようだが、これは子規の感化だろう。
 二人とも若い頃はスポーツマンだったのだ。

夏目漱石がイギリスに留学していた時期は、コナン・ドイルが活躍していた時期でもあり、またサンドウのフィジカル・カルチャー(身体文化)がイギリスを席巻していた時期とも重なります。それと関りがあるかはわかりませんが、明治42(1909)年の『漱石日記』にこんなことが書かれているんです。

 六月二十七日〔日〕 雨。西村にエキザーサイサーを買って来てもらう。これを椂側えんがわの柱へぶら下げる。

 六月二十八日〔月〕(中略)エキザーサイサーをやる。四、五遍。からだ痛し。

「からだ痛し」を見てジャスミン茶を吹き出しそうになりました。エキザーサイサーという英語の商品名からして輸入物の運動器具なんでしょう。時期からすると、サンドウの開発した器具を買ったのかも知れませんね。
(つづく)

2020年08月04日

夏目漱石と素晴らしき格闘家たちA

前回の記事
夏目漱石と素晴らしき格闘家たち@

ところで、漱石が観た興行についてネットで調べてみると、その興行と思しきものに言及した文章がいくつか見つかりました。いちばん詳しく載っていたのは、1902年1月の『サンドウズ・マガジン・オブ・フィジカル・カルチャー』の記事です。その記事では、1901年12月11日にセントジェームズホールで催された「バーティツ」の大会がレポートされています。以下、そこから引用させていただきます。

But truth to tell I could not go far; for it was with the intention of learning, so to please the Fates and Mr. Barton-Wright, that I recently attended the Tournament which was recently promoted by the latter, and held at the St. James's Hall on December 11th last, with a view to placing before the public a scientific exposition of his much-discussed system of self-defence - Bartitsu.

The retirement of the Japs brought on the chief event set down for decision. This had nothing to do with Bartitsu, but was a wrestling match for £50 between A. Cherpillod, Swiss Champion of the Continent, and Joe Carroll, Professional Champion of England, under catch-as-catch-can Rules.

(引用元はどちらも「Journal of Western Martial Art」
https://ejmas.com/jmanly/articles/2001/jmanlyart_sandows_0301.htm)

バーティツ。シャーロック・ホームズが好きな方には有名かも知れません。スイスのライヘンバッハの滝の上で、ホームズが宿敵モリアーティ教授と揉み合いになった際、日本の格闘術「バリツ」を使ってモリアーティを滝壺に落とし助かった、というエピソードがあります。『空き家の冒険』でのホームズの述懐です。そこでコナン・ドイルが記したバリツなのですが、正確には「バーティツ」だという説が現在は有力なんです。

バーティツは、イギリス人のエドワード・ウィリアム・バートン=ライトが始めた自己防衛術・総合格闘術です。柔術・ボクシング・レスリング・サバット・ステッキ術などの要素で成り立っていました。彼は仕事で日本にいたとき、柔術を学んだことがあったのです。わたしが子供の時分は、バリツの正体は日本の武術だとか、柔術・柔道だとか、相撲だとか、馬術だとか諸説あったものですが、イギリス人が確立した格闘術のことだったわけです。

バーティツの拠点となったのは、バートン=ライトが設立した通称「バーティツ・クラブ」(正式にはバーティツ・アカデミー・オブ・アームズ・アンド・フィジカル・カルチャー)です。ここでは、ステッキ術・サバットの専門家、プロレスラー、柔術家などが雇われ、指導にあたっていました。女性のための護身教室も開かれていたみたいですよ。

漱石がレスリングを観たと書いた書簡の日付は、1901年12月18日であり、バーティツの大会と日にちの前後関係で整合性がとれています。また、会場もセントジェームズホールで同じです。加えて、スイスの王者vsイギリスの王者という点も合致しており、漱石が観た興行はこの可能性が高いと思われます。

なお、引用文中に出てくるスイス王者のArmand Cherpillodは、バーティツ・クラブでレスリングの指導員をしていたプロレスラーです。指導員時代には、日本人指導員との交流を通じて柔術の技術を習得。スイスに戻ってからは、日本の武術を教えていたということです。

さて、このバーティツの大会では、日本の柔術家たちによるデモンストレーションやエキシビションが行われました。しかしながら、柔術家による本式の試合は行われなかった模様。もし漱石の書簡にあったように、柔術家vsレスラーの勝負が実現し、柔術が勝利していたなら、説得力が格段に増していたと思います。きっとバートン=ライトとしては、小さい柔術家が大きいレスラーを投げ飛ばすシーンを観客に見せつけ、あっと言わせる腹積もりだったのでしょう。仮にそうなっていたら、漱石はどんな風に子規へ書き記していたことか。見てみたかったものです。
(つづく)

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