先日は、万葉集の笑いとして戯笑歌・嗤笑歌について書きました.
万葉集におけるマイク合戦
しかし万葉集には、それとは質の違う笑いも掲載されています。
おなじ巻16には「
無心所著歌」(心の
著く所無き歌)二首が載っています。「心」とは、現在でも謎かけ芸人が「その心は?」というように、意味・内容ということですから、無心所著歌とは意味を成さない歌というところでしょうか。
あるとき、天武天皇の第三皇子の舎人親王が側に仕えている者に、由の有って無い歌をつくる者がいたら褒美を与える、と言われました。難しいお題です。ところが、すぐに二首つくった人がいました。安倍朝臣
子祖父です。子祖父の歌は親王に認められ、みごと褒美をもらったそうです。
そのとき子祖父がつくった二首は以下のとおり。男女のカップルの体裁をとっていて、先の歌が男から女へ、後の歌が女から男へ書かれています。
我妹子が額に生ふる双六の牡の牛の鞍の上の瘡(3838)
わが背子が犢鼻にする円石の吉野の山に氷魚ぞ下がれる(3839)
・我妹子→男性が、妻や恋人などを親しんでいう語。
・瘡→はれもの。できもの。
・背子→男性を親しんでいう語。多くは、女性が夫や恋人などを親しんでいう。
・犢鼻→今で言うふんどしのようなもの。
・氷魚→鮎の幼魚。琵琶湖産、宇治川産が有名。
男女が互いにからかい合う図式になっています。直訳すると先の歌は、彼女の額に生えている双六盤の強く大きな牡牛の鞍の上のできもの。後の歌は、彼がふんどしにしている丸石の吉野の山中に鮎の幼魚がぶら下がっている。まあ、おおよそこんなところでしょうか。
何か、言葉派の川柳を想わせる二首です。意味が取れそうなのに全体としては意味を取り切れない。由が有って無い歌としての基準を満たしています。子祖父が川柳を書いたらさぞ面白い句を書くでしょうね。
ところで言葉派といえば……川柳の世界には「意味のない句」を目指す方がまれにいらっしゃいます。でも、わたし思うのです。意味のない句というものを言語的動物である人間が作れるのでしょうか。(将来は分かりませんが)いまの段階でのわたしは、それは厳しいんではないかと思います。
簡単に言うと、意味というものは、どうしたって発生してしまうからです。じつは上掲の二首も、親しい男女(夫婦?)が互いの局部を詠んでいる、という解釈があるのです。あくまでも局部を示唆している、という程度かも知れませんが、それでも意味に違いはありません。意味が生じてしまっている。
そもそも何もないところにすら意味を見出すのが鍛えられた鑑賞者です。詩歌でも音楽でも演劇でも、そこでどんなに空白や無音や間が使われたとしても、鍛えられた鑑賞者ならそこに意味付けをする。これは経験上、分かる方も多いと思います。
それに上掲二首で使われた言葉の間には、意味的な対応もあるのです。二首はそれぞれ反対概念で構成されています。「我妹子」「わが背子」という男・女、「額」「犢鼻」という上部・下部、「双六」「円石」という四角・円、「牡の牛」「氷魚」という大・小/強・弱、「鞍の上」「下がれる」という上方・下方。即詠だけに意味上の対応が働いたのでしょうか。それとも先行する歌に言葉を当てはめ直したのでしょうか。いずれにせよこのような対応は、子祖父が言葉の意味をしっかり理解した上で二首をつくった痕跡です。そうであれば、単語レベルでなく一首全体としても意味は生じてくるでしょう。
と、いろいろ書きましたが上掲二首は、けっして明快な意味はなさない。由の有って無い歌というお題に見事適っています。万葉の頃から言葉派がいたのですから、それは何も特殊な書き方ではなく、詩歌一般にあって然るべきなのでしょう。そんなことを考えました。